蓮台場れんだいば(三昧場さんまいば)
この場所は「お仕置場」とも「三昧場」とも呼ばれています。過去に二つの事件がありました。 その一つは、戦国時代の事件です。 天文11(1542)年、甲斐(現山梨県)の武田信玄は謀略により信濃の諏訪、高遠を支配下におさめ、これを足がかりにして信州の大部分を支配下におさめ、伊那の地も高遠城の下に組み込まれました。 弘治2(1556)年武田信玄が上杉謙信と川中島で対戦している隙に、上伊那南部の地侍達が信玄に対し「謀反」を起こしました。立腹した信玄は、謀反した8人の地侍をこの場所で磔(はりつけ)にし、その首を晒したのです。そのときの地侍の一人、黒河内隼人正信の地元黒河内(現長谷村)の人々は、闇夜に紛れて8人の首を持ち帰り、黒河内隼人正信の居城の近くに葬り、冥福を祈ったということです。今、長谷黒河内に「八人塚」と呼ばれる碑があります。
もう一つは、江戸時代の話です。 江戸時代の正徳〜享保(1711〜1735年)の頃北山一星という、雲上人の血を受けた僧が居たそうです。この僧が修行の旅の末、狐島神社の庚申堂というお堂に住むようになりました。和尚は付近の子供達と遊びながら仏の教えを説いたり、病気の手当てや祈祷、村人の生活の細々とした相談にのるなどしたので、人々からたいそう慕われていたそうです。生活は質素、食は粗食でしたが、お酒が好きでした。 やがて、死期を悟った和尚は、村人に「鐘の音と読経が聞こえる間は、この竹の管を通して酒を注ぎいれてくれ」と言い残して、自ら棺の中に入り生き仏となりこの地に埋葬されました。元文6年(1741)1月22日、74歳であったといわれています。一説によれば、火定に入ったともいわれています。
社伝によれば、神社の起源は鎌倉時代ということになっています。 建久4年(1193)5月28日、源頼朝が行った富士の裾野の巻狩の折、父の仇工藤祐経を討ち取ったのが曽我十郎祐成・五郎時致の兄弟。討ち取られた工藤祐経の子供が「犬房丸」で、ときに9歳。 この折の咎により、犬房丸は伊那の地に配流されたのですが、旅の安全にと持っていた荒神様を祀ったのが、この神社の起源といわれています。