Welcome to My Site!

ホーム 音楽の部屋 読書の部屋 写真の部屋 物置部屋


新聞の切抜きから
       1ページ


 高村 薫
   2001/10/08
  ・非力な二流国でいい
   2002/08/19
  ・現代人の時間感覚
   2004/04/04
  ・都市100年先を考えよう
   2004/06/13
  ・怒髪天つく年金改革
   2005/03/06
  ・消費者信じるメディアに
   2005/06/26
  ・大義ない戦争加担の愚
   2005/11/13
  ・自民50年奇怪な活況
   2006/03/12
  ・天皇制のあるべき姿は


 佐高 信
   2005/12/21
  ・民営化イコール善なのか















Scrapbook


≪前のページへ  1ページ  次のページへ≫


高村 薫


 2001年(平成13年)10月8日
【信濃毎日新聞「月曜評論」より抜粋】 

 「非力な二流国」でいい

 世紀末からこのかた、種々の行き詰まり感が言われて久しい。たぶん二十世紀型とは違う新しい価値観や国のあリ方を見いだしていかなければならないのだろうことは直感的に分かるが、それが具体的にどのようなものか、わたくしには思い描く力はない。しかし二十世紀型の大量消費や、それがもたらす豊かさとは一線を画した生き方であることは分かる。軍事大国も経済大国も、変わらなければならないのだ。

 九月十一日の米国の同時多発テロと、その後の世界の狂奔を眺めているうちに、一市民としてつくづくそう感じた。超大国であるというのは何と大変なことよ。世界にほこる大都会を破壊された上に多くの命を失い、その後は制裁を課さずにおくものかと世界に号令を発して、戦争の音頭を取らねばならない。先進諸国もまた、我先に首脳がワシントンヘ馳せ参じ、日本は法律を改正して、いいも悪いもなく全面支援の旗を掲げる。これすべて自称「文明社会」の威信のためだそうだ。

 何となく何かがおかしいと感じつつ、「新しい戦争」に今こそ備えずして国家の主体性はない、ぼやぼやするなという勇ましい掛け声を聞きながら、わたくしはふと思った。こんなにしんどいのが一流先進国なら、頼りない二流国であるほうがよっぽどマシだ、と。

 土台、これまで一度も主体的だったことなどなかった日本が、どうして急に偉くなる必要があるのか。今回アメリカでは日本人も多数犠牲者になったというのであれば、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に拉致された人びとや、地下鉄サリン事件の被害者もテロの犠牲者である。いい加減な外交と中途半端な自衛隊法で何とかやってきたのが、今日から急に通用しなくなったなんて、政治家の気楽さも極まれりである。 それで、日本もあわてて国内の各原発に自衛艦を配備しているのだが、もともと戦争の危険を前提に設計されていない原発は、艦船一隻で守れるものではない。アメリカは各原発に迎撃ミサイルを配備するらしいが、日本にはそんな力もないのであれば、まずは稼働中の原発を即時停止するのが国民の命を守るということだろう。それが主体性というものだ。

 原発を止めても国民生活が停止するわけではない。そんなに急いで「新しい戦争」に備えなければならないほど事態が差し迫っているのなら、夜中のテレビもネオンも止めたらいい。自販機も不要。季節柄、空調設備も不要。商業施設の営業も時間を短縮すればいい。
 経済が傾いているときだといっても、これだけ豊かな国で仮に何パーセントか経済成長が落ち込んでも、せいぜい車の買い換えを少しの間諦めればすむ程度の話だろう。

 北朝鮮になおも米支援をしてのほほんとしているようなおトボケのほうが、世界を戦争に巻き込む軍事行動よりはいい。武力の国際貢献をする能力がなくとも、百年後につつましく平和に、文化的に暮らしているのは二流国のほうだろうし、たぶん国際平和の手法を磨いているのも非力な国のほうだろうからだ。

▲トップにもどる 


 2002年(平成14年)8月19日
【信濃毎日新聞「月曜評論」より抜粋】 

 現代人の時間感覚

 今夏も、終戦の日に全国戦役者追悼式典のテレビ中継を観た。「終戦から五十七年」という挨拶の文言を聞きながら、この儀式はいつまで続くのだろうと、ふと考えた。また、っとえば「四十七年」と「五十七年」の間に、どんな違いがあるのか、とも考えた。年月は自動的に過ぎていくが、二十一世紀の今、人はいったい「五十七年」という月日を、どのような時間の長さとして、認識しているのだろうか。

 そんな取り留めのない思いに駆られるのは、時間や年月の長さの感覚が今日急速に変質していると痛感するせいである。自動車や飛行機の普及が人間の物理的な移動時間を縮めたとき、生活時間はよリ長くなったはずだが、実際にはよリ多くの生産と消費という形で忙しさが増し、多くの先進国の人間は時間が短いと感じるようになった。

 さらに二十世紀後半、高度経済成長下で二十四時間生活が生まれると、日付や時刻は便宜的な区切りの記号と化し、個々の欲望や利便に隷属するものになった。また九十年代からの情報化社会の急激な膨張は、今、時間という物理的な感覚をますます溶かしつつある。昼夜、休みなく生成と消滅を繰り返して世界を覆う情報は、物質を作る量子の運動にも似て、人間が認識できる時間とは無縁の代物だからである。

 そうした情報の絶え間ない生起の中で今、わたくしたちの時間の感覚に何が起こっているか。

 人間はもともと、一定の長さを越えた時間については意識的に認識する以外にない。過去や未来を認識し、想像する力は努力して獲得したものである。人が生まれ、老いて死ぬまでの「一生」という感覚に始まり、子々孫々の歩むべき道を想像し、計画を立てる。そうして数千年続いてきた人間の時間の感覚が、ここへ来て狂いだしたのは、現代人の多くが過去や未来への真摯な視線を失いつつあることに因る。

 考古学ブームや宇宙論ブームは、人間がどこから来たかという根源的な興味ではあるが、それはもう少し近い過去や未来への無関心と対になっている。また一方で、過去や未来はひどく恣意的に選び取られもする。戦国時代は過度に戯画化されたテレビドラマで数百年の時空を越え、片や太平洋戦争は「五十七年」という大きいのか小さいのか分からない数量で抽象化される。今よりさらに高度に発達したIT(情報技術)社会の未来が予想される一方で、もっと近い将来に予想される財政破綻の危機は無視され続ける。

 これは端的に、現代人が過去や未来の時間をまともに斟酌するのをやめたということである。地球温暖化も核兵器も、巨額の財政赤字も、都合の悪い過去や未来を見ないことで許容され続ける。国も企業も個人も、当面の利益確保に走り、長期の展望は持たない。今日明日の生活への関心は高いが、人が老いて死ぬ時間には関心がない。

 有限の存在ゆえに、永遠や理想を求め続けてきた人間の時間かおる。それを忘れた現代は、まるで最後の無謀な疾走に入ったかのようである。

▲トップにもどる 


 2004年(平成16年)4月4日
【信濃毎日新聞「現論」より抜粋】 

 都市 100年先を考えよう

 今般、政府は年金制度改革を百年の計だと豪語し、市井(しせい)は百年先の経済状況など誰に分かるものかと揶揄(やゆ)してはばからない。わたくしは日本人が久々に百年単位の話をしているのを面白く聞いているが、翻って考えてみると、現代の都市生活において百年という長さは実際どのように意識されているのだろうか。あるいは、そもそも意識されているのだろうか。

 結論から先に言えば、今日の人類は生産と消費のあらゆる面において、百年どころか二、三十年の年月さえ予測や計画の枠外であるように見える。おそろしい速さで進歩してゆく技術と消費生活が常に先を走り、未来を語るわりには未来の真剣な予測に消極的なのが現代の都市生活である。
 たとえばニューヨークのワールドトレードセンターは、もしも二〇〇一年の自爆テロがなければあと何十年、かの地にそびえていたのだろう。五十年か、百年か。しかし百年もたてば老朽化が進み、新しく建て替えられているだろうと想像するのは、実はむずかしい。なぜなら所有者はそんな先のことを計算に入れて建ててはいないだろうからであり、技術的に建て替えは可能であっても、その時点での所有者の意思や経済性こそ誰も予測できないからである。確実に予測できるのは最先端の建築物もいずれは老朽化することだけである。

 ■脅威生む構造
 都市の未来を考えるとき、人口の増減や経済構造の変化によって状況が変わるだけではない。そもそも現代の都市建築の大半は、経済活動と居住のために築かれており、そこに祈りや畏(おそ)れといった人間の内的発動はないため、永続の意思は当初から働かない。
 従って年月によって文化的精神的価値を持つこともなく、老朽化すれば解体して新たに建て直すだけであるが、現代の超高層ビルのいくつかは、その躯体(くたい)の巨大さや耐久性ゆえに、経済的理由から建て替えを拒否され、放置される可能性もあるだろう。いま地上二百bの眺望を楽しむ人間の目に、そうした厳しい未来は映っていないようである。

 はて、コンクリートと鉄の塊がひしめき合う今日の大都市は、いったい誰がどんな確信をもって築いているのだろうか。都市はそれ自体が巨大な構造物である。個々の再開発は残された地区を逆に古ぼけさせ、その結果より乱雑な無秩序と新たな流入をつくリ出す。そしてそうした人とモノの集中は、一昔前には誰も想像しなかった無差別テロの脅威を生み出し、はたまた地震国の日本ではその被害の巨大化が案じられているのである。
 わたくしたちは当面、そうした脅威を建築物の耐震性やセキュリティーシステムなどの個別の当否の問題にすり替えているが、むしろ都市生活そのものの構造的で有機的な産物の一つがそうしたテロリズムであり、天災による人的被害の拡大だと見るべきである。道路、交通、情報網、商業文化施設などなど個々の機能で都市をとらえる限り、より高いビル、より大きな広告塔、より便利な交通網がつくられ、消費の密集が起こるのは当たり前である。しかも消費は<いま>であり、百年先を考えたりはしない。

 ■再生は困難に
 古来、人間が築いた都市はどこも滅亡や再生をくりかえしてきたが、それは都市が人間の手でいつでもつくり直せるような一定の規模と構造を保っていたからだった。そうして時代環境に合わせて、どんな都市も建築物もいつかは役目を終え、新たにつくり直されるものだということを思うとき、今日の巨人都市の未来はどうか。
 容易に壊すこともできなければ自然に朽ちることもない、建築物に埋め尽くされた都市は、この先物理的に再生がむずかしいという意味で、かつて人類が経験したことのない事態となるのは想像にかたくない。コンクリートの耐用年数は約七十年と言われるが、わたくしたちは今世紀の半ばに、ほんとうに日本じゅうの高速道路をつくり替えるつもりか。鳥ではあるまいにひたすら都市に群がり、高齢化社会到来と言いつつ、自分の足で昇り降りするのも困難な地上百bの空中に喜々として居住し続けるつもりか。都市の未来こそ、気宇壮大に百年先を考えるべきときである。

▲トップにもどる 


 2004年(平成16年)6月13日
【信濃毎日新聞「現論」より抜粋】 

 怒髪天つく年金改革

 今般国会で成立した年金改革法について、わたくしたちは次のような事実を知っている。すなわち@制度の不透明A法案説明の虚偽B国会審議の不十分 である。この五つに加えて、一部国会議員の国民年金未納・未加入の現実や、旧年金福祉事業団の膨大な不良債権が明るみに出たいま、年金制度への国民の不信は行き着くところまで行き着いた感がある。
 また、百年の安心どころか制度改革の名に値しない改革がこうして強行されてゆくからには、わたくしたちはもはやこう考えるほかはない。すなわちこの国には制度の抜本的改革をされては困る人びとがおり、政府与党は年金制度が破綻(はたん)しそうなこの期に及んでなお、国民よりも彼らの権益を守ったのだろう、と。

 ■きわめて簡素
 さて、わたくしは一国民として怒髪天をつく思いでこれを書いているのだが、まず国民の多くが感じている制度の煩雑さは、そのまま制度の不透明さとつながっている。
 そもそも年金の性質から言えば、原理的には今月分の掛け金を今月分の給付に回せばよいだけのことであるのに、なぜかくも煩雑な話になるか。数年分もの膨大な積立金をため込みながら、「このままでは破綻する」とは、どういうことか。
 政府が「破綻する」と言う国民年金の、制度それ自体はきわめて簡素である。従って、人口の高齢化による現役世代の負担増、ならびに未納者の増加という二つの問題への対処も、本来はそれほど複雑ではあり得ない。ところが、この国民年金が同時に厚生年金や各種共済年金の基礎年金となっているあたりから、問題のありかが一気に見えにくくなってくる。

 とはいえ、理解が難しいのは国民の頭が悪いせいではない。第一に、政府は理解の根拠となるデータを開示していない。第二に「将来はお年寄り一人を現役世代二人で支える時代が来る」という政府の宣伝は、国民年金受給者とその他の年金受給者を混同しており、正確ではない。もちろん国民年金が他の年金の基礎部分に充てられている以上、国民年金の歳入不足は他の年金にも影響は及ぼすが、制度上、そのことと厚生年金制度の危機は別の問題である。
 いわんや共済年金に至っては、国や自治体が掛け金の二分の一、もしくはそれ以上を税金から支出しており、破綻とは無縁なのだろうから、これも国民年金と一緒にして論じるのは論外である。

 しかしながら、このような煩雑さ以上に制度の理解を根本的に難しくしているのは、毎月掛け金を払う個人が、将来の自分の年金受給額を知らされないでいる点だろう。たしかに一人の個人が何度も転職し、そのつど給与水準が変わり、ときには失業期間があったりする現実を考えると、現行の二階建て制度では将来の年金予想額を個別に計算してもあまリ意味がないかもしれないが、計算自体はできないわけでない。たんに国が拒否しているのである。
 折々に将来の自分の年金額を知ることが、個々の年金制度への信頼感につながるのは明らかである。それこそが制度の透明性でもあるのだが、この一番肝心のところを国が開示しないのは、開示できない理由があるからだと考えるほかはない。

 ■基本中の基本
 さて、制度の透明性を確保するには一元化を含めた大改革が伴うが、そのときわたくしたちは年金制度をどう考えるかを個々に問われることになる。公的年金は、自由主義経済の社会が苦労の末に考えだした福祉の仕組みであり、累進課税制度と同じく、広い意味での所得の再分配だからである。また、働く世代が高齢者を支えるというその理念は、老後の生活の全部を支えることを意味してはいないからである。自由の保証はある程度の自助努力と対になっていることを、あらためて思い起こす必要がある。
 さらにまた、厚生年金や共済年金は職業による格差があるという点で、公的年金としての公平を欠いていると言わざるを得ない。公的年金という理念は、すべての国民が等しく扱われうる範囲での負担と給付をも意味しているのである。
 税制と年金制度だけは何より公平で透明でなければならない。これが自由主義国家の基本中の基本であったはずである。

▲トップにもどる 


 2005年(平成17年)3月6日
【信濃毎日新聞「現論」より抜粋】 

 消費者信じるメディアに

 昨今メディアをめぐる騒動が相次いでいる。NHKが制作した番組について一部の政治家の圧力があっただの、なかっただの。それを報じた新聞に政治的意図があっただの、なかっただの。はたまたマネーゲームの標的になった民放が、放送の使命を掲げて市場原理に対抗したり…。一般利用者として、メディアの「公共性」とか「使命」について、あらためて考えさせられたことだった。
 たとえばNHKの番組をめぐっては、一般の実感以上に当事者たちがメディアを過剰に意識している様子がうかがえ、興味深かった。また民放をめぐる乗っ取り劇では、そもそも投資家にとってメディアが比較的食い荒らしやすい業態だということがあらためて証明されたようなものであリ、社会的認知度や放送局のイメージと相いれない即物的な投機筋の動きが、強く印象に残った。

 ■公共性は幻想
 ところで、今日の情報化社会の状況を見ると、既存のテレビや新聞は自由度、専門性、経済性などの面でインターネットや携帯端末に水をあけられつつある。情報の量と発信手段が増えた今日、利用者が受動的であることをやめ、自ら情報を選択するようになったことが大きな理由であるが、そうなるとメディアの地位はもちろん、「公共」や「使命」の考え方も様変わりして当然だろう。
 ひるがえってメディアの現状はどうだろうか。たとえばNHKは公共放送の存在意義を自ら見いだせなくなっているかのようであり、民放なみに娯楽番組をつくって視聴率を競う脱線が常態化している。また民放や新聞は、逆に公共性の幻想から抜けられず、本来の存在意義を損ねかねない自主規制で自らをしばって面白さや独自性の追求を怠り、利用者離れを招いているのである。

 メディアのこうした呪縛(じゅばく)は、自身の影響力の大きさと、それに躍る膨大な消費者という二つの幻想によるのだろう。そうしてメディアは、なおも自身の存在意義のように社会的使命や倫理を掲げているのだが、ほんとうはそんなものを背負った発信者とは政治家や宗教者ぐらいであって、使命や倫理はそもそも背負うものではない。真理や価値と同じく見いだすものであり、見いだすのは消費者なのである。しかも現代の消費者はきわめて自由で自発的である。
 現代では、国民全員が一律に共有すべき公共の情報などほとんど存在しない。最低限の公共サービスとして考えられるのは天気予報、災害・事故情報、選挙情報、官報、国会中継ぐらいだろう。これらは無料でよい。逆にほかのほとんどの情報や娯楽は、媒体にかかわらず有料であるほうがよい。なぜなら、自由は有料でなければ保証されないからであり、現代の消費者が一番大事にするのは、情報の自由度だからである。中立も偏向も自由。商売も自由。信憑性(しんぴょうせい)や品位の有無も自由。自由でさえあれば、あとは消費者が選別する。

 ■影響力の過信
 また、現代の情報環境において低い自由度しかもたないことは、発信者として不利でもあろう。とくに新聞やテレビは、ニュースの速報性をインターネットに奪われ、情報量でも劣っている現状で、自由度まで低くてはこれからの時代に立ち行かないのではないか。自由とは何も背負わないことであり、世論に迎合しないことである。心配しなくても、現代の消費者はメディアが考えるよりはるかに洗練されているし、多様でもある。 今日、メディアはなおも自身の存在意義や影響力を過信し続けているのだろう。確かにメディアが絶大な影響力をもっていた時代はあったが、そんな時代は速いスピードで過ぎ去リつつある。もちろんいまでもメディアは世論や流行をつくりだすが、わたくしたちは適当に付き合うだけで、真に自分の人生を預けているわけではない。また、いまでもメディアになにがしかの神話を求め、テレビカメラの前でパフォーマンスをくりひろげる政治家を、視聴者は消費はするが信頼はしない。さらにまた、広告媒体としてのメディアも、かつてほど企業の信頼は得られない時代だと聞く。
 いまこそメディアの側から新しくなってゆくときである。幻想を捨て、消費者を信じて、自らの武器を磨け。

▲トップにもどる 


 2005年(平成17年)6月26日
【信濃毎日新聞「現論」より抜粋】 

 大義ない戦争 加担の愚

 日本人の多くは早くもイラク戦争を忘れかけていた。車列を狙ったとみられる爆弾攻撃が発生するまで、戦後初めて自衛隊が武装して海外へ出ていったことも忘れかけていた。とはいえ中東はあまりに遠いし、戦後六十年も平和に暮らしてきた国民が戦争の日常をとらえる感性をもたないのは、むしろ自然なことだとわたくしは思う。
 けれどもそう言っている間に、イラクではわたくしたちの戦争一般の概念の通用しない世界が確実に生まれている。五月、海外の民間軍事会社に雇われていた日本人が武装勢力との戦闘で行方不明になったと伝えられたが、この一報を眺めながら、たとえば自衛隊のイラク派遣をめぐる国内議論が急に荒唐無稽(むけい)なものに思えてきたのはわたくしだけだろうか。
 専守防衛だの、集団的自衛権の是非だの、日本人が大まじめに考えている間に、戦争は国民国家の軍隊が行うものとは限らない、とんでもない時代が来ているのである。

 そもそも、いったい何が原因でイラクに米英軍が侵攻することになったのか、もう定かに思い出せないほどだけれども、戦争についてはきわめてナイーブな日本人の一人として、イラク戦争で学んだことをいま一度ざっと挙げてみよう。
 第一に、戦争の大義は嘘(うそ)でもいいのだということ。第二に、国連は必ずしも戦争を阻止する力をもたないこと。第三に、最新鋭の軍事技術もテロやゲリラには有効ではないこと。第四に、軍事的な勝利は必ずしも平和の回復にならないこと。また第五に、どう考えてもイスラム世界と民主主義国家は相性が悪いこと。
 これらはいずれも、近年中東やアフリカで繰り返されてきた戦争で見せつけられたものであり、イラクは特別に「新しい戦争」ではない。むしろ冷戦終結後に世界が経験した戦争は、国家間の戦争と内戦と国境紛争の区別がつきにくくなってゆくばかりである。

 ■民間軍事会社
 その理由は、基本的に領土と資源をめぐって起こる戦争が、民族と宗教を巻き込んで行われるようになったことである。また、戦闘が国家の軍隊だけでなく、武装した民間人によって行われることも戦争の姿を複雑にしている。そして、そこへ人道や民主主義や対テロといった「大義」を掲げて大国が介入してくるため、ますます奇々怪々になっているのである。
 イラクで明らかになったように、今日の戦争は局地的なものにとどまる限り、大義を必要としない。兵器をもっている者がその時々の都合で殺し合いを始めれば、戦争はとにかく始まるのである。
 従来、国民国家の戦争に大義が必要だったのは、国家の兵士を死なせるからだったが、大義を必要としなくなった戦争は、大国にとってはよリビジネスに近くなり、正規軍をかリ出す政治的リスクや手間を省こうとする動きが加速する。こうして民間軍事会社が繁盛し、戦争はますます手軽になり、対外的な問題解決の手段として頻繁に活用される時代がすでに始まっているのだろう。

 ■いびつな派遣
 もちろん、世界には依然、国家の名のもと軍備増強に邁進(まいしん)している国もあり、とくに東アジアでは未来の軍事衝突の姿は正規軍同士の悲惨な殲滅(せんめつ)戦になる可能性が高いけれども、しかしそれはそれで、逆に国民の理性の出番もある。いまのところ、わたくしたちが見極めなければならないのは、大義もない「同盟軍」にいちいち加担して、遠い彼方(かなた)の戦争に駆り出される愚のほうである。
 どんな愚劣な戦争でも人道支援の出番はあるが、少なくとも人道支援のためなら、憲法に違反してまで自衛隊を派遣する必要はない。支援要員の警備は、それこそ民間軍事会社に委託すればよく、そのほうがはるかに経費も安くてすむ。
 そう考えると、政府が初めに自衛隊派遣ありきだったのは明らかだが、国家の兵士である自衛隊員が、「非戦闘地域」で水道工事や道路舗装というのは、はたしてまともな話なのだろうか。日本の若者が除隊後に海外で傭兵(ようへい)になり、戦争ビジネスの担い手になって、何の名誉もなく命を危険にさらすような事態を生んだのは、この自衛隊のいびつな現状ではないのか。政府は「ふつうの国」を目指す前に、まずは日本にとっての軍隊や戦争の再定義から始めるべきである。

▲トップにもどる 


 2005年(平成17年)11月13日
【信濃毎日新聞「現論」より抜粋】 

 自民50年 奇怪な活況

 今秋、自民党は結党五十周年を迎える。一九九〇年代以降、自民党の退潮は著しいものに見え、早晩分裂するか、政権与党の座を降リるだろうと誰もが考えていたのに、気がついてみれば、総選挙で三百近い議席を獲得するような一人勝ちの大政党に戻っている。
 二十一世紀初頭のこの巨大自民党の風景は、ほぼ同じ年月を生きてきたわたくしにとって、何ともため息が出るような歴史の停滞感と、変化しそうでしない政治の宙づり感を絵に描いたようなものではある。

 一人の国民の半世紀の人生の記憶のなかに、九三〜九四年の細川、羽田政権のたった十ヵ月間を除けば、一つの政権政党の姿しかない。これはものすごいことである。政治といえば自民党。政治家といえば自民党。外交から経済まで、国民生活にかかわるありとあらゆる選択と決断を、半世紀にもわたってたった一つの政党が担ってきた、この政治的安定の姿を偉大と言うべきか、異様と言うべきか。
 わたくしが選挙権を得たのは、田中角栄の列島改造と狂乱物価、第一次石油ショック、そして「金権選挙」といった言葉が新聞に躍っていた時代だった。若い学生としてはそうした自民党政治に夢を託す気になれず、初めて投票の機会がやってきた七四年七月の参院選では、野党に一票を投じたのを覚えている。

 ■国民へのツケ
 振り返れば、ロッキード事件で国民が初めて自民党政治の乱脈ぶりに驚き失望した三十年前、高度成長をなし遂げた五五年体制はそろそろ腐食が始まっていたのであり、生活者は、政権交代や中道路線や政治の浄化といった「変化」を待ち望んだが、その後の日本の政治の風景に明確な変化は訪れなかった。
 変わらなかったのは、経済成長を求め続ける社会であり、個々の利益団体が支える政治の構造であり、そうした構造に依存する官僚機構である。冷戦構造という対外的な安定もあり、自民党はその路線も体質も、大きく変わる必要がなかったのである。またそうであれば、国民が求める「変化」や「刷新」にも大した切迫感はなく、選挙のたびにわきだす一過性の気分にすぎなかったと言えるだろう。結局、国民の多くが自民党政権に、ある程度満足していたということである。

 けれども、そうしてわたくしたちが五十年間も自民党政治を支持し続ける一方で、七〇年代にはすでに産業構造の変化は始まっていた。八○年代には成長率の鈍化と財政の悪化が進み、九〇年代には世界情勢も経済環境も劇的に変化した。変化しない政権と政党は明らかに現実の変化に遅れてきたのであり、その遅れは、進まない構造改革や、社会制度の疲弊、破綻(はたん)寸前の国家財政といったかたちで、国民がツケを払う結果になった。
 そして結党五十年のいま、自民党は「改革」を叫び、国民は従順にそれを受け入れ、喝采(かっさい)を送る。時代の変化に常に乗り遅れてきた政治の責任は不問に付され、政権交代もなく、あたかもある日突然新しい自民党に生まれ変わったかのような今日の活況である。

 ■権力を前面に
 冷静に眺めるならばあリ得ないこの状況は、何を意味しているのだろうか。一つは、五十年もの政治の停滞によって、自民党に代わる有力な政党が、ついに育たなかったという現実である。
 また一つは、経済成長の終わりを迎えた高度産業社会において、各種の利益団体が支えてきた多元的な民主政治が衰退したという現実である。その結果、いまや不特定多数の国民の人気が政治を支えることになった。そして政党は、従来の利権の代わりに国民の人気に訴えんとし、そのために政治にもともと付与されている権力を前面に押し出して、強い統治を目指す。これが五十年を迎えた自民党政治の姿である。
 それはまた、戦後この国が手に入れた一つの保守政治の、老朽化の姿でもある。時代に則した全面的な建て直しでなく、外装を新しくして延命するほかない古家にわたくしたちは住み続け、時代の激しい変化を横目で眺めながら、未来にほのかな不安を感じているのである。この憶病と怠惰と不安が、いまの自民党政治の奇怪な活況を支えている。

▲トップにもどる 


 2006年(平成18年)3月12日
【信濃毎日新聞「現論」より抜粋】 

 天皇制のあるべき姿は

 戦後生まれのわたくしは天皇制に賛成でも反対でもない。たんに昔から、憲法に定められた天皇の意味がよく分からなかったために、昨今の皇室典範改正論議もひたすら傍観しているだけである。
 ■「象徴」の意味
 わたくしに分からないのは、天皇が国民統合の象徴であるという憲法の条文の、「象徴」の意味である。しかし、天皇が国民の総意で定められた「制度」であることは分かる。また、皇籍だの、男系・男子による相続だの、一般の国民とは次元の違う何者かであることも分かる。
 日本人ではあるけれども国民ではなく、象徴として特別な存在という意味で、「制度」としか言いようがないもの。これが、いまのところのわたくしの理解である。

 明治憲法以来、わたくしたちは天皇を近代的な国家機関に位置付けることの違和感と無理を常に克服してこなければならなかった。そして、さまざまな解釈を重ねに重ねて、それは現行憲法に引き継がれたが、国体護持という政治的意図を差し引いても、国家の制度としてのあいまいな感じは残り続けている。
 一方で、制度上の解釈という面を除けば、ふつうの日本人は天皇に歴史的な親しみを覚えるし、国家宗教をもたない国民の代わりに、天皇が国の安寧と五穀豊穣(ほうじょう)を祈ることに違和感はないだろう。してみれば、そうした神話的な祭祀(さいし)の面と、近代的な国家制度を結びつけることの困難を、わたくしたちがいま一度考える時期に来ているのは確かである。

 言い換えれば、半世紀以上、とりあえず現状肯定しかないという理由で不問に付されてきた天皇のあるべき姿を、国民全体で問わずして、世継ぎ問題云々(うんぬん)もない。天皇は制度であるから、与党の頭数でいつでも皇室典範の改正はできるが、早晩男系・男子の皇統が絶えそうないま、わたくしたちが直面するのは女系の是非ではなく、まずは「象徴」の意味だと思う。

 個人的には、歴史的に「万世一系」で続いてきたことに「象徴」の根拠があるのだろうと考えているが、それが絶えるとなると、わたくしたちは天皇をどう考えればよいのだろうか。女系天皇を誕生させることで、まったく新しい「象徴」を定めると考えればよいのだろうか。それとも、男系でも女系でも天皇に変わりはないと、暫定的にみなすのだろうか。しかし、いずれにしても制度的な違和感は残り、国民総意というわけにもゆかないに違いない。
 その意味では、先般の有識者会議は単純に天皇制の存続を前提とした物理的な計算に終始し、天皇を国の制度として位置付け直す格好の機会を自ら封じたのが残念である。またメディアも、男系か女系かという表面的な議論に終始し、憲法と皇室典範の間にある根本的な隔たりには言及していない。

 ■矛盾した存在
 天皇は今日、国事行為をはじめ、さまざまな民間の行事に臨席するが、それでも本質は、国民に向かって詔勅を発する者であり、神殿の奥で国民の幸福を祈る者であろう。感覚的にも外国の王室とはかなリ違うし、そうでないというのであれば、天皇とは何者であるのかが逆に分からなくなる。そして、そんなふうに独特の存在であリ続ける一方で、法制上の国家機関でもあり、はたまた時代の流れに合わせて、あたかも巷(ちまた)のアイドルのように取リざたされることも余儀なくされる。これが国民統合の「象徴」の現状であることについて、わたくしたちはもう少し矛盾を感じてもいいのではないだろうか。

 第一に、近代国家とは無縁の祭祀の精神性に生きている天皇について、それはそれで、そういうものとして認めるのか否か。認めるのであれば、もう少し皇族が安らかに過ごせるよう、新しい時代のもっと明確な概念を天皇に与えなければなるまい。また認めないのであれば、国制としての天皇そのものの是非を問うべきであろう。
 第二に、現状のあいまいさを認めるほかないのであれば、わたくしたちはとりあえず国民統合の象徴にふさわしい天皇への接し方を模索すべきであろう。決してタブーではないが、さりとて夫婦仲だの、親子関係だのと、まるで一般国民のように取りざたしていいほどには、天皇という存在は民主化されているわけではないからである。

▲トップにもどる 



佐高 信


 2005年(平成17年)12月21日
【信濃毎日新聞より抜粋】 

 民営化イコール善なのか
  ―耐震強度偽装の本質―

 今の経済システムを考えた時、競争を是とし、良しとする原理になっているが、その場合当然だが、勝者と敗者を生む。競争に敗れた者、弱者化した者を政治的に救うというのが原則だ。ところが政治は行き過ぎた競争原理をチェックするのではなく、競争を推し進めるだけになっているのが、最大の問題だ。競争には中立の立場のアンパイアが必要なのに、その肝心の審判を「民営化」してしまった。民営化はすさまじい勢いで進んでおり、民営化イコール善という図式のとんでもない行き過ぎが、今回の事件の本質だと思う。

 例えば民間検査の日本ERIには大手住宅販売会社などが出資し、株式会社となっている。審判は独立中立でないといけない。なぜ建築確認審査を民営化してしまったのか。「官」の役割、「公」の役割が完全に没却されてしまっている。競争原理はジャングルの自由であり、弱肉強食の世界だ。それではまずい、ということでルールが決められてきた。よく規制緩和というが、それが「規則緩和」となり、結果として「安全緩和」になってしまった。
 とにかくもうけることが一番、という考え方の必然の結果、こういうことになった。姉歯秀次・元建築士や小嶋進ヒューザー社長をもちろん肯定するものではないが、こういう人たちが出てくることを前提としてルールを決めねばならない。競争を是としたからには、こういう人たちをはじかなければならないのに、民営化されてルール自体がなまくらになってしまっている。官がびしっとやらなければならないものもある。

 私は長く日本の会社を見てきたが、民営化イコール善というのは、どうしてもストンと胸に落ちない。民営化とはつまり「会社化」だが、松下電器産業や三菱自動車、古くは森永ヒ素ミルク事件や雪印乳業など、会社が起こしてきた問題をあまりに知らなすぎる。会社の振る舞いについて楽観的すぎる。
 例えば独占禁止法は会社にとっていやだが社会的には必要なもの、という意識が日本の経営者には欠けている。ユーザー(消費者)があって仕事があり、会社がある。つまり「会社」は「社会」にはぐくまれているのに、その循環を壊しても、もうけるという話になっている。かつて日本航空の松尾静磨社長は「億病者と言われる勇気を持て」と語ったが、憶病者の汚名を甘受しても安全第一で進む勇気を、世論は支えなければいけない。

 職人的なモラルの喪失も指摘されるが、モラルは職人の意地や技を認め、大事にするユーザーによって支えられてきた。そういう風土が失われているのではないか。勝ち組優先とか地方都市での「シャッター通り」の出現は、まさに競争万能の社会で土壌が荒らされたことを示している。「安く、早く」という経営者の意識と、ユーザー(消費者)の意識が同じになってしまった。日本には「安物買いの銭失い」という良いことわざがあるのだから、安いものの底にはなにかあるのではないか、ということを考えなければならない。
 ただ、個人のモラルを持ち込んで批判しても不毛だ。事件全体から規制緩和で進んできた小泉改革を疑うことが出てこなくてはおかしい。耐震強度の偽装のみならず、目先しか考えない偽装改革の政治構造の問題としてみてもらいたい。

▲トップにもどる