戦後生まれのわたくしは天皇制に賛成でも反対でもない。たんに昔から、憲法に定められた天皇の意味がよく分からなかったために、昨今の皇室典範改正論議もひたすら傍観しているだけである。
■「象徴」の意味
わたくしに分からないのは、天皇が国民統合の象徴であるという憲法の条文の、「象徴」の意味である。しかし、天皇が国民の総意で定められた「制度」であることは分かる。また、皇籍だの、男系・男子による相続だの、一般の国民とは次元の違う何者かであることも分かる。
日本人ではあるけれども国民ではなく、象徴として特別な存在という意味で、「制度」としか言いようがないもの。これが、いまのところのわたくしの理解である。
明治憲法以来、わたくしたちは天皇を近代的な国家機関に位置付けることの違和感と無理を常に克服してこなければならなかった。そして、さまざまな解釈を重ねに重ねて、それは現行憲法に引き継がれたが、国体護持という政治的意図を差し引いても、国家の制度としてのあいまいな感じは残り続けている。
一方で、制度上の解釈という面を除けば、ふつうの日本人は天皇に歴史的な親しみを覚えるし、国家宗教をもたない国民の代わりに、天皇が国の安寧と五穀豊穣(ほうじょう)を祈ることに違和感はないだろう。してみれば、そうした神話的な祭祀(さいし)の面と、近代的な国家制度を結びつけることの困難を、わたくしたちがいま一度考える時期に来ているのは確かである。
言い換えれば、半世紀以上、とりあえず現状肯定しかないという理由で不問に付されてきた天皇のあるべき姿を、国民全体で問わずして、世継ぎ問題云々(うんぬん)もない。天皇は制度であるから、与党の頭数でいつでも皇室典範の改正はできるが、早晩男系・男子の皇統が絶えそうないま、わたくしたちが直面するのは女系の是非ではなく、まずは「象徴」の意味だと思う。
個人的には、歴史的に「万世一系」で続いてきたことに「象徴」の根拠があるのだろうと考えているが、それが絶えるとなると、わたくしたちは天皇をどう考えればよいのだろうか。女系天皇を誕生させることで、まったく新しい「象徴」を定めると考えればよいのだろうか。それとも、男系でも女系でも天皇に変わりはないと、暫定的にみなすのだろうか。しかし、いずれにしても制度的な違和感は残り、国民総意というわけにもゆかないに違いない。
その意味では、先般の有識者会議は単純に天皇制の存続を前提とした物理的な計算に終始し、天皇を国の制度として位置付け直す格好の機会を自ら封じたのが残念である。またメディアも、男系か女系かという表面的な議論に終始し、憲法と皇室典範の間にある根本的な隔たりには言及していない。
■矛盾した存在
天皇は今日、国事行為をはじめ、さまざまな民間の行事に臨席するが、それでも本質は、国民に向かって詔勅を発する者であり、神殿の奥で国民の幸福を祈る者であろう。感覚的にも外国の王室とはかなリ違うし、そうでないというのであれば、天皇とは何者であるのかが逆に分からなくなる。そして、そんなふうに独特の存在であリ続ける一方で、法制上の国家機関でもあり、はたまた時代の流れに合わせて、あたかも巷(ちまた)のアイドルのように取リざたされることも余儀なくされる。これが国民統合の「象徴」の現状であることについて、わたくしたちはもう少し矛盾を感じてもいいのではないだろうか。
第一に、近代国家とは無縁の祭祀の精神性に生きている天皇について、それはそれで、そういうものとして認めるのか否か。認めるのであれば、もう少し皇族が安らかに過ごせるよう、新しい時代のもっと明確な概念を天皇に与えなければなるまい。また認めないのであれば、国制としての天皇そのものの是非を問うべきであろう。
第二に、現状のあいまいさを認めるほかないのであれば、わたくしたちはとりあえず国民統合の象徴にふさわしい天皇への接し方を模索すべきであろう。決してタブーではないが、さりとて夫婦仲だの、親子関係だのと、まるで一般国民のように取りざたしていいほどには、天皇という存在は民主化されているわけではないからである。
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