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新聞の切抜きから
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 中馬清福
   2005/07/17
  ・番犬はどこへ行ったか
   2005/07/24
  ・米軍再編でどうなるか
   2005/07/31
  ・靖国はなぜ悩ましいか
   2005/08/14
  ・敗戦体験をどう生かすか
   2005/08/21
  ・東京裁判から何を学ぶか
   2005/08/30
  ・観客型政治はなぜ危険か
   2005/09/18
  ・民の声は誰がつなぐのか
   2005/09/25
  ・集団的自衛権は是か非か
   2005/10/16
  ・有事に民を守るのは誰か
   2005/10/23
  ・新聞の賞味期限は近いか
   2005/11/20
  ・誰が清華大をつくったか
   2005/11/27
  ・米中関係はどうなるか
   2005/12/11
  ・12.8を忘れていいか
   2005/12/18
  ・骨ある外交は無理なのか
   2006/01/01
  ・希望なしに生きられるか
   2006/01/15
  ・子どもを救えるのは誰か
   2006/02/19
  ・なぜ教育基本法の改定か
   2006/02/26
  ・「国家に有用」だけでいいか
   2006/03/12
  ・言葉はなぜ空回りするか
   2006/03/19
  ・軍事介入で人を救えるか
   2006/04/09
  ・自衛隊が戻る日はいつか


 信濃毎日新聞社説
   2005/12/08
  ・メッセージは時を超え
   2005/12/31
  ・「職業人」はどこへいった




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中馬清福(信濃毎日新聞主筆)


 2005年(平成17年)7月17日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 番犬はどこへ行ったか
   ―日米安保の変容進む―

 番犬論争という伝説がある。
 日米安保条約をめぐる国会論争がまだ華やかだった一九六六年、在日米軍の存在理由とは何か、と野党に問われた外相・椎名悦三郎は答弁した。「米軍は日本の番犬でございます」
 いくらなんでも番犬はひどいではないか、と質問者が重ねて聞くと椎名はにこりともしないで言った。「失礼しました。番犬様でございます」

 ■世界へ拡大
 ところが、調べてみるとかなり違う。たしかに椎名は、番犬・番犬様という言葉を使っている。ただテーマは核抑止力についてで、椎名はこう答えている。
 「核兵器のお陰で日本が万一にも繁盛しておりますというような、朝晩お灯明をあげて拝むというような気持ちでは私はないと思う。ただ外部の圧力があった場合に、これを排撃するという、いわば番犬、と言っちゃ少し言い過ぎかもしれぬけれども、(中略)危害を加えるという場合にはこれを排撃する、こういうための番犬と言っていいかもしれません、番犬様ということのほうが」
 なぜ椎名答弁を「在日米軍番犬論」と思い込んでいたのだろう。それは、当時の状況がこの例えにぴったりだったからではないか。高度成長期の日本には、在日米軍を傭兵(ようへい)視する空気すらあった。ソ連との対決で忙しい米国はあまりやかましいことを言わなかった。まだまだ牧歌的な日米安保の時代だったのだ。
 それが変わった。とくにこの数年、質的には別物、と言うほどの変化である。どんなふうに。

 安全保障が専門の梅林宏道さんたちは、今年二月の日米安全保障協議委員会(通称、2プラス2)が出した共同発表に注目した。
 「日米安全保障条約」という言葉が完全に消えていた。十年前の日米安全保障共同声明では「日米安保条約を基盤とする両国間の」とあったのが、今回は「日米安全保障体制を中核とする日米同盟関係が」となっている。
 どう違うのですか。梅林さんはこう答えた。
 「条約を基盤とする、と明示することで、法の支配がはっきりします。体制では抽象的で、法的根拠があいまいになります」
 日米安保条約の目的は、日本の安全と極東の平和である。しかし米国は、この枠を崩したい、世界規模の事態に日米で対応できる仕組みにしたい、と強く働き掛けてきた。二月の日米共同発表は、それが仕上げの段階に入ったことを意味していないか。
 私が気になるのは、共同発表の次の文言だ。「日米両政府は日米安保体制の実施および同盟関係を基調とする協力を通じて、共通の戦略目標を追求するために緊密に協力する」
 続けて、地域・世界の双方について、日米共通の戦略目標が掲げられている。問題は「世界における共通の戦略目標」にある。
 そこに書かれているのは、法の支配などの基本的価値を推進するとか、テロを防止し根絶するといった、誰も反対できない美しい言葉だけである。

 ■日米は違う
 テロを防ぐ。基本的人権を大切にする。私たち日本人もそのために力を尽くしたいと思っている。だが、それがいきなり、軍事力を伴う「安保体制」や「同盟関係」を通じて、となると話は別だ。
 価値観が違うからといって、テロリストをかくまった疑いがあるからといって、いきなり武力で踏み込む、といった手法を日本はとってこなかった。そこが先制攻撃論の米国政府とは違う。
 しかし、この世界共通の戦略目標を読む限り、そうした認識の違いがどこまで許されるか心配である。例えば、テロの根絶、という極めて漠然とした名目を理由に、米国から「日米安保体制の実施」を求められたら、日本はどうするのだろうか。
 日米安保条約があったから、戦後の日本は安全だったのか。逆に危険だったのか。仮定の話に結論を出すことは難しい。ただ、これまで有用だったとしても、日本の番犬様から世界が相手の補助警察官になろうとしている新安保体制が、日本にとって有用かどうかはまったく別の問題である。
 次回も日米安保をとりあげる。少し角度を変えて、話題の「米軍再編」とのからみで考えると、また別の風景が見えてくる。

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 2005年(平成17年)7月24日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 米軍再編でどうなるか
   ―安保の枠さらに逸脱―

 大きな池がある。ハスの葉がいっぱい浮いている。その上を力工ルが行ったり来たりしている。のんびりした、いい情景だ。
 しかし、ハスを軍事基地に、カエルを米軍に見立てると、様相は一変する。世界のあちこちに基地があり、それを伝って米軍はどこへでも行ける。
 これが「ハスの葉」戦略だ。米軍再編の狙いを上手に言いあてた表現だということで、最近、目にするようになった。

 ■基地に濃淡
 冷戦の終結。ソ連の消滅。米国も兵力削減・基地縮小へ動いた。 「平和の配当」が期待される米軍再編の始まりだった。
 だが、息子のブッシュ政権誕生と9・11米中枢同時テロは、再編の性格を大きく変えた。どこにいるか明確でない「敵」を大統領が壊滅すると宣言した以上、米国は世界中を戦場とする戦略に踏み切らざるを得ない。
 池にハスを、いや世界に大型の米軍基地を。これが難しい。喜んで受け入れる国はそうないし、米国の財政もそれを許さない。
 ではどうする。米国はこんなことを考えているようだ。

 冷戦対応の在ドイツと在韓国の基地は大幅に縮小しよう。その他は役割に応じて濃淡をつけよう。例えばこんなふうに。
 @主要作戦基地。米戦略で最も中枢的な役割を担う海外拠点だ。その第一が日本である。
 A前進作戦拠点。小規模の兵力を展開する。中央アジア、インド洋、アフリカなど各地に。
 B防衛協力地点。武器・弾薬などを事前に集積しておく。豪州などが候補にあがっている。
 自転車の車輪を思い浮かべてみよう。要は中心部にあるハブだ。そこから放射状にスポークが延びている。米国の戦略では、この要の部分が@で、そこからAやBに伸びていく。戦力展開拠点の米国から日本へは太い頑丈な綱が渡され、そこからはスポーク状に細い綱が何本も延びていく。そんな図が見えてくる。

 伝統と精鋭さを誇り、テロとゲリラ戦に強いことで定評のある米陸軍第一軍団司令部を、なぜ米国がいま本土から日本へ移そうとしているか、これで分かってくる。なぜ米国が、沖縄の米海兵隊の撤退をあれほど渋るのか、これもよく分かってくる。
 米国はなぜそこまで日本を重視するのか。ここで彼らが持ち出すのが「不安定の弧」だ。
 アジアから中東・アフリカに至る区域。あるいは、さらにキューバ・南米北西部まで含めた区域。弧を描いたようなこの地帯こそ、世界を脅かす潜在的な紛争地域だと米国は考えている。
 日本はこの不安定の弧の東端にある。兵力移動のかぎを握る「距離と時間の優越」の点で、日本は最高だ、と米軍は言う。
 だが、それだけだろうか。日本は安全だ。カネもたっぷり出す。支援体制もすごい。沖縄の人々以外、政府も国民もあまりうるさいことを言わない。米国の本音はこんなところかもしれない。

 ■国家戦略を
 超大国・米国が、自国の国益と世界の安全の維持を名目に、地球規模の戦略をたてるのは、ある意味で当然のことだ。
 問題はすべて、同盟関係下の日本の対応にかかっている。内容がどうあれ、簡単に同調するのか。こちらも国益を前面に、是々非々の立場を貫くのか。
 日本外交の欠点は、対米関係に関するかぎり、その点が明確さに欠けるところにある。
 このままでは、在日米軍は世界中に勝手に飛んでいくだろう。後方支援の名目で自衛隊が同伴させられる可能性も大きい。
 これは、憲法九条はもちろん、日米安保条約まで踏みつけにしたやリ方である。そんなことができるとは、安保条約のどこにも書かれていない。
 米国に従うほうが国益にかなうし、世界のためにもなる、との考えもあるだろう。だが、その場合は最低限、条約の改定が必要だ。国会に諮ることなく、事実上、条約を葬り、法的根拠をあいまいにした外交を続けることは、民主国家として恥ずかしい。
 私たちは世界の安定のために何かしたい。しかし、それには国家としての戦略が必要だ。それなくして、米国の言うがまま、ひたすらついていくだけでは、後世に顔向けできないではないか。
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 2005年(平成17年)7月31日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 「靖国」はなぜ悩ましいか
   ―怠った戦争への洞察―

 「靖国神社」があらためて脚光を浴びている。新聞、雑誌は競うようにしてこれにまつわる問題を取り上げ、次々に出版される関連本もよく売れている。
 読んでみた。勉強になった。
 だが、私は疲れた。心から共鳴できる記述に出あっても、何かがひっかかるのだ。それは、どこまでいっても割り切れない数字に向かって、四苦八苦しているときの心境に似ていた。

 ■政教を分離
 「靖国」が厄介なのは、日本人の心という内なる問題と、日本国の国際性という外との問題が、ここで正面からぶつかりあい、いまでは抜き差しならぬ状態に陥っているところにある。
 上伊那に私の遠い身内がいた。敗色濃いころ、十八歳の一人息子を戦争にとられた。敗戦。帰ってこない。戦死公報が届いたのは昭和二十八年のことだった。
 その間、彼は毎日ラジオの前に座った。当時、戦争で行方が知れない人々の情報を交換しあう番組「尋ね人の時間」があり、それに黙然と耳を傾けていた。
 「靖国神社に行って、兄さん、来たよ、と語りかけるのです」
 兄に代わって家を継いだ長女はいまこう語る。

 例外はたくさんあるにせよ、靖国神社は依然、多くの遺族にとって心の支えなのだろう。彼の死は無駄ではなかった、と思いたい。誰かにそれを認めてもらい、無念の死に意味づけしてほしい。だが靖国以外、誰がそんなことに手を貸してくれたか。首相が参拝してくれるのも靖国あってのことではないか、と。
 そこには誤解がある。戦後、靖国神社の法的地位は大きく変わった。国家の手から離れて、ふつうの宗教法人になった。だから、国が靖国だけを特別扱いするのは、「政治と宗教を分離する」と定めた憲法に反することになる。
 にもかかわらず、国のために死んだ人を国家が靖国神社に祀(まつ)って何が悪い、首相が公式参拝して何が悪い、という声が消えないのはなぜだろう。

 一つは、敗戦に伴う諸変革を徹底させなかったことだ。憲法で政教分離をうたいながら靖国問題はあいまいのまま、というのは、そのほんの一例にすぎない。
 もう一つは「心の」戦後処理の問題だ。戦争に負けた途端、人々は遺族に冷たくなった。そんな記憶が私にはある。
 あの、日本人を二分した感情のずれは解消したのだろうか。
 それは、戦争とは、戦死とは、戦犯とは何か、日本国はそれにどう責任をとるのか、といったことを双方がぶつけあって初めて解ける問題である。そうした作業を私たちはしてこなかった。
 多くの靖国論議は、今もそこを素通りしている。小泉首相の靖国参拝についても、国益のために、あるいは中国・韓国からの反発を和らげるために、やめてもらうという主張が少なくない。
 私も首相の靖国参拝には強く反対する。ただ、その理由は首相たる者が国のルールに反することをしてはならないからだ。国益や外交うんぬんも大事だが、それはあくまで付随的なことである。

 ■信念と覚悟
 靖国問題をどう扱うか。こんなアイデアが出ている。
 @首相の参拝中止
 AA級戦犯の分祀(ぶんし)
 B新施設の建設
 C靖国の特殊法人化
 首相の参拝中止は当然だ。ただし「他国の圧力」が理由では情けない。政府には神社・国家分離の原則を守る義務がある。
 A級戦犯の霊は移せ、と政府が強制すると信教の自由に反する。靖国が自発的にやるしかないが、そんな意思はないようだ。
 新施設は一つの立派な解決策ではある。ただ、その後も首相が靖国参拝を続けたらどうなるか。
 特殊法人化とは神社の看板を下ろせということ。これも政府からは言い出せない。靖国側はもちろん猛反発している。
 @以外、どれも泥縄のたぐいではないか。そうなったのは、日本国に、靖国問題を戦後処理の重要課題として正面から取り上げようとする信念と覚悟が無かったからだ、と私は思っている。
 戦後六十年。「靖国」にとどまらず、私たちが見て見ぬふりをしてきた問題は数多い。重い課題ばかりだが、これから少しずつ見つめ直していきたい。

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 2005年(平成17年)8月14日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 敗戦体験をどう生かすか
   ―「意識の鎖国」を断つ―

 米国ボストン郊外に住んで、最初に訪れたのが「ボストン虐殺」跡だった。虐殺、という言葉が気になっていた。
 事件は一七七〇年に起きた。駐留英軍が発砲しボストン市民を殺傷した。これが米国独立革命の導火線になった。
 虐殺というから、犠牲者も多かったろう、装置も大掛かりだったろう、と思っていた。だが、死者はわずかに五人、場所もごくふつうの狭い街路だった。

 ■漱石の予言
 これで虐殺とは何と大げさな。そう思った。二十年以上も前のことである。
 私は間違っていた。
 虐殺か否かを数で決めてはいけないのだ。被害者側からすれば、たとえ死者が数人であろうと、それが人々の運命を決するほどの惨事であれば、それはまぎれもなく虐殺なのだ。
 だから米国では今も「ボストン虐殺」と呼ばれ、英国の百科事典もそのまま使っている。
 翻って今の日本では、奇妙なことが起きている。あの戦争は正しかった、やむを得なかった、ひどいこともしなかった、と言う勢力が息を吹き返しつつある。

 六十年前までの何年もの間、アジア・太平洋のあちこちで、日本軍は数々の間違いを犯した。
 その実態や数字には誇張されたものもあるだろう。同胞として、そんなことは忘れたいという気持ちは私にもある。だが虐殺と呼ぶしかない行為があったことは、さまざまな記録によって明らかだ。つらいが、それから目を背けるわけにはいかない。
 にもかかわらず、殺したのは少数だったとか、兵士だけだったなどと強弁して、虐殺を否定する。ついには、それは幻だ、と言い募る人まで出てきた。
 敗戦からしばらく、私の記憶では、周囲は誰もが戦争を悔いていたように思う。帰国してきた兵士たちも、中国で日本軍が何をしたか、淡々と語った。共産党軍の規律の厳しさに感じ入り、毛沢東の勉強を始めた人もいた。
 あのとき日本人の多くは、いったんは「意識の鎖国」から解き放されたのではないか。

 天皇制国家のもと、何も考えてはいけなかった庶民たちが、戦争でなまの米国と向き合い、中国と向き合うことによって、やっと物事を相対的に見ることの大切さを知った。世界には女性の権利を守り、表現の自由を尊重する国があるのだ。人間には誰もが平和に生きていく権利があるのだ。半面、人々を不当に虐げる権利など誰にもないのだ、と。
 六十年前の敗戦は、その意味で日本人にとって画期的なことだった。同時に、夏目漱石に「いや、この国は滅びるね」と言わせた近代日本が生まれ変わる、またとない機会だった。
 実際、当時の記録によると、戦勝国米国の意向もあって、国の資産はすべてアジア諸国への賠償として運び出されるだろう、と日本政府は覚悟していた。国民の多くもそれを不思議と思わず、一から出直そう、という気持ちではほぼ共通していたようである。

 ■冷戦と賠償
 それが変わる。
 人のせいにしてはいけないが、その理由の一つは冷戦だった。共産主義勢力との緊張が高まるにつれ、日本に懲罰を課すより、これを復興させ活用するほうがいい、と米国は考えた。目本の工業力をアジアヘ移す構想は消え、むしろ日本をアジアの工場にするのだ、ということになった。
 おかげで日本の経済は、敗戦国とは思えないほどの速さで復興した。その代わり、一から出直そうという、あのときの心意気もしぼんでいった。アジアの人たちに済まないことをした、という気持ちも次第に薄れていった。
 このことは日本がアジア諸国と始めた賠償交渉で浮き彫りになった。日本の対応は時に高慢で相手を怒らせ、時にビジネスライクに過ぎて相手を困らせた。それは、戦争で迷惑をかけた国々への誠意に欠けていた、と言われても仕方のないものだった。

 六十年前、日本人は自分の目で世界を、アジアを見つめ直そうとした。あの体験が生み出しだのは、他者の存在を認めあうという相対的な思考の復権だった。
 これが貫徹できるなら、敗戦で失った以上のものを、私たちは取り戻せるかもしれない。

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 2005年(平成17年)8月21日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 東京裁判から何を学ぶか
   ―歴史のタブー一掃を―

 この六月、靖国神社に新しい碑が立った。極東国際軍事裁判(東京裁判)のインド代表判事パル博士の顕彰碑である。碑文は同神社の宮司が書いた。
 「(東京裁判が)敗戦国日本に対する野蛮な復讐(ふくしゅう)の儀式に過ぎない事を看破し、事実誤認に満ちた連合国の訴追には法的根拠が全く欠けてゐる事を論証し、被告団に対し全員無罪と判決する浩瀚(こうかん)な意見書を公にされた」

 ■パル意見書
 東京裁判が批判される問題点をいくつか列挙してみる。
 @戦敗国に対して、戦勝国は戦争責任を追及できるのか。
 A国家の戦争において、個人としての責任が問えるのか。
 B平和に対する罪など、いわゆる事後法で裁いていいのか。
 C裁判での事実認定に、公正を欠くところはなかったか。
 当時、戦争と平和に関する国際法にあいまいなところがあった。自衛戦争と侵略戦争を分ける基準も明確さを欠いていた。
 パル判事は、裁きの根拠を徹底して国際法に置いた。彼は言う。「戦勝国は戦争法規に反した者を処罰する権利を持っている。だが戦勝国が任意に犯罪を定義し、処罰することは許されない」
 裁判には事実認定で公正さを疑わせるなどの問題があった。しかし、中国での侵略的行動など、受け入れざるを得ないものは多い。パル判事自身、非戦闘員への残虐行為など、日本の戦争犯罪を全否定していない。

 東京裁判の再検証に私は賛成する。ただ、それはタブーを排し、先入観を捨て、未来に役立つものでなければならない。

 公正さに欠けた、という場合、事実認定の問題のほかに、もう一つ、これまであまり注目されてこなかったが、裁判所の構成の問題が重要である。
 裁判官は十一人で、米英ソなど十一カ国の判事である。裁判を主導したのは米国だった。ほとんど毎回、これに従う六カ国があり、俗に七人組と呼ばれた。
 残る四人は疎外されていた。後に反対意見を提出するインド、オランダ、フランスの三判事と、別個意見を出すウェッブ裁判長(豪州)である。その一人、オランダのローリング判事が一九八三年に来日、こう語っている。
 「多数派の判事が多数意見を作り上げ、ほかの判事にそれを見せ意見を求めた」
 ウェッブ裁判長は、別個意見で天皇の責任論に言及した。
 「戦争には天皇の許可が必要だった。戦争を望まなかったならば、許可を差し控えるべきだった」
 「天皇は、周囲の進言に基づいて行動しただけだとしても、それは彼がそうすることを適当と認めたからである」
 だが、米国は早くから天皇免責を決めていた。なぜか。裁判の再検証は、戦後史の不透明な部分にメスを入れることにもなる。
 同じことが、細菌戦の準備で名高い日本車「七三一部隊」についても言える。東京裁判はなぜ、その責任者の追及をしないまま終わらせたのだろうか。

 ■敗者が裁く
 勝者が敗者を裁くのはフェアでない、という言い分を受け入れたとしよう。では、あの戦争の責任者はいるのか、いないのか。いるとすれば誰なのか。それを決め、裁き、罰する人は誰なのか。
 敗者が敗者を裁くしかない。
 そうした動きは日本でもいくつかあった。敗戦直後に出された緊急勅令による自主裁判構想もその一つである。それは、裁く基準を「天皇の平和精神」に置くという驚くべき内容だった。
 緊急勅令第二条(一部)
 次に該当する者は反逆罪として死刑または無期謹慎に処す
 @天皇の命令なしに侵略的行動を指揮し、満州事変、支那事変、大東亜戦争を不可避にした者
 A天皇の平和精神に逆らい、大東亜戦争を必至ならしめた者
 占領軍は拒絶した。ただ、もしこれが日の目を見たとして、結果はどうなったか、興味深い。

 東京裁判が「平和に対する罪」「人道に対する罪」をふりかざしたのは、時代を先取りしていたのかもしれない。最近、やっと同じような考えが広がってきた。
 平和や人道に対する罪については、まだ詰めるべきことが多い。だが、世界は明らかにそれを受け入れる方向へと進んでいる。

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 2005年(平成17年)8月30日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 観客型政治はなぜ危険か
   ―白紙委任状を渡す愚―

 政界にはセイジカとセイジヤがいる。私利私欲、自分と周辺のことしか考えないのがセイジヤだ。こう教わってきた。
 小泉純一郎さんはセイジヤの一掃を狙っているように見える。その点での私の評価は高い。
 ところが小泉さんは、それに代わってセイジシという新種の政界人を、自ら先頭に立って作り始めた。政治士?。政治司?。いや、振付師とか魔術師とかいうときの師、つまり政治師である。

 ■民とは誰か
 振付師や魔術師と同じく、政治師はなによリ演劇人でなければならない。観客が喜ぶようなストーリーを、意外性たっぷりに、日替わりで上演する。せりふは短く、刺激的に。アクションは大きく、どぎつく。観客が飽きて、ほかへ移るのがいちばん困る。
 四年四ヵ月たった小泉政権は、一貫してこの路線を歩いてきた。派手で、新鮮で。だが、その多くは食い散らしのままだ。
 政権発足直後、小泉さんは「痛みに耐えて」「三方一両損で」と言った。これで国民も医療費の負担増を受け入れた。だが、そのときの条件だった医療制度の抜本改革はどうなったか。そんなこと誰も覚えていないさ、と思っているとすれば、有権者もなめられたものである。

 解散・総選挙をめぐる小泉さんの言動は、いわばこれまでの集大成であって、驚くに値しない。
 問題は観客の反応だ。出がらしのマジックや振り付けに目を奪われ、真の問題のありかがぼやけたままの総選挙、とあってはもったいない。ちょっと待って、という例をいくつか挙げる。

 一、構造改革・郵政改革・郵政法案成立は同じでない。
 郵政法案に反対というのは、あらゆる改革に反対ということだ、と小泉さんは言う。これは論理のすリ替えだ。法案には反対でも郵政改革、構造改革には賛成だという人はたくさんいる。要は改革の中身である。
 二、改革と名がつけば何でも歓迎、とはいかない。
 小泉さんによると、改革とは市場化のことだ。市場化とは何か。それは、社会を二極化するような政策の大転換だと私は思う。
 市場化で利潤は増えるだろう。だが、痛みを覚える人も増える。さきのJR西日本の事故で明らかなように、改革=市場化が安全を脅かすようなこともある。
 この世には、市場化抜きの、あるいは市場化色を抑制した、そんな改革でなければならない分野があるのではないか。
 三、官から民へ、というときの「民」は庶民とは限らない。
 官から民へ。初め私は何かもうかったような気がしていた。それに水をかけてくれたのが米国生まれの詩人アーサー・ビナードだ。彼はこう書いた。「郵政民営化の『民』はぼくらなんかではなく、大資本の民間企業のことを指す」「ウォール街は、じっと待ち構えている。日本国民が、その一字を取り違えて、うっかり340兆円を落としてくれるのを」
 ビナードの見解は極端かもしれない。ただ、そんな見方があることも知っておくべきだろう。

 ■勝てば官軍
 きょう総選挙が公示される。
 だが、選択に必要な大事なことの多くは伏せられたままだ。
 なぜか。改革とは、官とは、民とは何か、大きな、小さな政府とは何かという、きわめて肝心なことがすべてあいまいだからだ。答えようがないのである。
 国家として官が引き受けるべき限界をまず定め、そのうえで民に移す範囲を決める。同時に、それによって生じる国民のリスクをどう救済するか考える。そうした慎重な手順があって初めて、改革の名に値するのではないか。
 それにしても小泉さんは巧妙である。依然、郵政以外に争点はないかのように振る舞っている。
 だが、もし選挙に勝てば、自分は、自民党は、国民の全面的な信任を得た、何でもできると言うだろう。内政、外交、靖国参拝、イラク派兵、沖縄の基地問題など、これまでの自分の言動すべてが容認されたと言うだろう。自民党改憲草案の実現に向けた動きも活発化するだろう。

 俗に劇場型政治と言う。だが私は観客型政治という言葉を使う。有権者が観客席から立ち上がって行動に出ない限り、政治師たちの劇場型政治は終わらない。

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 2005年(平成17年)9月18日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 民の声は誰がつなぐのか
   ―政党政治の再生急げ―

 一九九三年、カナダの政治地図が一日で激変したことがある。百五十五議席、絶対多数を誇っていた与党が、総選挙でたった二議席に急落したのだ。
 さまざまな事情があった。だがこの事件は、小選挙区制が本質的に抱える「極端さ」を示す好例として、よく知られている。
 こんどの自民党の圧勝は、仕組みは若干違うにしても、小選挙区制が持つ怖さをあらためて有権者に認識させるいい機会になった。

 ■怒りの持続
 とはいえ、今回の結果をすべて選挙制度のせいにすることはできない。原因はもっと根本的なところにあるはずである。
 いま、メディアは勝敗分析に忙しい。小泉さんのケンカ上手。戦略性を欠いた民主党。その通り。異論はない。しかし、そのあたりはほかに任せよう。私がここで試みたいのは、政権党に大勝させた有権者との対話だ。
 議席数で三百近く、占有率で六割以上。こんなに自民党を太らせたのは有権者である。これがどんなにすごいことか、過去と比較すればよく分かる。

 自民党が三百議席とったのは一九八六年。首相の中曽根さんが野党に、やりませんと約束しながら断行した、人呼んで「死んだふリ解散」のときだ。二百八十四議席は一九八○年。このときは選挙中に首相の大平さんが急死して同情票を集めた。以後、多数党ながら低迷が続いてきた。
 二つはいずれも政権党に有利な衆参同時選挙であり、党内派閥が競い合って議席を伸ばす時代の選挙だった。強制されたり、義理がらみの票もあった。
 こんどは違う。唐突だった。争点ずらしもあった。だが、だましたり、泣き落とし型の解散・総選挙ではなかった。カネだ、人情だ、といったことも少なかった。圧勝は民意というほかない。
 これは世界の国政選挙では珍しい部類に入る。とくに欧州では最近、総選挙のたびにどこの政権党も苦戦している。
 なぜだろうか。私の見方では、選択の基準が違うのである。

 欧州では実績を重視する。何をするかより、何をしたかがまず問われる。この政権になって、暮らしはよくなったか。無駄遣いはないか。国家の地位は向上したか。チェックは厳しい。
 日本の有権者は、その点、寛大である。小泉政権の四年間で、世帯の平均収入は減り、債務残高は増えた。自殺者は増え、正規の雇用者数は減った。そうした数字は知っていても、選択の際の基準にしようとはしない。
 税金の使い方にしてもそうだ。グリーンピア(大規模年金保養基地)たたき売りが問題となったのは、つい先日のことである。これが欧州だったら時の政権は即退場だ。だが日本では通常、怒りは選挙まで持続しない。
 怒っても得にならないことを、有権者が知っているからである。しかし、この国は確実に厳しい階層社会へと向かっている。カネさえあれば何でもできると公言する若者が、自民党にちやほやされる時代だ。黙っていると、居場所さえなくなるかもしれない。

 ■地域と直結
 民の声を政治の場につなぐのは本来、国会議員の仕事であり、政党の役目である。そのためには、地球規模のことを地域の暮らしの中から発想できる政治家・政党を育てなければならない。
 ところが小泉さんは、地方のしがらみを排してこそ政治はよくなる、と考えているふしがある。
 これまでがひどすぎたから、無理もない。道路だ橋だ港湾だと、議員はまるで陳情屋だった。
 だが各地で脱皮が進み、政治家は変わってきた。地方分権が徹底すればもっとよくなるだろう。
 英国でもドイツでも、地域と密着した政治家候補を鍛えあげ、それをデビューさせる仕組みを作っている。有権者と政党を直結させるいいアイデアだと思う。

 心配なのは、首相権限の強化を急ぐあまり、政党の役割や任務が軽視され始めたことだ。小泉さんあっての圧勝だっただけに、自民党と首相官邸の力関係は一段と微妙なものになってきた。
 日本は政党を基軸とした議会制国家である。有権者に選ばれた議員の集団である以上、政党が首相の言動を唯々諾々と承るだけの存在に陥るようなことがあれば、政党政治への信頼は失われよう。

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 2005年(平成17年)9月25日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 集団的自衛権は是か非か
   ―時代遅れ、国益に反す―

 民主党の代表に就任した前原誠司さんは、早くから安全保障問題の論客として知られた人である。就任早々、「憲法九条二項は削除し、自衛権を明記する」と述べ、その自衛権には当然、集団的自衛権が含まれるとの考えを示した。自民党の九条論とほとんど変わらないようだが、これが前原さんの持論である。
 これで日本は、二大政党の党首がそろって憲法九条の改廃を明言する国になった。

 ■新しい権利
 民主党が前原構想どおりに動くかどうか、それに自民党が乗って九条改廃へと直進するかどうか、それはまだ分からない。
 このことは今後、何度も取り上げることになるだろう。きょうはまず、前原さんが当然のように肯定した集団的自衛権の問題について考えてみたい。
 突然、男が理由もなく殴りかかってきた。どうするか。手をねじリ上げるか足をけとばすか。誰もが何とかして相手の攻撃を封じようとするだろう。
 国家でも似たことが起きる。

 A国がいきなりB国に侵略された。見過ごすと国の存続にかかわる。A国は反撃に出た。
 この反撃する権利が自衛権だ。ただ、それには枠がはめられている。侵害が急迫不正であること、ほかに手段がないこと、必要最小限にとどめること。
 なぜ、そんなに厳しいのか。多くの戦争が自衛権の名のもとに始められたからである。相手国を挑発して攻撃するように仕向け、それを理由に戦争へ持ち込む。そんな手合いは今もいる。
 降りかかった火の粉を自分で払う。個別的自衛権のこの考えは、異論もあるが、早くから認められてきた。国連憲章も、固有の権利だ、と明記している。

 一方、集団的自衛権は、約六十年前、憲章ができたとき初めて登場した。憲章ではこれも「固有の権利」だが、両者はかなリ異質だと考えたほうがいい。
 R国がA国を攻撃した。ただR国は、A国と密接な関係のB国には手出ししていない。にもかかわらずB国は、A国を助けよう、とR国を攻撃した。
 この、どこかと一緒になって、自衛もしくは他衛する権利、これが集団的自衛権である。

 これは当初、国連安全保障理事会の常任理事国に与えられる「拒否権」対策として考えだされた。ある地域が、軍事的にも結束して侵略に対処しようとしたとき、大国の横やりが入ったら困る。それを防ぐため、安保理が関与できない集団的自衛権を憲章に明記しよう。こんな発想だった。
 だが冷戦の激化とともに、それはねじ曲げられていく。米ソ両陣営とも、軍事同盟を正当化する切り札に使いだしたのである。
 このように、二つの自衛権は生い立ちも中身も重みも違う。集団的自衛権は時の政治の産物であり、個別的自衛権と並列に扱うことには無理がある。
 集団的自衛権は冷戦期の遺物であって、時代にあわず、国益にも反すると私は考えている。

 ■冷戦の遺物
 なぜ、そう思うのか。
 第一。冷戦期には、両陣営の総力を結集するため、集団的自衛権もそれなりの役割を果たしたかもしれない。だが、超軍事一国体制が確立した今、その発動は軍事的下請け国家を作り出すだけで終わる心配がある。
 第二。このところ、地球規模で軍事戦略を展開する米国への風当たりが強まっている。敵が見えない、でも、どこにいっても敵、という時代に、集団的自衛権が効果的とは考えにくい。
 第三。不気味な中国や北朝鮮に対抗するには米国の助けが要る。その米国が攻撃されたとき、日本が一緒に戦って何が悪い。こんな反論があるだろう。
 世界一の強国と組めば大丈夫。この考えにも一理ある。だが、それによって周囲から仲間外れにされ、逆に不安が増すこともある。さて、どちらを選択するか。
 私なら、まず米中両国の戦略を検討する。すると言葉の応酬こそ厳しいが、軍事面では意外なほど抑制的であることが分かる。
 そんなとき日米が事実上の攻守同盟を結べば、日中関係だけでなく、米中間の抑制的バランスまで崩す危険がある。それは日本の国益を損ない、地球益を損なうことになりかねない。

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 2005年(平成17年)10月16日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 有事に民を守るのは誰か
   ―教訓的な「満州の悲劇」―

 承久の乱。慶長の役。桜田門外の変。日本史の授業でおなじみ、どれも有名な戦いである。では、乱、役、変はどう違うのか。
 学校で教わった記憶もないし、考えたこともなかった。だが、東京外国語大教授の西谷修さんによると、三つは明確な原則によって区分されているという。
 例えば、「役」は中央権力が反抗勢力を征討するような場合に使う。こんな時、権力はたいてい人民を徴用するからだそうだ。

 ■事変と戦争
 もう一つ、戦いには満州事変、支那事変などの「事変」がある。今ではまとめて日中戦争と呼ぶのが半ば常識になっているが、ちょっと抵抗がある。
 なぜか。事変と戦争は違う。事変を戦争と呼ぶことで、事変が抱える本質的な問題を覆い隠す心配があるからだ。
 事変は「外国との紛争で、軍事力を行使しながら宣戦布告をしない戦闘あるいは戦争の状態」と定義されている。だから両事変は、日清・日露の戦いのような、きちんと宣戦布告して始まった戦争ではなかった。

 戦争を仕掛ける側にとって、事変は何かと都合がいい。
 一、事前通告が要らないから、十分に軍備を整えた上で不意打ちをかける、あるいは陰謀をめぐらした上で相手を戦争に引きずリ込む。こんなことができる。
 二、宣戦布告さえしなければ、原則として、第三国からの軍需物資の輸入は自由である。
 三、戦争ではないと言い続けることで、外からの干渉を封じ、時間を稼ぐことができる。
 典型的な例が満州事変である。さまざまな経緯はあったにせよ、この事変こそ日本を悲劇へ導いた原点ではなかったか。

 今は瀋陽と呼ばれる旧満州の奉天郊外に柳条湖はある。一九三一年、昭和六年の九月十八日夜、その付近を走る満州鉄道の軌道で爆発があった。現地の日本軍(関東軍)は「中国人が爆破した」と発表、あっという間に南満州のほぼ全域で軍事行動に出て、各地を占領した。待機していた朝鮮駐在軍も越境、合流した。
 爆発は軍の計画的行動。現地の総領事館は直後にこう打電した。しかも、その爆発たるや「長春よりの南行列車の定刻到着を妨げざりし」程度のものだった。これだけで、自衛権の発動だ、と言うのには無理がある。
 朝鮮駐在軍の越境は、さすがに大きな問題となった。軍中央が知らない、全くの独断でなされたからだ。にもかかわらず政府はその責任をきちんと追及せず、ついには独断越境を追認し、経費の支出まで認めた。関東車の独断専行がひどくなるはずである。
 あとは周知のとおりだ。日本の手で満州国が樹立された。国防と治安維持を日本に委託する、その代わり日本車が必要だと言えば、鉄道でも港湾でも明け渡す、そういう「国家」であった。
 国際社会は憂慮した。国際連盟は現地に調査団を派遣した。膨大な報告書が発表された。中国側にも注文をつけた内容だったが、日本はただ一国、これを拒否して国際連盟から脱退した。

 ■非情な国家
 満州国はできた。でも、日本人が少なすぎる。政府は満州への邦人移住にやっきになった。十五〜十九歳の青少年を対象とする満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍はこうして生まれた。
 あなたも義勇軍になれます、という小冊子のコピーを見た。のらくろ漫画の田河水泡が描いたもので、一見、飛んでいきたくなるような礼賛記だ。
 彼らは関東軍に守られているはずだった。だが、ソ連軍が侵攻した一九四五年、関東軍の主力はすでに南方へ転進していた。「敵をあざむくためには味方もあざむかねばならない」という理屈で、開拓民は捨てられた。
 第二次大戦下、英国の首相チャーチルがいかに非情だったか、という話を聞いたことがある。あすドイツがロンドンの某地区を爆撃する、という情報を得た。だが、彼は避難命令を出さなかった。公表すれば、英国の最高機密である情報受信態勢の一端を明かすことになるからだ。

 いったい、国家とは民を犠牲にしてでも守るべき存在なのか。
 難問である。だが、平時の今こそ熟考すべき課題かもしれない。満州の悲劇を教材として。

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 2005年(平成17年)10月23日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 新聞の賞味期限は近いか
   ―活路は読者との共生―

 信濃毎日新聞社に、主筆・桐生悠々が使ったらしいという古ぼけた大型の机が残っている。悠々がこの机に向かって信毎の社説を書いていたであろうころ、日本には表現の自由はなかった。だから、真の愛国の信念に従って行動するには、職を賭し、命をかける以外にない。
 悠々はそうした。「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」が軍を激怒させ、彼は職を失って長野を去った。昭和八年のことである。

 ■初心に帰れ
 いま、新聞記者は、法に触れない限り、道義にもとることのない限り、何を書いてもいい。失職することも、命を取られることもない。表現の自由を保障した憲法二十一条のおかげである。
 ありがたいことだ、ぜひ守り抜こうと思う。その一方で、生命も職業も生活も保障された結果、新聞人としての緊張感に欠けることはなかったか。己を振り返って、そんなことも考える。

 新聞離れが進んでいる。世界でトップ級の新聞愛好国であることに変わりはないが、若い世代に加えて、中年層までが新聞から離れる兆候が出てきた。
 新聞だけがメディアではなくなった。忙しくて、人々がゆっくり新聞をめくる余裕がなくなった。そんな事情はあるだろう。しかし責任の大半は、やはり新聞が負わなければならない。
 権力と正面から向き合っているか。書くことと行うことは一致している、と明言できるか。読者あっての新聞、ということを本気で信じているか。そして、記者になったときの、あの、みずみずしい初心を覚えているか。

 中央紙にいた私に、最近の不祥事を他人事のように語る資格はない。痛感するのは、先端のネジががたつくのを放置しておくと、中間のネジが緩み、ついには構造そのものが壊れる、ということだ。それを避けるには、組織全体に責任感と緊張感のネットワークを張り巡らせるしかない。
 その意味では新聞も他企業も同じだ。ただ、新聞に格段の責任と緊張が求められるのは、情報を扱う仕事だからである。また、人々の知る権利に奉仕するため、取材にあたって、いくつかの特権を与えられているからである。
 より正確で、より人間味あふれる記事を書こうとすれば、記者は猟犬にならざるを得ない。繰り返し、しつこく、ねばっこく。
 当事者はそれを好まない。そっとしておいて。人権を、プライバシーを、侵さないで。何の権利があって、あなた方は。
 そこへ権力が介入してくる。そう、何より人権だ。メディアが悪い。法律で規制しよう。

 メディアは勘違いした。いい報道のためなら少しぐらいの行き過ぎは許される、と。こうして「娘は二度殺された。最初は犯人に、次はマスコミに」と言わせる事態となった。そこでは、誰のための報道か、が忘れられていた。
 その結果、読者・権力・新聞の関係に変化が起きている。荒っぽく言うなら、一貫して新聞を背後から支えてきた読者が、こんどは権力と一緒に新聞の「横暴」を抑えようとしている。

 ■人権を盾に
 これは、読者・新聞双方にとって不幸なことである。
 人権擁護を名目に、行政手続きだけで新聞を取り締まることができる場合を想像してほしい。
 役所や政治家など権力側に都合の悪い情報が、正確に、公正に私たちに伝わるだろうか。そういう情報抜きに正しい選挙ができるだろうか。患者の人権を盾に、医療行政のミスにかかわる情報が隠されることはないだろうか。
 確かに、新聞を含めメディアが人権やプライバシーに敏感だったとは言えない。集団的過熱取材を放置したために、どれほど多くの読者を怒らせたことか。権力側に付け入るすきを与えた責任の一端は新聞にある。
 だが、読者と新聞が角突き合わせていいことは一つもない。新聞は、個人の私的な人権にもっともっと敏感になること。読者は、人権の名の下に表現の自由を制限しようとする勢力を抑えること。この二つが必要ではないか。

 新聞が生き残れるとすれば、それは「読者との共生」に成功したときだけである。どちらも相手を必要とする関係。そのためには、まず新聞が責任感と緊張感を取り戻すことが先決であろう。

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 2005年(平成17年)11月20日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 誰が清華大をつくったか
   ―百年まえ、米国の英断―

 いま、中国にいる。
 天安門から車で四十分。北京市海淀区は、清華大学や北京大学など、著名な大学が集中する文教の街だ。最近ではIT関連の企業や販売店がふえ、中国のサイエンス・パーク中関村もここにある。
 この三年の間、私は、春と秋の二回、清華大学に来ている。そのたびに二週間ぐらいゲストハウスに泊まり、ほぼ連日、ここの学生や現役のジャーナリストたちを相手に「新聞」を講じてきた。

 ■最高の評価
 昔は清朝皇帝のお庭「清華園」だったから、清華大学のキャンパスは水と緑に恵まれている。面積は四平方`メートル。ここに大学生一万三千人、大学院生一万七千人、教職員七千人、計三万七千人が生活している。
 十ヵ所を超える学生食堂の一つに入り、幾品か選んでレジにいくと全部で八十円ほどだった。案内してくれた院生によると、彼女の場合、授業料は無料、寮費は一ヵ月あたリ千円ちょっと。月々、五千七百円ぐらいの給付金があり、親からの仕送りを受けている人は少ないようだ。
 カネを使わぬ理由の一つは、勉強に追いまくられて遊ぶひまがないからだ。実際、彼らの多くはキャンパスを出ることもなく、夜遅くまで研究室か図書館で勉強している。講義の水準が高く、そうしないとついていけないし、奨学金をもらうことができない。
 清華大学に入学できた、というだけで大騒ぎされるのだ。それがさらに鍛えられるのだから伸びない方がおかしい。かくして、清華大学の大学院は中国でトップ、の評価を国から得た。

 それを支えているのが三千三百人の教授陣に加え、毎年七百人を数える招待教授たちである。ゲストハウスの朝食堂で会う招待教授は圧倒的に米国人が多い。
 米国といえば、清華大学の学生は毎年、平均して五百人が米国へ留学している。大学当局によると@さらに力をつけるため、A英語が使える、B奨学金制度が充実している、がその理由だそうだ。いずれにせよ、これは中国の若い学究たちが米国に強い魅力を感じ、親近感を抱いていることの表れであろう。ちなみに日本への留学は二、三十人だという。
 こうした学問・教育・科学技術の分野での人的交流は、政治や経済などのような派手さはないが、いずれ、じわじわと効果が出てくるのではないか。米中関係を表面だけで判断せず、このような水面下の動きも注視したい。

 清華大学と米国の因縁は深い。そもそも、一九一一年に創設された大学の前身・清華学堂は、米国へ留学する人たちの予備校として出発したのだった。
 話は十年ほどさかのぼる。
 一九○○年、列強の横暴と祖国の弱腰に怒った清国人が立ちあがり、北京にある外国公使館街を包囲、攻撃した。北清事変(義和団事件)である。
 日本や英米など八力国の連合軍の反攻で清国側は敗れ、賠償金を払うことが決まった。当時のお金で、利子を含め総額七億三千五百万ドルである。どの国も分け前を受けとることになった。
 ■生きたお金
 ところが○四年になって、米国の大統領が「これは多すぎる。いくらか返したい」と言ってきた。前代未聞である。しかし、大統領は国務長官に清国との交渉を命じた。といって、清国側もおいそれとは受けとれない。何回かのやりとりの末、多すぎた分で学校を作ろう、となった。
 米国の本来の受け取り分は五千三百万ドルだった。そのうちのいくらを学校建設に回したかは分からない。とにかく、こうしてできたのが清華学堂である。
 以来、清華学校となリ国立清華大学となったが、米国への留学に力を入れることに変わりはなかった。思想家・胡適が、中国ロケットの父・銭学森が、ここから米国へ旅立っていった。

 留学をえさに、米国は中国の指導者たちを支配しようとした。こんな見方もあるだろう。だが、百年前の若き米国が、賠償金の一部で相手国に学校を建てたという、その発想と行動に私は無条件で感動する。
 二十一世紀、日本がアジアの各国に日本留学予備校を開校し、奨学金もたっぷリ用意して招き入れる。こんなことを想像しながら、清華大学の構内を歩いている。

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 2005年(平成17年)11月27日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 米中関係はどうなるか
   ―増える相互依存の兆し―

 北京にある中国現代国際関係研究院は、国務院直属のシンクタンクである。国際情勢に関する同研究院の分析能力には定評があり、中国の対外政策づくりにかなりの役割を果たしている。
 ブッシュ米大統領が北京を離れる日の朝、私は三年ぶりに研究院を訪れた。ここの中核をなしている米国研究所の所長で、米中関係の権威である傅夢孜さんや、日本研究所の副所長・胡継平さんら五人の研究員が迎えてくれた。 ■柔軟と強硬
 いまの私にとって、最も大きな関心事は米中関係の行方である。日米関係も日中関係も、米国と中国がこれからどのような関係を持つかによって、ほとんど決まってしまうとすら思っている。
 いったい中国は米国をどう見ているのか。それが知リたい。一時間半にわたる研究院での対話は、当然そこから始まった。

 「米国の中国専門家によると、最近の中国は非常に実務的かつ現実的な外交路線をとるようになったという。その点は歓迎するとして、一方で、中国の対米姿勢は抑制的に過ぎないか、と私は思っているのだがどうか」
 この質問に、研究院側はおおよそ次のように答えた。
 中国が対米外交で抑制的にふるまっている、との指摘は正しい。中国と米国がいろいろな領域で協力関係をとることは、双方にとって有益だからだ。ただし、それはどの国でも同じではないのか。なにしろ今の米国は、世界で最も実力のある国なのだから。
 「しかし」と彼らは力を込めて話を続けた。「米国と仲よく付き合っていくように努めているが、国としての基本原則については、すべて柔軟というわけにはいかない」。その最も複雑な例として台湾問題を挙げた。

 たしかに米中間には、難しい問題がありすぎる。前の日に北京であった米中首脳会談は、両国の協力関係をうたい上げるセレモニーだったが、それでも胡錦濤国家主席は「台湾の独立は許さない」と強調し、ブッシュ大統領は「自由で公平な貿易システム」と「社会的、政治的、宗教的自由」の必要性を強調した。
 加えてエネルギー問題がある。中国の急速な経済成長は当然、膨大なエネルギー資源を必要としている。中国は石油を得るため世界のあちこちに手を伸ばしており、これが米国を刺激している。米中間の将来を楽観視し過ぎては間違えることになるだろう。

 ただ、注目したいのは、米中間の相互依存を目指す動きが目立ってきたことである。
 「難問が山積している一方で、北朝鮮の核問題やテロ対策など、両国の相互依存が進んでいるように見えるがどうか」
 研究院側はこう答えた。
 その通りだ。相互依存は進んでいる。以前は中国が一方的に米国に依存するだけだったが、今では(中国が米国の国債を買い入れているなどのため)米国は財政赤字を抑えることができる。米国も依存するようになったのだ。

 ■二つの逆説
 中国に来る前に、私は北京大学国際関係研究所長・王緝思さんの論文を読んで、あまりの率直さにびっくりした。米誌「フォーリン ・アフェアーズ」の最近の号に掲載されたもので、その邦訳が月刊誌「論座」に載っていた。
 米中の相互依存が強まれば、中国の経済は上昇し技術も進む。すると必然的に、中国の軍事能力も強化される。これは米国にとって長期的な対中戦略上の大きなパラドックス(逆説)だ。そう言った後、王さんはこう書く。
  「中国も同様のパラドックスに直面している。軍事力を含む米のパワーが弱まり、中国に対する戦略的圧力もやわらぐとすれぱ、それは米国経済が衰退した場合である。しかし米国経済が衰退すれば中国経済も痛手を被る。さらに、米国が不安感を強めれば、必ずしも中国の利益にならない別の結末を呼び込むことになるかもしれない」

 ここにあるのは、一方が得をすれば他方はそれだけ損をするというゼロ・サム的な発想ではない。もちろん、現実は「中国をもって日本を抑え、日本をもって中国を抑えるのが米国の戦略だ」(研究院の一人の発言)といった、厳しい世界であろう。
 だが、だからこそ米中間の相互依存の小さな芽に期待したい。

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 2005年(平成17年)12月11日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 12.8を忘れていいか
   ―開戦の教訓生かそう―

 今年も十二月八日が通り過ぎていった。
 戦役者追悼の意味もあって、敗戦の日は今も大事にされている。それに比べて開戦の日は、どこか触りたくない気持ちがあるのか、年々、メディアの扱いも地味になっていくような気がする。
 戦争の本質を問う、という観点に立つなら、それは逆なのではないか。なぜ、あのとき戦争に踏み切ったのかという根本問題は、まだ解けていないのである。

 ■重臣の反対
 戦争になると、日本では、天皇の下に大本営という国軍の最高統帥機関が設置されてきた。
 その大本営の陸軍部戦争指導班が、昭和十五年六月から敗戦の日まで記載した「機密戦争日誌」が残っている。戦争指導班といっても班員は五人ほど、影響力もそれほどではなかった。だが、だからこそ、大本営の空気を生々しく描くことができたのかもしれない。
 以下、分かりやすい表現に変えて、日誌の一部を紹介する。

 昭和十六年十一月二十一日 野村駐米大使から来電。日本案にハル米国務長官は大いに不満だった由。さもあるべし。交渉はいよいよ決裂だ。めでたしめでたし。
 二十三日 対米交渉の峠もあと数日。決裂に至ることを祈る。
 二十五日 軍政に関する陸海軍の中央協定、これまで大もめだったが、いくつもの問題を残したまま、やっと決まった。
 二十七日 駐米武官から来電。米国の回答は絶望的の由。交渉はもちろん決裂。開戦に踏み切りやすくなった。めでたしめでたし。これで国民の腹も固まる。
 二十八日 米国の回答全文が届いた。米は世界制覇の腹だ。今や戦争の一途あるのみ。
 二十九日 首相が重臣九人を宮中に招き開戦の了解を求めた。のち陛下も出席された。重臣からの非戦論が少なくなく(引用者注=首相への同意は当初三人だけ)、説得した結果、最後には全員が同意し、開戦が決まった。陛下も十分ご納得されたようだ。

 十二月一日 ついに開戦の御聖断下れり。真に世界歴史の大転換なり。百年戦争何ぞ辞せん。
 二日 米国はまだ帝国の意図を知らず。急襲の成功疑いなし。
 三日 米国に動く気配見えず。指導班も閑散としている。
 四日 米国が日米交渉の経過を公表した。こっちとしては対内外指導上、かえって好都合だ。
 五日 陛下が大本営陸軍部においでになった。天気晴朗、開戦前夜の気配まったく無し。
 六日 開戦にっいて国民は何も知らない。軍も、陸軍部の一部もだ。戦争急襲は必至。Z作戦(真珠湾への奇襲作戦)部隊は既にハワイ近海にいる。だが、並走中の竜田丸は何も知らない。
 同日野村・ハル会談が行われた。われわれの偽装外交は着々と成功しつつある。
 七日 開戦を明日に控え、指導班は一同、箱根に清遊し、歓を尽くす。開戦に至るまでの機密戦争日誌、本日をもって終わる。

 ■方向に喜び
 太平洋戦争がいかに泥縄式に始められたか、この機密戦争日記の記述は正直である。
 開戦前二週間の時点でもなお、軍政に関する陸海軍の協定はできていなかったのだ。天皇も、重臣たちも、開戦十日前というのに、まだ戦争には消極的だったのだ。開戦に関しては、国民はもちろんのこと、軍部ですら少数しか知らされていなかったのだ。
 その国民はどうだったか。
 作家・伊藤整は開戦の日の日記に、数日前、知人から「東条内閣は戦わないことになっている、そして内部の不平をおさえるため内相も兼ねている」と聞き、それをほぼ信じていた、と書いた。
 一方で伊藤は、真珠湾での戦果を聞き「方向をはっきりと与えられた喜び」と記す。彼だけではない。それまで国から無視されてきたのに、人々は開戦で方向を与えられた喜びを感じたり、すかっとしたりしている。
 これはどういうことか。
 権力に都合のいい情報しか与えられず、主体性が極限まで制限されると、なんでもいい、ポンとはじけることのみを、人は熱望するようになるのではないか。
 情報操作が格段と巧妙になるであろうニ十一世紀、この十二月八日の教訓は、私たちに多くの示唆を与えてくれている。

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 2005年(平成17年)12月18日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 骨ある外交は無理なのか
   ―譲れぬ一線を明確に―

 日米安保条約が全面改定されて半世紀近くになる。
 形だけの事前協議制など、新条約には多くの問題があり、私は批判的である。ただ、改定で条約の不平等性がいくらか薄まったことは評価されてよい。
 米国が気前よく既得権を手放すはずはないから、多くは日本国側の努力の結果だった。実際、その交渉経過を見ると、当時の外務省は、外相まで含めて、私が想像した以上に健闘している。

 ■国家の尊厳
 そこには国としての尊厳がかかっていた。政治家と外務官僚の気骨の問題でもあった。
 今の日本外交はどうか。
 米軍再編に伴って進行中の日米軍事協力体制の強化は、間違いなく現安保条約が想定した範囲を超えている。このことは七月二十四日の「考」で触れた。
 政府も外務省も百も承知だ。だが、それを認めれば新々安保条約が必要になり、国会に諮らなければならない。そうなると何が飛び出すか。再編を急ぎたい米国の意にも沿えなくなる。
 条約からの逸脱に政府は目をつぶった。こうして今年の夏、再編に伴う日米協議が本格化した。

 米国の姿勢は単純明快、一貫している。安保条約の条文にはこだわらない。ひたすら安全保障面での協力を強化させる。軍事的意味合いの強い日米同盟を確立する。平たく言えばこうなる。
 だから、今回の日米協議でも、米側の焦点ははっきりしていた。米国の世界戦略に日本をより深く関与させる。これである。
 第一に、自衛隊の活用だ。自衛隊は今も、世界規模で動く米軍の役割と任務を分担しているが、それをさらに増やすこと。
 第二に、安全保障面での統合運用を円滑に進めるため、陸海空すべての分野で、日米の司令部を同居させること。
 二つとも大筋で米国の要望通りになった。加えて、基地移転の費用は日本が持ちます、米海兵隊も運べる高速輸送艦を建造します、と日本側に約束させた。
 協議に妥協は付きものだ。その分、相手に妥協させればいい。だが、これまでの経過を見る限り、実態はそれに遠く、対話と呼べるようなものではない。
 日本の姿勢には骨も筋もなかった、と言うと反論があるだろう。沖縄の海兵隊七千人の撤退を勝ち得たではないか、と。
 だが、米国の専門家の間では、削減は半ば既定のことだった。しかも、撤退は普天間基地の問題が解決すればのことだ、と米側は言う。それとこれは別、と日本側が詰め寄った形跡はない。

 横須賀への米原子力空母配備の問題も、外交に骨ありや筋ありやを問ういい材料である。
 米国政府が「配備する」と発表した。その日、米駐日大使が外相に「通告」した。外相はその場で「受け入れ」を表明した。
 理由の一つは「米国は通常型空母の建造をやめたのだから仕方がない」だった。だが、これは必ずしも正確とはいえない。通常型空母ケネディはなお健在だからだ。国民感情から考えてケネディを、ぐらいのことは言えなかったか。

 ■司令塔不在
 横須賀は小泉純一郎さんの選挙区である。当然、米海軍関係の会合に招かれる機会が多かった。だが以前から、彼はそれを受けようとしなかったそうだ。
 政治家とはそれほど用心深いものなのか。私は感心した。
 ところが、米軍再編に伴う日米協議については、首相・小泉がほとんど動いていないのを見て、今は少し複雑な気分になっている。この人はもともと、外交、とくに日米関係について、積極的に動く気がないのではないか。
 最初に述べたように、協議に臨む米国の姿勢は明確だった。とすれば、日本側としては当然、自国の国益を最優先に考えて「どこまで米国の軍事戦略にコミットすべきか」を、一本にまとめておくべきだった。
 そんなものはなかった。教本なしに、外務省と防衛庁がそれぞれの立場で走り回っただけ、という印象が強い。それもこれも「司令塔」がないからである。
 小泉さんは、米戦略に関与するのはこの範囲まで、というミニマム宣言をすべきである。譲れない一線をきっちりさせることで初めて、骨のある、筋の通った外交が可能になるはずである。

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 2006年(平成18年)1月1日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 希望なしに生きられるか
   ―取り戻せ「安全と安心」―

 元日の朝、日差しの明るいときに街に出て人の声を聞いてみる。その声が宮音、つまリドレミのドだったら、今年はいい年である。でも、レだったら戦争、ソだったら日照りに悩まされる。
 中国の「史記」に、こんな声占いが載っているそうだ。作家の宮城谷昌光さんが「史記の風景」にそんなことを書いている。
 今年の初めにあたって、あなたの耳には、どんな声が、どんなふうに聞こえただろうか。

 ■常識の崩壊
 去年はつらい年たった。
 制度や秩序など、これが世間の常識と信じてきたことが、ぐにゃぐにゃになり、溶け出していく、そんな時代の始まりを予感させる不気味な年だった。
 何より困るのは、暮らしの根幹である「安全と安心」に疑問符がついたことである。疑いが晴れたとは言えぬ段階で、米国産牛肉の輸入が認められた。アスベストによる被害が深刻化した。建物の耐震強度を偽装した事件の余波は広がる一方である。鉄道や航空機についても心配がたえない。
 住宅を買うとき、この国では通常、建物など影も形もない段階で契約させられる。外国ではまず考えられないこの仕組みが通用してきたのは、消費者が(甘いと言われればそれまでだが)業者の良心を信じ、国のチェック機能を信頼してきたからである。
 それがそうではなかった。地震が起きなければ分からないのだから、とうそぶいて不正を働く業者たち。民間委託をもって「改革」と称し、きちんとした追跡調査を怠ってきた官僚たち。

 制度も秩序も時代に応じて変わる。これは仕方がない。ただ、変化に際しては、よくよく吟味すべき事柄が最低二つある。
 一つ。時代とともに変わるというときの「時代」を、どの程度の長さで考えるかである。
 お金がすべてと公言した青年企業家に、作家の水木楊さんが聞いた。「どれぐらい先のことを考えて行動しているの」。彼は答えた。「ま、半年ですか」(「文芸春秋」05年12月号)。
 ごく短い時間尺で考え、急ぎ働き的な金もうけに走る。それを容認し称賛する。これを時代に即した変化と言えるか。
 二つ。変化には受け皿が要る。それはもう古い、捨てよと言うのなら、新たな制度や秩序が提示されなければならない。
 就職したら毎日働き、月末には給料が出る。定年になったら退職金がもらえる。これが大方の常識だった。それが崩れた。正社員は減る一方で、身分を保障されない従業員が激増している。
 競争に勝つためだ。労働に関する常識が、会社に関する常識が変わったのだ。ほっといてくれ。
 経済至上主義からすればこれには一理ある。だが、常識に従って生きてきたのに、今は疎外されている人たちをどうするか。

 ■部屋を壊す
 今年はどうなるだろう。
 残念だが、いっぺんに明るくなる、そんなふうには思えない。
 安全と安心をむしばむ「効率最優先」の政治と、貧富の差の拡大は さらに進む。それでも「弱者」の多くは小泉政治に拍手を送る。こういう構図は、今年も大筋で変わらないのではないか。
 加えて、身近なことでは、鳥インフルエンザ・ウイルスのことが常に頭にある。
 しかし、どんなときでも、人は希望なしには生きられない。

 自分の国、中国に絶望して引きこもっていた魯迅に何か書かそうと、友人が訪ねてくる。
 魯迅が言う。
 絶対に壊せない鉄の部屋で、多くの人が熟睡している。間もなく全員が苦しみもなく死ぬだろう。今、大声を出して何人かを起こしたとしよう。すると、どうせ助からないのに、その人たちに臨終の苦しみだけを与えることになる。それでいいのかね。
 友人が反論した。
 でも、数人が起きたとすれば、部屋を壊す希望が絶対にないとは言えないじゃないか。
 こうして生まれたのが彼の「狂人日記」である。私はこのエピソードが好きだ。
 希望は乱世の薬でもある。八方ふさがりだ、もうだめだと悲観するより、「鉄の部屋」を壊す方策を考える一年にしたい。

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 2006年(平成18年)1月15日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 子どもを救えるのは誰か
   ―大人よ 自信と気迫を―

 前回の「考」でちょっと紹介した魯迅の「狂人日記」は
  人間を食ったことのない子どもは、まだいるかしらん。
  子どもを救え…
 で終わっている。
 当時の中国に見切りをつけ、もう手遅れだと思った魯迅が、最後の最後に期待をかけたのが子どもだった。
 時代も背景も違うが、私も今、子どもを救え、と叫びたい。

 ■膨らむ欲望
 物は壊す、人は殺す。あんな悪ガキどもを救おうなどと、よくも言えたものだ。救ってほしいのはこっちのほうだよ。
 親も親さ。電車の中でわが子が走り回ろうが泣きわめこうが、注意一つしない。もう手遅れだね、この国は。
 これが多くの人の実感だろう。厄介なことに、では、どうすればいいか、いい知恵が浮かぱない。いらいらは募り、極端な意見だけが独り歩きする。
 こんなときは根っこの部分にまで戻るに限る。何が彼らをそうした言動に走らせたか。それが一時的な現象でないとすれば、将来のために何をすべきか。そして、それは誰の仕事なのか。

 問題の第一は、やはり社会と家庭の自信喪失にある、と言わざるを得ない。
 子どもは将来を担う貴重な存在だから、社会はそれぞれを個人として尊重し、責任を持って育て、鍛えていく。そうした自信と気迫が感じられない。事実上、学校と家庭にまかせきりである。
 一方、核家族化した家庭にあっては、憲法のいう「個人の尊重」が間違って理解された面がある。自信を持ってわが子に接し、共に心身の鍛錬に励む。これは親として当然のことだ。「個人の尊重」には何ら反しない。

 第二は、子どもの未来に対する取り組みの遅れである。
 このところ、子どもを取り巻く環境の変化はすさまじい。ところが、その激変が五年後、十年後、五十年後、人間の心身にどういう影響を与えるのか、ほとんど分かっていない。
 例えば、幼少期に長年、超高層住宅で暮らす児童に、将来、どんな影響が現れるか。
 おふくろの味を知らない幼稚園児。朝食をとらずに登校する小学生。食事は自室で一人だけで済ます中学生。これで健全な精神と肉体が期待できるのか。
 お金お金の世の中、小さいうちから金融の勉強を、と小学生に株取引を奨励する母親。それをバックアップする構えの政府要人と学校関係者。お金では買えないものがあることを、この子はいつ、どこで知るのだろうか。
 最も深刻なのはデジタル化に伴う変化らしい。
 情報技術が専門の東大教授・西垣通さんによると、デジタルの世界ではアナログと違って欲望に抑制がきかず、際限なく膨れ上がりやすいのだという。
 それで思い出すのは、兵器のデジタル化が人間の抑制本能をまひさせ、相手の被害を大きくした事実である。デジタル化に伴う「欲望の怪獣化」は今後、各方面にさまざまな影響を与えるだろう。

 ■仮想と現実
 昨年、NHK放送文化研究所の清川輝基さんが松本で講演した。題して「人間になれない子どもたち」。その要旨を読んだ。
 日本ほど早くから子どもに電子映像を見せる国はない、と指摘したあと、清川さんは言っている。
 「この現状は世界に先駆けて人体実験をしているのと同じだ」
 人間が人間でなくなる一線はどこか。まさに、子どもを使った人体実験が本格的に始まったのではないか。映像漬けにすることで。朝食を手抜きすることで。人間愛より金銭愛を教えることで。
 ただ、既に半ばバーチャル世界に生きる子どもから、テレビやゲーム機器を取り上げるだけではだめだ。老・病・死・貧、それに差別などの実態を大人が見せ、教えて、仮想と現実の二つの世界の違いを実感させることである。
 人口減の時代、今の子ども、生まれてくる子どもを大事に育てる以外に道はない。しかし、それは甘やかすこととは違う。
 児童手当も就学援助も必要だ。だが、昨今の激変が子どもの成育にどんな影響を与えているか。その研究と対応に資金を投じることは、日本国の将来のために、もっと重要なことではあるまいか。

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 2006年(平成18年)2月19日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 なぜ教育基本法の改定か
   ―「国家有用の士」めざす―

 一時期、あちこちの街角で、教育基本法を変えないと日本は滅びる、と絶叫する男女の一群をよく見かけた。取りつかれたような、という印象が残っている。
 その改正案が、いよいよ今国会に提出されるようである。
 だが、困った。基本法をなぜ変えなければならないのか。どこをどう変えるのか。それでどんないいことがあるのか。誰も具体的に説明してくれないのである。

 ■憲法と一体
 教育基本法は一九四七年にできた。前文と十一ヵ条、短い法律である。日本国憲法とは切って切れない関係にあり、男女共学、義務教育九年制など、国民が教育を受ける権利を鮮明にした。その特色は、教育の目的を掲げた@前文とA第一条に凝縮されている。

 @「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及っ徹底しなければならない」
 A「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」

 文章が硬く、少し詰め込みすぎの観はある。だが、大事なことばかりだ。急いで書き換える必要があるとは思えない。
 批判は最初からあった。個人の尊厳。人格の完成。個人の価値。個人、個人、個人。「国家」はどこへいったのだ、と。愛国心を盛り込め、日本伝統の尊重を明記せよ、という改定派の主張も、基本的にはこの線上にある。

 半世紀前、基本法を討議する委員会で、哲学者の務台理作は「公に仕えるということは非常に大事なんです」と前置きして、こんなことを述べている。
 「公に仕える人間をつくるには、個人というものを確立できる段階を経なければならないのです。その順序を経て公にいかないと、それはすぐに反動化します」
 務台は「公」を否定しているのではない。公に奉仕する道筋を立てるには、まず「個」を確立せよと言っているのだ。
 この務台の指摘は重要である。だが、改定派の多くは、そんなことより手っ取り早く、「国家社会の一員としての教育」へと急いでいるよう見える。

 中央教育審議会の資料を見た。まず「危機に直面する日本社会」とあり、その下に、自信喪失感や閉塞(へいそく)感の広がり、倫理観や社会的使命感の喪失、などが並ぶ。続いて「多くの課題を抱える日本の教育」とあり、青少年の規範意識や道徳心、自律心の低下などが列挙される。
 その上で、「今、日本の教育を根本から見直し、新しい時代にふさわしく再構築することが求められています」と言う。
 これが基本法改定の狙いなのだろう。だが、日本人が自信喪失に陥ったのも、規範意識が低下したのも、すべて教育が悪い、基本法が悪いと言うのだろうか。それで済めば誰も苦労はしない。

 ■博文の卓見
 佐藤秀夫という篤実な教育学者がいた。彼の著作に教えられたことの一つに、伊藤博文の業績がある。明治維新から十年余、超保守派が欧米化に反発し、悪いのは最近の教育だ、と主張したとき、伊藤は『教育議』を書いて、およそ次のように反論した。
 「維新の大変革で、風俗もまたそれにつれて変わった。これは仕方のないことだ。そんなふうに大局的な立場に立ってみよ、弊害がすべて教育のせいだ、と考えるのは間違っている」
 昨今の日本を覆う喪失感や閉塞感は、明治期の比ではない。しかも、それは、伊藤が言う以上に、時代の変化に付随した、一段と根の深いもののはずである。愛国心を鼓舞したり、日本の伝統を誇示したりすることで、改定派が強調するような「心豊かで、たくましい日本人」が育成されるとは、とても思えない。
 そうはいっても、と反論する人がいるだろう。「最近の子どもはふにゃふにゃしすぎじゃないですか、教育勅語のような、何か心棒が要リますよ」
 それに答えるには、国家・公・私・個人とは何か、どう違うか、から始めなければなるまい。
 次回も教育について考える。

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 2006年(平成18年)2月26日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 「国家に有用」だけでいいか
   ―新しい「公」の確立を―

 金メダルが決まった時、荒川静香さんは大きな日の丸で身を包むそぶりをした。とても自然で、こちらもつい、ニッポンよくやったと声をかけたくなった。
 国際大会になると、誰もが「日本」にこだわってしまう。日本選手なら誰でもいい、勝ってくれ、と大声援を送る。
 ところが、なかに信州の選手がいると微妙に揺れる。他を押しのけても地元出身者に勝たせたい。県内の競技大会で、当然のように自分の町や村を最優先に応援している、あの心境である。

 ■国と「くに」
 地域や郷土、自国のことだとどうしても力が入る。山川草木。古くからの伝統文化。あれはすばらしい。誰に強制されたわけでもないのに、そんな感情が何となくわいてくる。愛郷心であり、くにを愛する心である。
 それでは満足しない人びとがいる。「くに」ではなく四角四面の「国」を愛する。歴史と伝統を誇り、それに強い優越感を抱く。そんな日本人を育成する教育を徹底せよ、と彼らは言う。
 余計なことだ、と思う。
 自然の発露である愛郷心や愛国心には、そこで暮らす人たちに共通した心情(アイデンティティー)が底流になっている。よほどのことのない限り中身は変わらない。だから揺るがない。
 作られた、強制された愛国心はそうはいかない。何かを推進しようとする、時の政治勢力の意向が色濃く反映されるからだ。ヒトラーの、スターリンの「愛国心」がその後どうなったか、歴史を振り返るとよく分かる。

 国と民の関係はどうあるべきなのか。すでに明治の末年、石橋湛山はこう言っている。
 「人が国家を形づくリ国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためでも何でもない」
 こういう国民観はまだ確立されていない。国が革(あらた)まることのなかった日本では、今なお国あっての民なのだ。
 せっかく個人の尊厳を掲げた教育基本法を持ちながら、この国は「個人として、人間として」生きることを真剣に考えなかった。個人主義と利己主義の違い、自由と放逸の違いなどを、教えてこなかったことも影響した。
 国あっての民という考えは自己増殖する。国が上なのだから民は従え、から始まって、教育も少子化対策もすべて国のためだ、となり、ついには、従わないのは非国民、ということになる。
 だが、国とは何か。人間や風景は目で実感できるが、国を五感で具体的に認識することは難しい。それが不安な人たちは、もっと確固たる国をつくろうとする。

 敗戦前の日本は、その是非はともかく、分かりやすい国だった。「我を捨て私を去リ、ひたすら天皇に奉仕する」ことを、国体の本義としたからである。その線上に教育勅語があった。
 この国は民の国ではなかった。天皇の国だった。戦後、それは明確に否定された。その証しが憲法であり、教育基本法である。

 ■個人と「私」
 個人の尊厳は、そういう背景があって、戦後教育の要とされた。だが、批判家は言う。そこには、私だけあって公がない、と。
 個人と私は同じ、との立場に立てば、それにも一理ある。ただ、個人は「私腹を肥やす」といったマイナスイメージで受け取られやすい私とは違う。
 公はハ(背く)とム(私)から成り、私に背いて平らに分かつ、が原義だそうだ。そこから、私心なく正しい、おおやけ、となったという。現代では、パブリック、日本語で公共のニュアンスが最も近いのではないか。
 ところが日本では、公すなわち国=お上という意識が強い。国あっての民、という発想からすればそうなる。その結果、国は民の心の問題にまで立ち入ろうとする。民もまた、なにかにつけてお上に依存しようとする。

 教育基本法に公がないというのは言い過ぎだ。第一条の「平和的な国家及び社会の形成者として」は、まさに公の精神である。
 私たち民の側も、公についての認識を改めなければならない。すべてを誰かに任せるのではない。自分がその一員として参加し、行動する。そういう、新しい公を確立する時期が来ている。

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 2006年(平成18年)3月12日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 言葉はなぜ空回りするか
   ―二つの意味もつ「個人」―

 その言葉を聞いたときは理解したつもりだったのに、考えているうちに分からなくなる。そんな経験はないだろうか。
 私にとっては、教育基本法が掲げる「個人の尊厳」や「人格の形成」などがそれにあたる。戦後教育の核心であり、揺るがしてならない理念だと考えている。だが、なぜか言葉だけが吹き抜けていく感じで、腹の底から、分かった、と言えないところがある。

 ■社会と世間
 個人とは何か。日本語では、ひとりひとりの人間。あなたや私。これはよく分かる。
 では、個人の尊厳とは何か。学校ではこう教わった。
  人間社会のあらゆる価値の根源は個人にあると考え、何よりも個人を尊重  する原理。
 これも分かる。でも、同じ「分かる」でも微妙に違う。
 ふつうの個人、あなたや私は、目で見える存在だから特に意識しなくても分かる。だが、価値の根源である個人となると、途端に漠然としてくる。分かったといっても、それは抽象的に分かっただけなのかもしれない。

 もう一つ。価値の根源は個人にあるとして、互いの価値観が違ったら、双方がそれに固執したら、どうなるか。社会は混乱するだけではないのか。
 問題はどうやら「個人」にありそうだ。ひとりひとりの人間、と定義される個人とは別に、もう一つの個人が存在するらしい。
 それが、明治以降、欧米から移入された個人である。欧米のある考え方を取り入れるにあたって、それに個人という漢字をあてた。そういう例は人格とか社会とか、いくつもある。
 近代の欧米では、個人の主体性を最大限に尊重する一方で、己の属する社会のすべてのことに責任を持って行動するよう、個人に強く求めている。決して甘やかされてはいない。
 教育基本法は、こういう個人観に立って、個人の尊厳と人格の形成をうたいあげたのだろう。それなら、いくらかすっきりと頭に入ってくる。しかし、少なくとも私の場合、そうした教えを学校で受けた覚えはない。個人の責務について、厳しくしつけられたこともなかったように思う。

 同じ問題を日本独自の「世間」という観点から追求し続けている学者が、一橋大学名誉教授の阿部謹也さんである。
 阿部さんによると、世間とは、身内以外で、仕事や出身地などを通じてかかわっている、互いに顔見知りの人間関係のこと。この国には世間と社会という二つの世界があり、日本人は「社会を構成する個人である前に、世間の中である位置をもたなければならない」ことになっている。
 世間優位の弊害は少なくない。阿部さんはそれを指摘しつつ、同時に、この問題の深刻さを別の角度からえぐってみせる。
 「明治以後の日本人は、社会という言葉とヨーロッパ流の個人観念を学んだために、現実の日常生活の中での個人のあり方を見ないようにして、頭の中でだけ社会と個人というヨーロッパ流の観念を作り上げていった」

 ■理想の教室
 阿部さんは、欧米の個人観を捨てよ、と言っているのではない。個人によって成り立つ社会では、各人がそのあリ方を考え、変えていくことができる。でも、世間を個人が変えることはできない。
 教育基本法が間違えていたのでもない。個人と自己・社会と世間といったことの違いを教えずにきたから、「人間の尊厳」といわれても腹の底まで響かなかっただけだ。それに目を向けずに、一方は基本法を守れと言うだけ、他方は変えよと言い募るだけでは、子どもたちが不幸である。
 基本法をベースにしながら、個人の誕生から今日までの歩みを教え、その問題点を考えさせる。あるいは、個人の尊厳から出発して人間の尊厳、さらに生と死の尊厳まで問題を広げてみる。こんな教室を私は想像している。
 しかし、ある教育専門家によれば、日本の学校には同調主義的な文化が確固としてある。今も出るクイは打たれているらしい。
 中央教育審議会がめざすという自立した人間が、それで育成されるとは思えない。本気で自立した個人を育てたいのなら、まず教室を活性化させ、個性的な学校文化へと切り替えることである。

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 2006年(平成18年)3月19日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 軍事介入で人を救えるか
   ―根本の問題は素通り―

 イラクが内戦の様相を帯びてきた。イスラム教の宗派対立は激しくなる一方で、誰も手の出せない状況が続いている。
 米国は、フセイン政権さえ崩壊すれば平和で民主的なイラクが誕生すると主張して、軍事介入を続けてきた。しかし、そのもくろみは外れ、イラク国民の悲劇はむしろ深刻化している。
 軍事介入は人間を救うことができるか。もう一度、この難問と向き合う日が来たようである。

 ■虐殺と空爆
 この、古くて新しい問題が注目されたのは、一九九九年、旧ユーゴで起きた軍事紛争、特に北大西洋条約機構(NATO)軍による空からの爆撃だった。
 発端は民族対立である。経過を簡単に振り返ってみよう。
 @冷戦後、旧ユーゴはいくつかの国に分割された。だが、民族紛争は収まらなかった。
 A新ユーゴ(現セルビア=モンテネグロ)の自治州コソボで、民族間の内戦が激化した。
 B新ユーゴ軍とコソボのセルビア治安部隊は、コソボに住むアルバ二ア系住民を迫害した。
 Cこれに対しNATO軍は、コソボと首都ベオグラードを七十八日間、一万七千回、空爆した。市民の多くが犠牲になった。
 当然、批判が起きた。
 ある国で、ある民族が、著しい迫害を受けたとしても、他国が、武力で、その救出にあたることが許されるのか、と。

 武力行使が認められるのは、国の自衛権に基づく場合か、国連安保理事会の決議があったとき、とされている。
 NATO空爆はいずれでもないから、本来は国際法違反である。それでは困る、ということで打ち出されたのが、人道目的の武力介入、人道的介入は合法なのだ、という理屈だった。
 例外を認めると原則はゆがむ。だが、これを容認する人が次々に出てきた。なかでも注目をあびたのが、筋金入りの反戦論者、スーザン・ソンタグだった。
 戦争は犯罪だ、と言い切る彼女は同時に「極めて少数だが正義の戦争と見なしうる戦争がある」と言い、空爆を支持した。「戦争停止によって、セルビア側による大虐殺が続けられるだけの結果になったら(どうなるか)」と彼女は問いかけた。

 迫害の首謀者とされたのは、先日、獄中で死んだ元大統領ミロシェビッチである。空爆は、彼を政権から降ろし、逮捕させ、コソボのアルバニア系住民に希望を与えた。空爆で「大虐殺」を止めよ、というソンタグの願いはかなえられたかに見える。
 だが、決着はまだついていないのではないか。空爆後、現地では立場が逆転し、こんどはアルバニア系が報復的にセルビア系住民を襲う事件が多発した。加えて、巧妙な情報操作など、ユーゴ紛争そのものに不透明な部分があることも分かってきた。
 迫害され虐殺されるかもしれない人びとを救う。これに反対する人はいない。問題は、誰が、いかなるルールで、どんなふうに行うかだ。軍事力に偏りすぎると、憎しみは倍加され、報復が報復を呼ぶ悪循環に陥リやすい。

 ■善意と高慢
 イラクもまた、ユーゴと同じ泥沼への道を歩むのだろうか。
 最大の悪夢は、米国を柱とする一部の国際勢力が、ある宗派、例えばシーア派を強力に支援し、対立するスンニ派の壊滅を図る、という事態である。
 最近、米国や英国などで、今もイラクに兵力を駐留させていること自体が、かえってイラクの自立を妨げているのではないか、といった声が出てきているという。遅すぎた感じはするが、私はこの変化の兆しを歓迎する。
 軍事力は、ユーゴとイラクの両独裁者の失脚に力があった。それによって多くの人が死を免れたのは喜ぶべきことである。
 ただ、その後、時には彼らの時代を上回るほどの矛盾と混乱が生じたのはなぜだろう。独裁者を追放しただけでは片付かない、その民族特有の問題がいくつも横たわっているからではないのか。そこに目を向けない限り、事態はよくならない。
 武力介入で民主主義の「敵」さえ倒せば、人びとは幸せになり、国は民主化される。こういう善意で、単純で、高慢な発想から、そろそろ抜け出そうではないか。

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 2006年(平成18年)4月9日
【信濃毎日新聞「考」より抜粋】 

 自衛隊が戻る日はいつか
   ―遅れるほど増す難問―

 戦いで一番むずかしいのは兵を引くときである。
 大正期、ロシアで革命が起きると、日本は米国や英仏と共にシベリアヘ出兵した。日本軍は七万二千。他を圧していた。
 軍事干渉は失敗に終わり、他国は撤兵した。だが、シベリア支配にこだわる日本は居残って戦いを続けた。国際的な圧力の下、日本が撤兵したのは、それから二年後のことである。その死者三千余。得るところは何もなかった。

 ■精神を病む
 イラク戦争は奇妙な戦いだ。今も開戦の目的がはっきりしない。世界最強の米軍が展開しながら、収束の見通しが立たない。戦いの性格が変わり、日々、内戦の色合いを深めつつある。
 それは、米国が撤兵の時期を間違えたからではないのか。
 米軍が最初にバグダッド人リしたとき、イラク市民は彼らを熱烈に歓迎した。しかし、自宅へ招かれて温かい接待を受けた米兵の一人は、後に日本のジャーナリスト堤未果さんにこう語っている。
 「食事後、父親が聞いてきた。で、あなた方は、いつ、ここを出ていくのですか、と」
 米兵もすぐに帰国できると思っていた。違った。「反米勢力を摘発する」ため、銃を構えて市民の住まいに踏み込む、そんな毎日である。このころから市民の対応が変わってきた。

 私のイラク訪問は一九七三年、第一次石油危機のときだ。当時、日本社会党は与党バース党の友党で、その代表団に同行した。
 印象に残ったのは、バグダッドの美しさと、イラク人のプライドの高さである。歴史と伝統を誇る国民は独立心に富み、外国の支配・介入を嫌った。
 フセインを追放したらすぐ帰れとは何だ、と怒る人もいよう。でも、民族意識とはそんなものだ。それを考えて早くから撤兵戦略を練る。これが政治である。
 一方で、イラク駐留の米兵たちは今、想像もつかないような環境下にあるのではないか。そう思うのは、やっと故国に戻れた兵士たちの間に広がる「心の病」のことが頭にあるからだ。

 心的外傷後ストレス障害。略してPTSD。殺したり壊したりした戦地での体験を思い出しては自責あるいは恐怖の念に襲われる。その揚げ句に、離婚、家庭破壊はもとより、妻や知人を殺したり、銃を持って追い回した末に自ら死を選ぶ。そんな帰還兵が米国で急激に増えている。
 米政府の最新の発表では、アフガン、イラクからの帰還兵のうち約二万人がPTSDと診断され、これと同じぐらいがうつ病や薬物・アルコール依存症にかかっているという。
 しかし、ジョージ・ブッシュ氏は先月、自分が大統領の間はイラクからの完全撤退はない、と明言した。少なくともあと数年、イラクでは戦死者と負傷者が、本国では心を病んだ帰還兵が、増え続けることを意味する。
 何のために。誰のために。ブッシュ氏自身、何が何やら分からなくなっているのではないか。

 ■楽観許さず
 不思議なことに、このブッシュ表明の前後から、自衛隊のイラク撤退についての日本政府の口が大変に重くなってきた。
 それまでは、政府・与党内ですら「三月、撤退開始」が半ば公然と言われていた。一月末の時点で「政府は五月末までに撤退を完了させる方針を固めた」と大見出しで報じた中央紙もあった。
 ところがブッシュ表明のまさに前日、安倍官房長官は「自衛隊を撤収するとかしないとか、今は言うべきでない」と言明した。振り出しに戻った感じに近い。

 自衛隊のイラク派遣に反対する私の気持ちは変わらない。ただ、命令で派遣され現地で苦労した隊員たちは、これまで、一人も殺さず、一人も殺されずにきた。心から、よかった、と思う。
 だが、事態は楽観を許さない。昔の仕事仲間の谷田邦一さんによると、イラクに派遣された陸上自衛隊の幹部ら三人が、帰国後に自殺している。その一人は、日米共同訓練の最中に、米兵と一緒にいると殺される、と言って騒いだことがあったという。
 イラクの現状は自衛隊派遣の法的根拠を超えた。撤退が遅れるほど日本は泥沼に足をすくわれていく。「心の病」の広がりを防ぐためにも、決断すべき時である。

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信濃毎日新聞 社説


 2005年(平成17年)12月8日
【信濃毎日新聞「社説」より抜粋】 

 メッセージは時を超え
   ―ジョン・レノン―

 ジョン・レノンが凶弾に倒れて、今年で二十五年。この間、冷戦が終わってほっとする間もなく、世界は泥沼の紛争の時代へと突入したかに見える。彼の残した曲「イマジン」の平和のメッセージが、いまあらためて切実に聞こえてくる。

 ビートルズの中心的なメンバーだったレノンが、ニューヨークの自宅前で射殺されたのは、一九八〇年の十二月八日。ニュースは世界中を駆け巡った。
 伴侶がオノ・ヨーコさんということもあって、日本との縁はとりわけ深かった。生前、軽井沢を何度か訪れている。国内の反響も大きく、当時、信濃毎日は社会面トップで事件を報じている。彼の死が太平洋戦争の開戦の日と重なったことは、偶然を超えたものを感じさせる。

 四半世紀過ぎた今日も、人気は衰えていない。とくに今年は没後二十五年とあって、関連CDの発売や追悼集会などの企画が続く。数々のヒット曲や平和活動が、いまだに新鮮さを失っていないからだ。
 なかでも、ビートルズ解散後の一九七一年に発売された「イマジン」の力は大きい。「天国」も「国」も「宗教」も存在しないと、「想像してごらん」と、呼び掛ける素朴な歌詞。覚えやすい美しいメロディー。肩の力を抜いた優しさの中に潜む強さが、胸に響いてくる。

 ビートルズやジョン・レノンは、単なるアイドルではなかった。冷戦の真っただ中の六〇年代。メンバーはベトナム戦争への反対を表明した。広田寛治さんの「ビートルズ学入門」(新潮社)によると、政治的発言を止められていたにもかかわらず、あえて踏み切ったという。
 世界的に若者たちによる反戦運動が高まった時代だった。ビートルズやレノンの活動は、若者文化が生んだ結晶ともいえるだろう。

 彼の死から十年ほどたった一九八九年にベルリンの壁は崩壊した。電波を通じて若者たちに流れた西側の文化が壁を壊す力になった。レノンの音楽も、そうした「ソフト・パワー」(ジョセフ・ナイ教授)の一つと見ることができる。
 しかし、その後の世界の現実は、平和が訪れるのではないかとの期待に反し、「文明の衝突」が各地で起きているように見える。「国」や「宗教」がむき出しになっている。
 いまも世界で歌い継がれる「イマジン」。国境を越えるソフト・パワーに、平和な世界への希望の一つを見いだしたいと思う。

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 2005年(平成17年)12月31日
【信濃毎日新聞「社説」より抜粋】 

 「職業人」はどこへいった
   ―年の終わりに―

 かつては、教師の仕事を「聖職」と表現することがありました。信州教育を舞台にした新田次郎さんの名作のタイトルも「聖職の碑(いしぶみ)」でした。教師という職業に対する思い入れが伝わってきます。「天職」という言葉もありました。天から授かった仕事、自分に合った生来の職業といった意味です。昔は、自分が選んだ仕事を「天職」と受け止め、刻苦勉励した人が少なくありませんでした。
 「聖職」も「天職」も、死語になろうとしています。それどころか、職業倫理のかけらもないような事件が相次いだ一年でした。

   安全よりも効率が先に
 四月に兵庫県尼崎市のJR福知山線で起きた脱線事故は、百七人の犠牲者を出す最悪の惨事となりました。スピードの出し過ぎが直接の原因とされているものの、いくつかの疑問が残ったままです。
 とくに安全への配慮。過密ダイヤや運行の遅れに対する「懲罰」が、運転士に対して過度のプレッシャーとなっていなかったか。JR西日本には、安全よりも効率を優先させる体質があったのではないか。煮詰めるべき課題です。
 事故直後の会社や社員の対応にも不信が募リました。一つは、会社がいち早く置き石の可能性を示唆し、その後の会見で「コメントできない」と修正したこと。真相究明よりも責任回避に走ったのではないか、との批判は免れないでしょう。
 次に、乗客として乗っていた運転士が救出活動をしなかったり、社員たちがボウリング大会を開いていたこと。職業にもっと誠実であってほしい、と思う残念な対応でした。

   勤勉の精神、立て直し
 映画化された浅田次郎さん原作の「鉄道員(ぽっぽや)」を思い出しました。高倉健さん演じる主人公は、仕事にきちんと向き合う誠実な人間として描かれています。
 誇りを持って職務に励む運転士はいるはずです。問題は、JR西日本が、そうした人たちの熱意を生かすことができない企業になっていたのではないか、という点です。
 マンションやホテルの耐震偽装も、職業倫理の根幹を揺るがす事件です。一級建築士の資格を持つ人間が、でたらめなデータを入力していたから驚きます。
 建設会社、マンションの販売会社、ホテルのコンサルタント、設計図の検査企業も、自らの職務に忠実だったとは、とても言えません。責任が厳しく問われるのは当然です。
 気になるのは、ここ数年、職業や企業倫理にかかわる同様の事件が続いていることです。ずさんな作業が引き起こした東海村の臨界事故(一九九九年)、雪印乳業の集団食中毒事件(二〇〇〇年)、三菱自動車の欠陥隠ぺい問題…。

 個々人が高い職業倫理を持って一生懸命に働く風土が空洞化しているように見えます。日本はどうなってしまうのか、不安が募るのも無理ないでしょう。
 人々の職業観は、社会全体に影響を与える大きな問題です。西欧でも例えば、ドイツ語で職業を表す「ベルーフ」には、神から与えられた使命の意味が含まれています。そうした職業観が資本主義を産み落としたと、社会学の泰斗、マックス・ウェーバーは考えました。
 明治の日本の近代化も、職業を「天職」ととらえ、生活や心の支えとしてきた風土があったからこそ、実現したともいえるでしょう。
 身近には、諏訪地域の製糸業です。質素、勤勉を信条に日夜、労働に励んだたまものでした。企業家たちはまた、お互いに協力し合って製糸の品質管理に努めました。現代の「地域ブランド」の原点です。この地域には明治以来、民間による学校教育の整備や育英事業の伝統も育っています。

   働く意味を考えたい
 戦後の高度成長を成し遂げたのも、日本人の勤勉の精神でした。一つの仕事にこつこつと取り組んでいけば幸せになれる、という人生観です。企業の終身雇用制が、そうした風土をより強固にしました。
 「良き伝統」が途切れてしまったのではないでしょうか。バブル期に、「こつこつ精神」は古くさいとされました。バブル崩壊以降は、企業はリストラヘとかじを切り、いまでは、リストラは当然といった風潮が感じられます。
 職業倫理の立て直しが急務です。コンプライアンス(法令順守)以前に、企業は勤労者が誇りをもって働き、社会に貢献する土壌をつくることが大事です。
 経団連の次期会長に就任するキヤノンの御手洗冨士夫さんは、実力主義を徹底させる一方で、「終身雇用を守る」と発言しています。「会社は社会の一部」など、企業の社会的責任も強調しています。
 まっとうなもののいい方が新鮮に聞こえます。産業界をあげて、企業風土の刷新に努める必要があります。学校や家庭でも働くことの意味について、考える場を意識的につくらなければなりません。
 来年は職業観を見直すことから、安心できる社会へと一歩を踏み出す年にしたいものです。

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