林厚男街道を歩く


今回は「日光御成街道」歩いてみることにいたしました。

第二回 

平成301110日          天気 曇り  23

王子駅〜岩淵宿〜川口宿〜鳩ケ谷宿〜東川口駅    

地図上距離175q  実質距離205q

 


     王子神社

      十条富士神社

      旧田中家洋館住宅

 十勝甘納豆本舗本店


  からくり時計    6個目の1里塚

雨が多くて、2回目がなかなか実行できず。丁度1ヶ月経ってしまった。出発が駅の改札を出たところから旧道になります。旧道に入るとすぐに「音無親水公園」となっています。私が東京に来たときは音無川と言っていて滝まであった公園だった。音無川と言う呼び名はこの辺りだけで、実際は石神(しゃくじ)井川(いがわ)です。小平市が起点で練馬の石神園などを通って来ている川です。今は公園の手前から飛鳥山公園の下にトンネルを掘ってそちらに流しているとの事。日本都市公園100選に指定されていて、代々木・日比谷・上野公園と同等あつかいとの案内版です。階段を上がって歩き始めると、「王子神社」があるので入っていきました。朝まだ早いのに、七五三の詣でが何組か来ていました。伊勢神宮とのつながりがある様です。戦災で焼けてしまい其のあとの再現です。写真ではよくわかりませんが黒塗りで金箔を施してあり豪華な神社でした。案内板によると、理容業者による信仰が厚く全国でも珍しい「髪」の祖神との事。街道に戻り「地蔵坂」を上りきると大通りに併合します。この信号を右に入っていきますと落語にある「王子の狐」で有名な「王子稲荷」がありますが少し入っていきますので行きませんでした。物の5分も歩いたら又大通りと街道は別れます。赤羽に通じる裏通りになるので街道が狭い割には車が多く歩きにくいが主要道路となるのでしょう。拡張工事がはじまっています。お寺を何軒か通り越しますと、小高い丘があり神社があります鳥居には「十条富士神社」とあり説明を読んでみると、前回駒込にありました富士神社と全く同じで富士山信仰のお宮でした。上まで登らずに写真を撮り進行しますと環状七号線の信号を渡ります。清水坂公園を左に見て進み埼京線のガード潜り坂道を上がり終えると赤羽西の街並みになってきました。ここで元に戻る形になりますが、地蔵坂を上り切ったあたりからリックサックを背負ったオジサンがズーと私の前を歩いておりました。同じく街道を歩いているのかなと思っていたら赤羽駅に入っていってしまった。赤羽駅の西口広場を通り越し東北本線などのガードを潜りすぐに左に折れて少し進むと王子方面からきている国道122号線と併合します。この辺りから「新河岸川」の所までが「岩淵宿」となっているようですが、宿のない宿場であったため、1件酒屋さんが古い佇まいから当時を表しているほかは何もありませんでした。新河岸川を渡り終えると荒川の土手になり長い橋「新荒川大橋」を渡り始めます。右手を見ますと大きな「岩淵水門」があり水門のある方が荒川の放水路である「隅田川」となります。橋を渡り終えてすぐに左に折れて土手を斜めに降りていき100メールもすると街道は右に折れていくわけですがここが当時「川口の渡し」の場所となるわけです。右角にお寺があり「善光寺」となっています。この善光寺は長野・山梨と共に三大善光寺であったと記されているが、今は小さな近代的の建物で面影は全然ありません。左の角に小さな緑地があり碑が立っています。「鎌倉橋跡」の碑で内容は平安時代末期、「源義経」「源為朝」の平氏打倒の挙兵に加わるため奥州平泉からここを渡って鎌倉へ向かったことが「義経紀」に記されている。ここで一休みして川口宿を歩きました。少し古い建物が見受けられます。眺めながら進むと道路が行きあたり目の前に小さな緑地公園になっていて「川口宿」の内容が記されていました。読んでみると、この御成街道は中世の鎌倉街道を徳川将軍が整備して作ったもので、社参は二代目秀忠が6回・家光が9回あったが、川口宿を通った記録は6回の記録が残っている。1843年には宿の人口は1406人で、家数が295軒、本陣・脇本陣・旅籠・諸商店などがあり、裏町には鋳物を生業とするものが10数名とありました。案内地図があってよく見るとここまでが宿場で、本陣を見ずに通り越してしまっていました。右に曲がると国道122号と併合です。ここから鳩ヶ宿までは何もないだろうからただ歩くだけだろうと肝に銘じて歩き始めました。芝川を渡ると「川口元郷駅」があります。こんなところを電車が?線路がないので地下鉄か?きっと地下鉄南北線の延長か思ったのですが、「埼玉高速鉄道」と記されてある。出発駅が岩渕駅のようなのですが南北線の乗り入れが出来るのだろうか?又は乗り換えをするのだろうか?思案しながら歩いていて、赤なので止まった信号に町名の看板が付いています。12月田」となっている。信号のところに地元の人らしきおばさんが来たので「これなんと読むのですか?」と尋ねると丁寧に12月なので「しわすだ」と教えてくれました。納得です。お礼を言って信号を渡り少し歩くと洋館風な目立つ建物がある。見ると「旧田中家住宅」中に入っていくと入場料200円の券売機がある時間がないので上には上がらなかったが、何人か見学をしているようだ。説明によると大正1012年に建てた、木造煉瓦造り3階建て農家あった2代目が大麦と豊かな地下水を利用した麦麹味噌醸造と材木商を初め、財を成した。道路を渡って写真を撮り前へ進むと大きな看板の塔が見える。あの有名な「十勝甘納豆本舗」です。ここまで私は北海道が本店とばかり思っていたのでびっくりしました。お土産にと1袋買ってトイレを借りたくて見渡しても案内がありません。仕方なく店員さんに訊くと案内してくれたのが2階に靴を脱いでいくようになっていました。ただでトイレを使用させないようなっているとしか思えません。天下の十勝甘納豆本舗にしてはちょいとせこいかなと思った次第。我慢をして店を出ました。橋を渡るのですが、この川は「新芝川」先ほど渡った芝川よりこちらがはるかに大きい。渡ってすぐに大きな屋敷がありましたが、変わった苗字なので記します「()()()?大きな信号があり緑地帯に「これより北鳩ケ谷宿」の石碑。ここで街道は122号国道と別れて旧道(宿場)に入っていきます。各店先「御成街道祭」の旗が立っていて、30人ほどの人たちが冊子をもって歩きながら打ち合せしています。聞きますと明日(11日日曜日)お祭りとの事です。なかなか綺麗な宿場町です。みんなが共同で力を入れていくとこのような活気のある街になるのだなと思います。中ほどかと思われるところに来ましたら古いからくり人形が付いた時計台がありました。時間文字は12支なっていて、時間を知らせるのに平日5回、日曜日は1時間ごとにからくりが動くと記してあります。ここを過ぎたところに歴史があるだろうウナギ屋さんがあり昼時なので入ろうといたしましたが、入り口まで行きましたが懐がやめろとの事で諦めました。少し先の「氷川神社」に入っていきました。王子神社に匹敵する社です。明日(10日)のお祭りの中心となることでしょう。湧水が出ており一杯頂きました。又根元から二つに分かれている楠の老木がありました。街道に出てくると又そこに老舗らしきウナギ屋さんがある、今度は横目にて通り過ぎました。桜町あたりに来ると宿場も終わりです。左に何百台も置ける駐車場があり、スーパーもないのになんでこんなに駐車場、過ぎた左に創価学会の建物。固定資産税をかけないのが間違えているような気は致しました。宿場ではないようですが新井宿と言うところに入ってきました。国道に近い所に来ましたので、国道に出て昼食をいたしました。終わって川口ジャンクションに出て旧道に戻ろうとして地図を見ていましたが大きなジャンクションでその上複雑になっていて戸惑っていたらおじさんが声をかけてくれて確かめるためにお聞きしました。王子から歩いて来たと言ったら驚いていました。旧道に戻り少し歩いたところに街道6番目1里塚があった。ここを過ぎると歩道がなく国道と並行に走っている割に車が多く道路が狭いため乗用車でもバックミラーが引っ掛かりそうに3qの間何回もありました。ようやく東川口駅にたどり着き帰途につきました。今回反省はお寺数が多かったが殆ど寄ることができなかった

                       第二回完


御成街道を歩記

                        歩記者 林 厚男

 第一回 

平成30年10月日                   天気 曇り  25

大手門〜王子駅(予定は岩淵宿まで)    地図上距離11q  実質距離145q

 

今回は「日光御成街道」を歩くことにいたしました。御成街道がもう1つあってこれは

将軍が鷹狩りに行くために、千葉県の東金までを作った街道「東金御成街道」です。


   旧古河御用邸

   将門の首塚

      神田明神の山門

 かねやすのあった所

   春日局愛祈の地蔵

   布袋さん

       旧古河御用邸

 国指定跡の一里塚 


「日光御成街道は」街道の人通りが多くなってきて、それを避けるために埼玉の幸手まで作った。将軍、重心の利用した街道です。こんなエピソード残っているそうです。
10代将軍「徳川家治」が日光を社参したときに先頭が日光についているのに最後尾はまだ城を出発していなかった。朝、早かったので大手門が開いておりませんでした。将軍家及び、重心などがここから日光に向けて出発し行っただろうと想像をして私も出発いたしました。 門を出てきたところが大手町の信号、ここを左に折れてすぐに次の信号になり、ここを右に渡ります。左のビルとビルの間に「平の将門」の首塚がある。水戸街道を歩いているときに将門を祭ってあるところがあった。歴史に疎い私はそこで平家との関係がないことを知った。関東八州を収めていて、強きをくじき弱気を助けたとの事だ。朝早くから通勤途中の人がお参りに絶え間なく来る。それも若い人が多いのにはびっくりした。もともとここは「神田明神」の発祥の地で現在のところに移ったとの事です。自分もお参りをして道路に戻る。本郷通りの信号を右に曲がります。信号の向こう側は「読売新聞」の本社。箱根駅伝を歩いた時このビルの脇が出発点でした。神田橋を渡ると大手町から神田に入ります。渡った左が小さな公園になっていてその川淵に人が大勢たむろしている。よく見ると喫煙所です。今はビルの中に喫煙所のないところが結構あるのだなと、少々喫煙者がかわいそうに?なった次第。神田小川町の信号を右に折れて、次の信号淡路町の信号を左に曲がり、少し進むと神田郵便局を右に見ながら「昌平橋」を渡ります。この交差は日本橋からきている国道17号(中仙道)と信号を渡って合流します。次の信号を左に折れて坂道を上がっていきますと左に教育発祥の地お言われている「湯島聖堂」があります。ここには入らずに右にある「神田明神」」に入りました。正式名は「神田神社」です。徳川家康が現在のところが鬼門の方角なので厄除けに将門の首塚のところから神社を移したとの説明。神社より山門が立派だったので写真にしました。山門を出て進みますと道の向こう側に「日本医科歯科大学」がありその向こう隣が「順天堂大学」と大学病院です。本郷通りとの合流の信号を過ぎると少し進んだところが大きな交差点「本郷三丁目」です。本郷三丁目の角の一角に「本郷もかねやすまでが江戸の内」掲げられているビルがあって、もともとは医者であったが江戸時代「乳香散」と言う歯磨き粉を売る店でたくさん売れていたとの事。ここまでが江戸の行政区だとすると江戸の町が狭くなってしまう。1730年に大火があり、防災上の理由で町奉行の「大岡越前守」がここから江戸城にかけて家の屋根は瓦でふくことを許可した。中仙道の沿いの茅葺屋根と景観が変わったためとされる。ただ「かねやす」の宣伝のためとの説もあるとの看板の下の説明です。信号を過ぎて進むと「菊坂」がある。この路地を左にはいていくとその辺は文人が多く住んでいて樋口一葉・宮沢賢治・石川啄木などが住んでいた。昨年の同級会の際、住んでいた家のあった場所の見学をした。東大(前田家の上屋敷跡)の赤門の前に来ました。ここもその際に門を入って東大のキャンパスを見学、菊坂と東大の中の説明は同級生の説明によりました。道路側の銀杏並木と学校側の楠の並木の下を進みます。「正門」の前を通り、「西片門」の前をとうり過ぎると「弥生町」の信号です。「弥生式土器」の名前はここで土器が発見されて付けられたことによるものだ。それで名前が残されているのか?東大の見学の時、弥生門から出たときに大きな碑があったことを思い出します。信号を渡った所の右側はまだ東大(農学部?)です。門の前の信号が昔の追分で中仙道は(国道17号)で左に行きます。御成街道は本郷通りをまっすぐ進みます。文京学院大学を過ぎたあたりからやたらと寺があり、すごい所は5軒も並んだところがあった。見学はいちいちできないので二軒ほど見学をしたところを記してみます。「浄心寺」浄土宗((本山知恩院)で以前は湯島にあり、八百屋お七の振袖火事でここに移設をしたとのこと、道路沿いの入り口に大きな布袋さんとその隣に隠れて立っいた「春日の局」の御愛祈だったお地蔵さんです。少し進んだところに大きな山門があるので入っていくと曹洞宗のお寺で「吉祥寺」参道が長く墓地も広いし敷地びっくりするほど広い、水道橋にあったが大火でここに来た。駒澤大学の前身である僧侶の養成機関(せん)(だん)(りん)を設け1千余名の学僧学んだとの表示版、大きな寺の訳が分かった。ここには「二宮尊徳」をはじめとする何人かの有名人の墓所があった。ここを出てからはやっと寺がなくなって来た、右手に神社があったので行ってみると「富士神社」どうも富士山の信仰で町火消の信者が多かったようだお宮の脇に長屋になった倉庫が21番まであったそれぞれの町内のお神輿なのか纏いなのかを仕舞ってあるのではないかと思った。

左側に(りく)()(えん)を見ながら進みます。2回ほど入ったことがあるので今日はスルーです。裏門 (ここからは入れない)を過ぎると右側が駒込駅です。山手線を下に見ながら橋を渡ります。軽い下り坂を降りると今度は結構長い坂道を進みます。碑が立っていてこの坂道の

名前は、この辺りに住んでいた中世の武将「保坂 大炊(おおいの)(すけ)から大炊(おおいの)介坂(すけさか)と言われていた。当時は樹木に覆われていて「暗闇坂」とも呼ばれていた。登り切ったところが「旧古河屋敷」です。今は都立で古河庭園となっていて初めてなので150円払って入りました。今はバラが見ごろになっていましたが、庭が素晴らしかった。モミジの大木が何本も見えます。少し赤みをおびてきていましたが、紅葉の最盛期にはすばらしいモミジが見えると思います。「旧古河御用邸」には入らなかったのですが別途500円で限定人数しか入れない。500円も取るので中には相当な見応えのものがあるのでしょうか?庭園を廻っている時間がないので一見して出てきました。見学者も結構入っていました。皆さんも如何でしょうか?大塚駅で降りて六義園を見て、古河屋敷に回るコースなどは・・・・通りを進むと道の向こう側に大きな工場があります。よく見ますと「造幣局滝野川工場」です。何十年も前この辺りは仕事で担当地域でしたが、忘れておりました。造幣局の工場が襲われたことは聞いたことがありませんが、隣が滝野川警察署なので安心と言えば安心です。警察署を過ぎたところに道路のど真ん中「西ヶ原一里塚」が残っている。このところが一里塚であるから手前の東大の所の追分が日本橋からの第一一里塚なり日本橋からここまでは二里(訳8q)ことになる。説明看板を見ると都内で残っているのは此処だけで、大正時代に東京市電の工事で撤去される予定だったが、渋沢 栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動で保存に成功したとあります。榎がこの塚と道路の左側にもう一本あって一対となっていて指定保護樹木となっている。少し進んだ右側一帯が「都立飛鳥山公園」です。大きな公園で昔から桜が有名です。今はつつじ・紫陽花も相当数が植えてあり、時期になると桜と並んで人出が多いとの事です。今は王子駅を降りるとそこから無料ロープウェイが無料で公園の上まで運んでいました。公園を右に見ながら坂道を降りて行くと「チンチン電車(都電)」が道路の真ん中を走って来ました。三河島から早稲田まで走っている都電は王子駅からこのところの部分だけ路面を走っているのです。一里塚を過ぎた少先で道路を離れ都電専用道へ入っていき大塚から雑司ヶ谷を通り早稲田に行きます。「御成街道」は王子駅の手前から本郷通りは外れ昔の道となり地図がないと歩けません。地図を用意して行ったのですが、旧古河庭園前後でなくしてしまったようです。「岩淵宿」まで5キロ足らずですが断念をして、王子で昼食をとり帰宅をいたしました。    

 第一回完


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2018年2月「成田街道」がスタートしました

       今までの「歩記」につきましては一人にて、それぞれ完歩いたしましたが今回はゴルフ仲間とウォーキングを楽しもうということで  出発をいたしました。最終目的は成田山新勝寺に詣で「鰻重」を食べることです。簡単な道中記に纏めてみました。
平成30年5月12日(土)成田街道完歩しました。

                   第五回 成田街道完          平成30年5月12日(土)

 

 酒々井(しすい)宿(しゅく)〜成田宿                  8:5q


 成田山護摩供養塔

癒されるお地蔵さん


 成田街道終点の碑

  憎k天尊」の鳥居

 写真を汚す二人です


酒々井駅にて待ち合わせ、
930出発旧道に出て進行です。少し歩くと国道51線と合流、わずかに歩いて旧道は右に曲がります。カーブを曲がりながら坂道を上がりかけると、岩田長兵衛の建てた成田街道の碑が立っていて、旧成田街道であることの確認。道路の両側に大きな竹藪があるが手入れをしないので中を歩けないほどの枯れた竹が倒れている。登り切ったところに「成田道()(じの)の松並木跡」の碑が立っていた。通称は杢之(もくの)(しん)並木」と言われていたそうで昭和43年県の史跡に指定された当時は松の巨木が36本残っていた。昭和50年代に松喰虫の被害にあって全滅し57年に県の指定が解除になり、現在は史跡として残されているだけで、残っていた時の写真が説明札に記してあった。一緒に植えてあったらしい杉の大木が何本か残っている。又この並木と一緒に写真の碑が沢山建っていてすべての碑に

「成田山永代護摩木山」と刻んであります。新しいものだと戦後のものもありましたが、一番下の「木山」の意味が解りません。成田山に詳しい方々がいましたら教えてください。松並木であったとされる800mを過ぎると街道は国道51号線を斜めに横切ります。進んだところに案内板にて「浄泉寺」千葉一族による建立寺との事でしたので見てみたかったのですが、少々歩くようなので諦めて道路わきに帽子をかぶったのどかなお地蔵さん立っていたので写真に収めました。

坂道を上がると国道51号線に交わります。少し歩いたところから成田市に入ってきました。この辺りは各自動車販売会社が両サイドに並んでおります。

「公津の杜」入り口の信号を渡って次の信号を51号線と分かれて右斜めに進みます200300m歩いたところで国道409号線と合流です。坂道を上がった所に小さな神社がありここで一休み。今度国道51号線の信号を斜めにわたります。国道409号線はここが終点です。200300m歩いたところが国道464号線の信号で渡ります。今日は大変道路が複雑でしたが、迷わずにここまで来ることができました。これから「新勝寺」までは一本道になります。ほっとしたところに成田に住んでいる田舎の同級生より電話が入ってきました。今の居場所を知らせ、次のアクションを打ち合わせてして歩きます。

この一本道は、「一本松通り」と名前がついております。碑があったので写真を撮って由来を裏に回ってみたのですが白っぽい石に刻み込んだ字が白いので読めませんでした。また隣には馬頭観音の碑も一緒に立っています。そうこうしているうちに駅前に来ました。左が「JR駅成田駅」右が「京成成田駅」この駅前までは店屋さん関係はほとんどなかったのですが、駅前からの参道は店屋だらけ。同級生に駅前にいることを伝え途中にいることの返事です。

ここのからは歩行者天国で、今日は何とか祭りでとの事ですげ笠をかぶって、浴衣を着ているおばさんたちが沢山、皆美人?に見えます。土曜日に重なってお客さんも道一杯です。成田では有名な「よねやの羊羹」の店が何店舗かある様です。栗羊羹の考案者と聞いておりましたが。中間まで来た頃ですがどこかのオジサンがすり寄ってきたのでびっくりして顔を見たら同級生でした。山門の方で待っているとの電話だったと思っていたものですから。同級生の説明でここが終点「成田道路元標」新勝寺の原点である「薬師堂」の前に立っていました。山門をくぐり「新勝寺」に今日の無事到着の感謝と、健康で次の歩きも完歩できる事を願いました。1080年祭で人出が多かった。皆さんも記念祭に成田山にいかがでしょうか。

左手に移動をしていきます。昔は占い師が沢山いたことを話をすると同級生は、今は半分になっているとの事でした。よく当たる占い師のところには並んでいたような記憶がありました。成田さんに来たらもう1つお稲荷さんにと思って行くと並んで待っているので諦めて、鳥居のところで一礼です。憎k(だき)()天尊」「出世稲荷」との事で毎年2月2日が祭礼との事、歩き友が自分の誕生日と同じだと喜んでいました。裏道を抜けて望みの「鰻重」の店に、参道ではウナギ屋さんは並んで待っていたので心配をしましたが、友達が観光客の来ない支店に案内をしてくれました。生ビールをぐっと飲みながら昔話に花が咲き、とても楽しいひと時でした。

帰りは駅まで送ってもらい、再開を約束して車中の人となりました。成田街道完

旧成田街道ウォーキング

                  平成30430日 林 厚男

 第4回

  臼井宿〜佐倉宿〜酒々井宿           距離 12q


  雷電為衛門の碑

   鹿島川に架かる鹿島橋

    呉服商 駿河屋

    佐倉藩知事の「定」

  現代の「佐倉市民憲章


    1858年の順天堂病院

   二軒の島田家の建物

前回、道を間違えてしまって「臼井宿」を通ることができなかった。とりあえず駅を降りて旧道に戻った。歩き初めが「妙覚寺」と言うお寺で街道の道端に「雷電為衛門」碑があった。

雷電の碑が何でここにあるのか?出身は長野県。現在の東御市であったが、雷電の妻「おはん(後に八重)」は臼井宿街道沿いの甘酒茶屋「天狗」の一人娘で、雷電が「天狗」に立ち寄った折り、見初めて妻にした。引退後の余生を妻の郷の臼井宿で過ごした。碑に「天下第一流 力士雷電之碑」文字が刻んである。文字については佐久間象山の筆です。同じ長野県出身ということか?写真の左に少し見えているが手形があって当ててみると私の手は第二関節で終ってしまいました。又彫り込んである体の大きさは等身大との説明。この辺りが宿場の中心と思われ それらしき建物は見当たらないが、おおきな旧家が何軒か目に入った。旧街道を真っすぐ進んでTの字を右に折れて下った頃が旧国道296号線、左に折れてぶつかった所が「臼井T字路」右に又折れる。左奥の方に臼井城址があるとの案内が出ていましたが取りやめました。宿場を兼ねた小さな城下町であったのでしょう。話のタネにと一軒「長源寺」と言うお寺に入っていきました。何か石仏像があるということで入っていきましたが、わからずじまい。でも季節に来れば裏山がツツジで綺麗だろうなと歩き友と話していたら、住民の方がそれを聞いていて、左側の藤棚も素晴らしいと言っていました。

街道に戻りますとすぐに京成電鉄の踏切を渡り、臼井宿を離れます。国道ですが旧道なので歩道がなく歩きにくい、そろそろ一休みと思い神社の鳥居が見えてきました。八幡神社でしたが、急な階段で結構高いので取りやめて休むのを先送りで進みますと橋が見えてきました。

橋は「鹿島橋」川は「鹿島川」千葉県にもこんな大きな川と大きな橋があるものだなと関心をいたしました。調べてみますとこの川は千葉市の奥から流れてきて、「印旛沼」に濯いでいるようだ。中間に踊り場がありそこで一服。実は昔仕事でお世話になった友人が佐倉に住んでいるので、1516年ぶりに合う連絡を取っていたので電話をすると、300m先のセブンイレブンで待っているとの事で休憩もそこそこに橋を渡る。渡った所に川魚料理を兼ねた食堂が二軒、ウナギの看板も出ている昔はウナギなども沢山とれたことでしょう。

友人も(同じ年齢)少し太った感じ、顔にはそれまでの歴史が刻まれていた。せっかく誘って頂いた一休みも時間が許さず記念写真に納まり、また元気での再会を約束して別れた。

道路の向こう側に「う"くける佐倉」佐倉市の特産物を扱ったり観光案内をしたりしていると思う「う"くける」は何を言っているのか地元の方言だろうと思います。佐倉の友この言葉を問う。

この辺りは城下町になっている。お濠が残っている右の高い丘が「佐倉城」跡で今は城址公園で「国立歴史民俗博物館」がある。右に見ながら旧道を歩いて国道と交わる。右方向に佐倉市役所がある。市役所の隣に「海隣寺」と言うお寺があり山門がしっかりしているので入っていく宗派「時宗」とあった珍しい宗派なので気になった。どこかにあったなと思った。思い出しました藤沢にあった時宗総本山「遊行寺」だった。しばらくして296号のパイパスと合流する。左に折れていくとこの辺りから「佐倉宿」に入っいく。296号を直角に左に折れたと處からメインストリートで銀行の建物の間などに旧建物がたくさん残っている。写真はその一つ明治の呉服商「駿河屋(今井家住宅)」ここは江戸時代の旅籠で「油屋」の跡地で桂小五郎などが宿泊した宿帳が残っているとの事。先に進むと鍵型の道路を右に折れる

少し歩くと又鍵型に左に折れる。やはり城下町だということが分かる。その角に来た時、その角のお寺の鐘がゴーンとなった。時間を見たらちょうど12時。昼の時を告げているようなので入っていった。つき終わってお住職らしき人がおりてきたので聞いたところ、欠かさずに打ち続けているとの事杖を使っている住職らしき人トレーナーを着ていた。

古い建物の前にこんな立札が立っていた、左が佐倉藩の知事の「定」で右が昭和45年に制定した「佐倉市民憲章」です。いずれも素晴らしい町を守っていこうとするところが良く見えます。

そろそろ宿場も終わりかなと歩いていると「旧佐倉順天堂病院」の立札です。要約しますと、オランダ医学を学んだ「佐藤 泰然(たいぜん)オランダ医学塾を起こした泰然の養子の「佐藤 (たか)(なか)」が長崎でオランダ医学を学び統計的な医学教育を取り入れ、ここで学んだ塾生の多くが明治医学界において活躍をした。尚中は新政府から現東大医学部の最高責任者としてまぬかれた後、御茶ノ水に「順天堂医院」を開設した。

一方佐倉は「佐倉順天堂病院」としての(たけ)(なか)の養子「佐藤 (しゅん)(かい)が継いだ。

今でもこの建物の隣に病院を開業いているようだ。この近くに順天堂大学のキャンパスがある、何の部かわかりませんが。そのほかこの宿場には潟Aマニ味噌屋・市の指定文化財として「三谷住宅」「旧堀田亭」「武家屋敷」「旧但馬家住宅」などが目に入ったが写真を入れきれない。佐倉市の名前はよく知っていたがこんな大きな宿場で、お寺が沢山、歴史が沢山あることに驚いた。順天堂病院のあるところの本町の信号を渡ると「酒々井町」にはいっていきます。しばらく歩いて国道296号に合流してすぐに国道と別れ旧成田街道に入る。古風な大きな住宅街になってきたので「酒々井宿」に入ってきたようだ。宿場にしては珍しく、同じ苗字の家がない、その中で旧家であるので地元の方であると思いますが「莇」と言う名字の家があった。皆さんに問う。

「島田長右衛門」家「島田政五郎」家です。江戸時代に徳川幕府の()()御用を務めていたとの事敷地が広大だったようだ(立札の図面による)野馬とは何を意味しているのかは分かりません。明治になってからは商家だった。建物も二軒とも明治になっての建物です。

「酒々井八坂神社」の脇をとうり過ぎると「伝説酒々井の井の碑」があります。孝行息子の家の井戸から酒が湧き出た。ことから酒々井との名前が付いた、の碑でした。

左遠くに広い田園を見て坂道を下ると酒々井の町の中心部が急に開けています。

住民の人に駅を確認して、左に信号を渡り駅に出ました。1時半になっていて、駅前の食堂にて飲んだビールのうまかったこと。             第四回完


旧成田街道ウォーキング

               平成30422日 林 厚男

第三回              

八千代緑が丘駅〜大和田宿〜京成臼井駅(臼井宿) 歩行距離 12q


     色々の石塔群

   大和橋から見た水門 

  道標及び常夜灯

    社のない神社

駅で降りて待ち合わせをしている際、ゴルフ客が相当降りてきた。よく考えてみるとここは八千代パブリックゴルフ場があることが分かりました。相当昔はよく行ったものだ。車の移動と電車の移動は感覚が違ってくる。そんな行動を見ているとごルファーの中に混ざって友が来た。

今日はほとんどが成田街道は国道296と同行となるので地図の必要は薄れるとおもう。駅前より街道に出る左に曲がって出発です。

歩き始めるとすぐに石塔群が目に入る(写真に入りきらない)よく見ると馬頭観音塔9、26夜講塔8、牛魂碑1があり、出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)巡礼講塔9がある、平成13年の「26夜講塔」があり、いまだに信仰をしているのがうかがえた。左側に鳥居があって宗教法人「神明社」の立札があった。お参りは友が中に行ってきて言うには菊の紋がついていたとの事、帰ってきて調べてみてみると、伊勢神宮が本社で本部は横浜市にあり全国的にある様で「天照大神」を祭ってあること。神明社のことをよくわかった人がおりましたら説明を乞う。

左に大きな工場が見えてきた「興眞乳業梶vの工場だ。東京の人でないとわからないと思いますが、大手三社に次ぐ牛乳屋さんで特に23区の北部では相当飲まれていた記憶があります。大塚と多摩にも工場がありました。

又左側に石仏群が見えます。ここは先ほどと違って「十九講」「子安講」「女人講」

が幾つも立っています。しばらく進みます。

道路の左に日蓮宗の「長妙寺」右に真言宗の「圓光寺」があり、長明寺には「八百お七」の母親が骨の一部を拾ってここにお墓を作った。お寺が何軒か存在してきましたのでこの辺りが「大和田宿」なるのでしょう。

ここまで神社が沢山ありましたが、みな小さなものばかりだった。大きな森をなしていたので結構な神社があると思って、階段を上がって見学をすることにした。参道には椎ノ木の老木が何本もある「時平神社」となっている。敷地が大きいが社は小さかった。どうも火災にあって立て直すに金のかかることで、そのようにしたようだ。1時間以上歩いたし今日は温度も高いので(千葉は28度と言っていた)一休みする。この神社は平安時代の左大臣「藤原 時平」からきていて、八千代市に4社あるだけの神社。階段を下りて街道に戻ると左に大きな碑が立っている「明治天皇行在(あんざい)之處碑」としてある。宿場もこの辺りで終の感じです 。新川の橋を渡りかけると左に大きな水門が見えます。印旛沼から流れてくるだけの水門と思われるが小さな川で水量もたいしたことがないと思うのに、何でこんなに大きな水門なのだろうか!大きな目的があって作ったものと思いますが・・・だらだら坂を上がっていくと国道16号との交差点で16号が陸橋になっています。登り終えて少し進んだところに石塔群があります。今までも小さな成田街道の道標が何ヶ所か見てきましたがこれは少し目立ちます。立札を要約しますと右側が歌舞伎の名優七代目「市川団十郎」の建立(こんりゅう)「天はちち 地はかかさまの清水かな」と呼んだ句が刻まれている。真ん中の碑は信集講社(しんしゅうこうしゃ)の「岩田長兵衛」が立てたもの、途中にあった道標も長兵衛が立てたもの、後ろに高くそびえているのは常夜灯です。信集講社が何なのか、岩田長兵衛が何者なのか、まったくわかりません。千葉に在住の方はお願いいたします。                                   

右下に大きな公園で「上座総合公園」を下に見ながら進みます。鳥居に神社の名前が書いてありますが右から読みます。皇産(みむす)()神社(じんじゃ)」(みむすびじんじゃ)と読みます。鳥居があって社はありません。碑が立っていてすべて

出羽三山の「羽黒山神社・月山神社・湯殿山神社」の名前を書いてあります。この碑が社になっていると想像をいたしました。        

歩き初めにもありましたがこの辺りはでは出羽三山の信者が多いのだろうと思います。しばらくして「ユーカリが丘駅」前に出てきました。20何年振りに来ましたので変わりようにびっくり!!いたしました。駅の上にとロータリーの右側にと大きなホテルがあります。高級に見えますが、成田空港へのお客が利用をしているのでしょうか?この駅にはモノレールもあって大きな分譲団地が出来てそのモノレールが団地の中をぐるりと回ってくるようになっている。東京への通勤ができる事をたてまえにて開発をしたような記憶があります。

12時を少し過ぎましたが、今日の目的地に着いて昼食にしようと思って焦ってしまったのか、今日は全てが国道296と号と同行と言うことが頭にあって最後に道を間違えてしまい駅に到着することになってしまった。少し残ってしまった分はこの次の時といたします。

                           完   


旧成田街道ウォーキング

                平成30324日(土)林 厚男

 

第2回                    歩行距離 15q 

下総中山駅〜船橋宿〜八千代緑が丘駅 



       常盤神社


 つないだ血流地蔵道道標

下総(しもそう)中山駅」。この駅は働いている頃は「下総(しもふさ)中山」と呼んでいた。いつの間にかシモフサシモソウに変はっていた。歩き友達に指摘されてわかった。そんな駅を9時過ぎに出発となった。街道(国道14号線)に出て歩き始めると左側は特に大きな屋敷ばかり並んでいる。これは国道14号線と別れて総武線の地下道を潜るところまで続いていた。潜り出ると船橋市街(旧)となる。

「海老川」と言う川に来ました。立派な橋が架かっていて、川べりは公園のようになっていて、趣のある木造の立札を読むと、昔は農業用水、防火用水、漁業、船運、生活用水などで、生活の糧となっていたので元の川に戻そうという趣旨のものでした。ウナギなども相当取れたのでしょう。古い暖簾であろうウナギ屋さんがありました。川を渡ると商店街になり宿場に入ってきた。ほとんど近代建築になっていますが2軒だけ宿場を思わせる建物があり写真の建物は女将さんに訊くと明治初期だと言っていました。商売は現代の高級そうな女性の洋品を扱っていました。駅にいくメーンストリートに来ますと昔とまるっきり変わっている。昔は狭い道路で車がいっぱい、いっぱいで走っていた。今は道路も広く

建物も新しくなって綺麗な商店街になっていました。商店街も終わると大きな三叉路の交差点に来て真ん中のところに大きな鳥居があり階段を上がると (おお)富比(いの)神社(船橋大神宮)戊辰(ぼしん)船橋戦争で旧幕府の本陣とされた(道理で境内は広いわけだ)社殿や宝物は全て消失してしまった。明治13年に再建されたので新しい。伊勢神宮(屋根は伊勢神宮そのもの)とのつながりで、遷宮の際のあまり材を受けて一部に使用をしているとの説明です。また境内の丘の上に指定文化財の六角形の「灯明台」があり、当時は光の到達郷里は11qあり、船橋沿岸を航行の船は目印とした。そんなことで漁民の信仰が厚い神社でもある様だ。又境内に徳川家康400年記念「常盤神社」があり、浅間神社もあったとの事でこの神社はどうなっているのか?よくわかった方がいたら乞う説明。立派な相撲の土俵もありましたが、奉納相撲でやるのだろうか。一休みしてから県道に戻りました。しばらく歩きますと国道296号線の信号です。直角に左に折れたところにここより「成田街道」の道標が立っていました。この信号まで来てしまうと、一見したかった「了源寺」を通り越してしまったようだ。この寺は幕府の大砲の試射場跡があり一番古い和時計が所蔵されているようだったのですが。それにしても旧成田街道と国道296号線を兼ねているのか車が混んでいてぎっしりだ。新京成電鉄の踏切を渡り少し歩いたところの「前原駅入り口」の信号を渡り昼食です。ファミレスに入りました。

自宅に帰る時間がありましたので、今日の目的は「八千代緑が丘駅」でしたが予定時間以上に掛かってしまうといけないので、時間を聞きました。自分の地図を見た感覚では2時間はかからないだろと思いましたが、3時間ほどかかる。これは店長まで聞いてくれた返事の時間でした。お礼をいてファミレスを後に少し歩いたところでミニパトに乗ったお巡りさんが食堂の駐車場出るところだったので時間をもう一度確かめたくて後を追ったのですが、気が付かずに行ってしまった。諦めて歩き始めていると、お巡りさんが追っかけ来てくれました。私の行動に気の付いたドライバーさんが知らせてくれたようです。恐縮をして尋ねるとお巡りさんは2時間少々です。自衛隊まで行くと半分になります。との答えを頂き何回もお礼を言って歩きました。途中街道を思わせる門構えの家もありました。50分ほど歩いたでしょうか?「航空自衛隊習志野駐屯基地」の正門に来ました。これで時間を読むことができました。この自衛隊は確か落下傘部隊であると思います。今日は土曜日なので休みの様だ。道路の右側が2キロほど自衛隊の敷地です。基地が終わったので小さな公園で一休み。公園を出るとすぐに信号を渡ります。渡った所に「血流地蔵道」道標がありました。ここから左に「木下(きおろし)街道」を4q行った「貞福寺」にある。この道標は半分だけ置いてあって下の半分は道路の下に埋没させていて、貴重な資料なので掘り返してつないだとの立札の説明。道路の向かいに「成田山」の道標があり両方が交通史の重要文化財との事です。まだ先が長いと思い15分ほど歩いたら「八千代緑が丘駅」入り口の信号です。1時間20分そこそこで着いてしまった。予定より1時間早く帰るはめになってしまった。時間に追われていたので神社仏閣は一か所で終ってしまった。今日の反省、現代は車社会になってしまい皆、車の時間はわかるが歩く時間の感覚が分からなくなっている。お巡りさんですらわかっていなかった。歩く時間だけは自分だけが頼りと言うことになってしまいました。

               完


 旧成田街道ウォーキング

               平成30年2月14日   林 厚男

第一回   新宿(にいじゅく)〜市川宿〜下総中山駅 


         随神門

       鰤の骨

            大祖師堂

2月14日(水曜日)亀有駅集合に旧水戸街道に出て中川橋を渡りますと昔の第一回目の宿場新宿(にいじゅく)今は葛飾区新宿町(にいじゅくちょう)なっています。水戸街道と別れて右に下っていきます。国道6号線を横切り市川宿へと向かいます。道路が狭いので少々戸惑いをして迷かけました。進みますと町お越しで 歴史的街道で「さくらどうり」の案内

1キロ余の桜並木で、帝釈天が近いので両方合わせて時期に来ればきれいでしょう。終わると江戸川の土手に出ました。江戸川より取り入れた昔の用水路が散策を兼ねています。昔の人の割には進歩的な考えだったかも・・・気持ちがいいので成田街道と並行していると思い1`用水道を歩いていたら少々違ったところに出てしまい、地場のご夫婦に訊いて街道に出た。ここは国14号線となります。江戸川の橋を渡り「市川宿」に入ります。元関所跡が江戸川の土手に形跡があり見学の後街道に戻る、昔と違って道路が倍の広さ、30年前に来たくらいだから町の様子がガラッと変わっています。市川駅入り口の信号を通り越して本八幡に向かいます。

仲間が、ぼつぼつ昼飯にと言うことで、道路の向こうに焼肉屋「(けん)」があり入る。

韓国の人が経営をしておりビルをもってその二階で商っているようで、成功をしたのでしょう。昼は焼肉はやらず韓国料理の定食¥との事で、二人で「石焼きビビンバ」を注文まだ40前後の主人で「山に行ってきたのですか?」と話しかけられ、歩きの目的を話すと関心をして自分もやってみたいので教えてくれとの事で、話が弾んでしまい焼きビビンバの混ぜ方を披露してくれて、美味しい焼き立ての卵焼きのサービスです。

帰るときに日本の言葉で「一期一会」を知っていますかと聞きますと、知っています。

嬉しく思いますと言ってくれました。こちらもビビンバのお礼を言って見送られました。プラ野球のピッチャーの色紙が何枚か貼ってありまして、時々来てくれますとの話でしたので、地元では知られた店なのでしょう。

ここまでに神社仏閣が沢山ありましたが、ほとんど入りませんでしたが昼食の後、歩き始めてすぐに大きな鳥居があり入っていきました「葛飾八幡宮」この神社は明治維新の神仏分離までは上野寛永寺の末寺があり、寺が神社を管理していた。だから写真の山門は寺としての山門で仁王門だった。仁王像を行徳の「徳願寺」に移し、仁王像の代わりに左大  右大臣を配し随神門してしまった。このよう寺の山門を神社の山門に切り替えた珍しい山門となっています。釣鐘が着いた鐘楼がそのまあ残っていますが、神社なので突くことはできなくしてあります。境内には1,200年の銀杏の大木もあり、山門と共に指定有形文化財になっています。源頼朝が下総国府へ入った時、参詣し社殿を修復させたとの説明があるので相当古い神社だと思います。

後書きになってしまいますが市川市に入ってから小さな神社ですが胡録(ころく)神社(じんじゃ)が二つほどありました。聞いたことのない神社なので大社はどこにあるのだろうと帰ってから調べてみますと、船橋から南小岩にかけて10(やしろ)ほどあり大社はなさそう。

昔、安房の国の商人が船で江戸に向かうおり海の嵐に会い、神頼のみして助かった時に神社を作ったとの事で海に面したそれぞれの地域の安全祈願にて作った神社?

本八幡駅前の信号を過ぎると左手大きな工事現場が始まっている。市役所の建て替え現場で、ガードマンに訊くと2年後完成との事。相当大きな建物になりそうだ。下総中山駅に向かって進むと面白い食べ物屋さん。ぶり専門の店で写真はぶりの骨です。二つ吊るしてありました。

「下総中山駅」入り口の信号に来た。今日は「船橋宿」まで行きたかったのだが。取りやめてお寺見学に切り替えて信号を左に入る。駅より真っすぐの道で寺まで参道になっている。門前商店街を抜け大きな山門をくぐると本堂までに左右に5ッづつ並んでお寺があり桜並木になっている。友達はこんなにお寺が並んでいてどの様にして食べているかと心配をしていました。

こんな時期に結構参拝者がいる。桜の時期は結構な参拝者になることでしょう。駅から近いので機会があったら花見時に如何か。

日蓮宗大本山「正中山(しょうちゅうざん) 法華経寺」です。大本山だけあって大きなお寺だ。大本山があるくらいなので、市川市に仏教にちなんだ名前が多い

稲荷(とうか)()」「(みょう)(でん)」「上下(じょうげ)(みょう)(でん)などあり特にわからないのが北方(ぼっけ)大きな町になっている。地元以外は読める人がいないので今の呼び名は「きたかた」となったと何年か前に聞きました。この地域の名前「中山(なかやま)」は山号の「正中山(しょうちゅうざん)」から来たような気が致します。第一回ですが二人道中も大変楽しいものでした。次は何が待っていいてくれるでしょうか?楽しみにしております。


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2017年2月「旧水戸街道」がスタートしました
今年は旧水戸街道を歩いてみること致しました。

第七回

平成291128日             天気 曇り 気温 14

長岡宿〜水戸(本町)      地図帳距離11.8q  実質距離14.0q 


 東京からの標識

      山門から本殿

      備前堀

     終点本町二丁目交差点


この宿は、いくつもの県の高校野球部が利用していて廊下に沢山貼ってあった。合宿に適したグランドあるのか?試合が良く行われるのか?昨晩は客私一人でした。日光街道を歩いた時も1回は一人でした。旅館も客が一人ということは寂しいものです。交通便の良くないところは(鉄道のない町)発展も遅れているし、旅館も大変と思います。交通網はバスで水戸行きがありますが朝晩だけです。窓を開けると曇りです。曇りだと風も出ないし今日は歩くのには最高と思って出発いたしました。信号を渡り長い坂道を上がったところが県道2本と、国道6号線の立体交差こちらは6号線と合流したいのですが、複雑な交差になっていて200300m余分な歩きをしてしまった。何とか6号線の大きな歩道に出て歩きます。左にイオンモールがありましたが、今まで見たモールでは一番大きいと思う。中を歩いたたら大変だと思うほど大きい。通り過ぎると北関東自動車道路を渡るのですが、インターチェンジが一緒に絡んでいて陸橋をいくつも上がったり下りたりここだけで、大分疲れが出てしまった。 ほっとして歩き始めると、東京から100qと水戸まで7qの表示の標識と同時に「水戸市」に入ります。少し先から三叉路になり6号線は右方向に行き、旧道は左方向に進みます。この先コンビニ等はなくトイレに困ると思い「茨城交通安全協会」の建物に入り快くお借りでき、お礼を言って街道に戻る。すぐまた三差路に来た。地図と違って県道より市道の方が広いし車の量も多いということがよくある。狭い県道の方に入り少し歩いたところで、30代らしい奥様に訊く「ここは旧水戸街道ですか?」「わかりません」「この先に熱田神宮があれば旧水戸街道ですが」「じゃあ間違いありません」いつもですが地元の方は、よくわかっていない人が多い。ここは吉沢町になります が中間点ぐらいに進んだ時、石の門がある豪邸が「吉沢家」だった旧家の家の名字が村や町の名前で残っているとところが時々ありました。長い吉沢町抜けるころ、この町中に最後の一里塚が残されてあり、樹齢300年の榎が2mのところで上がなくなっていて何本かの幹が創生されていた。国道50号線との交差点を渡り、又すぐに県道235号線を渡ると、県道、国道に車も人もそちらに流、往来がほとんどなくなりました。静かなところ歩いていると左に変わった建物があります。宗教でした。阿含宗(あごんしゅう)とゆう宗教です。帰って調べてみるとチベット仏教に関係していて「ダライマラ」に関係しているのか?よくわかりませんが新しい宗教で本山は京都で、芸人ではタモリ、小堺一機花田ファミリー(相撲)などが信者とか?そんなところを見ながら町の中心に近づくとやはり城下町、道路がクランクになっていました。ここから終点までクランクなっているところが5か所ありました。三つ目のクランクを過ぎて坂道を下った所の左に神社があり入ることにしました。参道を通り急な階段を上がります。踊り場のところに、周りが13m、樹齢300年としてある欅、この太だと500年は立っているのでは?ないかと思いました。今までの経験です。この神社は式念遷宮が行われる大社で常陸三宮に当たる。祭神は日本武尊とのこと。もう少し歩くのが残っていますが、無事完歩のお礼にお参りしようと鈴鳴らそうとしたら、中で七五三の祝詞(のりと)を挙げていたので止めてお参りをしました。元に戻って斜めに進みますと「備前堀」に出ました。これは徳川家から命令で「伊奈備前守忠次」が「千波湖」からの用水を兼ねて溢水(いっすい)を防ぐために築いた堀、今は農業用水に使用しているとの説明ここに架かっている橋が(たま)(げ)(はし)ここの説明版を見ると江戸から2919町(約116q)当時は23日の工程だった。ここの橋で江戸からの友と別れたので名前が付いた。橋を渡り路地を歩いて突き当りを右に曲がって少し歩いたところが終点となりますが、駅からこんなに離れたところに趣のある商店街があるということは、昔は街道の終点だったので店が繁盛していたのでしょう。

駅から遠いので足周りのことを考えて、おばあちゃん二人に訊くと、国道に出ればバスが1時間に3〜4ぐらい駅行があると教えてくれた。ほっとして終点に歩きだしたら「そっちではないよ、こっちだよ」との親切心。水戸街道の終点がすぐこの先です。話したらやはりこんなお年寄りでもわからなくて、反ってお礼を言はれた次第。道路の両脇にたっている石が印の碑となります。ちょっとあっけない終点でした。国道に出てバスにて水戸駅に出ました。やはり県庁所在地にぎやかで活気がありました。昼食を済ませて帰路につきました。

                            第七回完


第六回

平成291127日             天気 晴後曇 気温14

府中宿(石岡)〜竹原〜片倉〜小畑〜長岡   地図上距離20.5q 実質距離23.5q


 分厚い土の扉

 加藤家の復旧の門

 本陣を思わせる本多家

  カエルが二匹

        高橋

まだ府中宿は終わっていなかったので、石岡の駅を出て前回終了点の国道355号線に戻る。

駅から突き当りなので右に曲がって進む。ここには「常陸総社宮」がある、日本武尊に関係があり漫画家の「手塚治」の先祖はここのようです。中に入っていくにので先を考えて立ち寄りません。街並みの中に造り酒屋があり蔵の窓の扉が分厚いのにびっくり。5〜6分歩くと旧水戸街道は信号を右に折県道52号線となり常磐線の陸橋に出ました。右下に石岡駅を見て渡った所に説明碑、ここは松平藩で徳川家の信頼が厚くここより2qにわたり、立派な杉並木があった。水戸街道ではここだけが杉並木が許されていたとの事。今はその気配すらありません。 

坂道を上がったところに「府中(石岡)1里塚」の後、推定400年の榎があったが平成14年の台風にて倒木二代目榎が植えてあり結構太くなっていた。この県道は歩道が広く歩きやすくて距離が進みます。黙々とあるいているなかで、日本刀研磨の店「忍」とありましたがこれで生活をしているのだろうか?長い真っすぐな県道もしばらく歩くと少し右にカーブをしていきますが、記者は真っすぐ旧道に入っていきました。左に指定文化財「木造不動明王座像」とあるので見に入ったが扉が木造でのぞき窓しかないのでのぞいたが中が真っ暗で何も見えません宿場でもないのに何軒かの豪邸を見ながら坂道を下っていきますと、県道52号の信号になり、右角にセブンイレブンがあるはずなのにない、道を間違えたかなとよく見ると、閉鎖をしてしまっていた。信号を渡って「小美玉市」に入ってきました。この道路は市道になります。広い田園風景を見ながら坂道にかかります。途中右に神社があり「竹原神社」となっている急な階段を上り終わると小さな社だが総欅で趣がある。説明を読むとお祭りには長い歴史のある神輿が出るとのことです。名前からして「竹原宿」し入ってきたことになります。神社を後にすると宿場らしく古い建物が何軒か見かけましたが、小さな宿場だったという佇まいでした。信号を左に曲がりますと国道6号線と合流です。しばらく歩いたところに「北辰一刀流故大貫先生の碑」と言う大きな石碑が立っているので写真に撮り、帰ってきて調べてみると免許皆伝をしていたぐらい、地元の出身ということで碑を建てた様子。大きくカーブを回ると大きな桜の木の並木、道路計画で片側を切り倒してしまったようだ。長い桜並木を過ぎると旧道は三叉路を左に入ります。入っていくと左に、「Meiji」の茨城工場(明治乳業)があり通り過ぎろと左手に「小美玉市役所」が見えてきました。この辺りから「片倉宿」(現在住居表示は堅倉となっている)入ってきたようだ。左に大きなお寺が見えるので今日はお寺に入っていないのでと思い入っていくと民家だった。

大きな宿場だったようで、道路がクランクになっている。宿場の中心に来ると、門だけが残っていた。左の碑を見ると水戸藩の加藤家から別家して、この宿場で名主宿であったため幕末の反乱軍「天狗党」により母屋や焼かれ、門も焼かれたが柱が残った。歴史を残すため現在の加藤さんが復旧をしたとの説明です。よく見ますと、復旧の門だけです。中には屋敷はありません。写真はその隣になるので加藤家がこちらに改めて建てたのではないかと思ってお門札を見ると「本多家」でした。加藤家はどこに住まいがあるのだろうか?中心地を過ぎと左に折れます。宿場が終わってくると茨城名物、干し芋を作っていて大きなビニールハウスが沢山ありました。だらだら坂を上がった左に何百年とたっている欅が二本、榎が一本、神社かなと思い路地を入っていくと、大きな民家でした。六号線の信号に来ました。渡って旧道が進むのですが昼になりましたので、国道6号線を歩いて食堂探しです。丁度良いような和食やさんありました、本日休業。隣に弁当屋さんがあり中に入ると広いので中で食べたかったのですが、断られ外の駐車場の擁壁に座ってむなしい昼食をすます。この辺り一帯には、自動車会社の何社かのモータープールやトラックステーションンなど車の関係の店などが沢山あった。ここを過ぎたところから「茨城町」に入ります。信号を右に曲がり旧道に戻りました。両側は田んぼ、畑ばかり竹林と林を過ぎると県道どうしの信号で、渡った所にお寺があって急に宿場になりました。「小畑宿」になります。「法円寺」と言うお寺の境内で石椅子に座ったこの寺は昔旅籠だった。一休み、少し休んでいかないと本日の終点に早く着きすぎてしまう。この宿場は今までの宿場に増した豪邸がありましたが、他の宿場と違うところは、門と蔵だけ残っているだけで雑草が生えている、お金がないのか大きな家とか門が朽ち果てる、こんな家が何軒かありました。門の上にカエルが鎮座していたのでパチリ宿場を過ぎるとすぐに田んぼと畑となります。周りに何もない宿場ですから、残念ながらだんだんと廃れてしまうのでしょうか?坂道を上がったところが、国道6号線と合流しました。進んだところの左に新しい校舎の「茨城東高校」あります。新しい建物ですが、並木が結構太いので校舎は建て替えたのでしょう。「東関東自動車道」の陸橋を渡るのですが下を見ると自動車がほとんど走っていません。行く行くは鹿島から成田につながっていくのでしょうが、地元の発展のためには国道とか県道を充実させた方が良いのではないだろうか。6号線と別れて旧道は右斜めに県道18号線へと進みます。まだ宿には早くついてしまうので小高いところに神社があるので急な階段を上っていくと「御霊神社」でした。小さな神社ですが境内のあちことに手で持てそうな神社が幾つもまつってありました。降りてきて、街中にはいいてきて県道43号線との交差点周りが、銀行とか町役場、農協、県の関係の出先関係があります。終わると「涸沼」の流れている「涸沼川」結構大きな川で、架かっている橋「高橋」渡った所が旧町並みで「平岡宿」旅館が「中多屋旅館」と言うのですが街道筋に見当たらない、道の向こう側に交番があるので入る。歴史のある旅館と聞いているのでお巡りさんがすぐに教えてくれるとおもったら、答えがない。番地がわかっているので言うと今度は町の地図を持っていき開きだした。いろいろ私が言うので上がってしまったのか全然違ったところ見ている。地図を手渡してもらって調べたらすぐに分かった。旧道の、旧道のような道路がありその街並みの中にあった。交番から歩いて3分。1530到着。夜は外で食べて、そこのご夫婦と話があってしまい一時間ほどお邪魔をしてしまった。宿のご夫婦も、食堂のご夫婦も年の割には茨城訛りが一つも出ませんでした。

第六回完


第五回

平成291116日             天気 晴   気温 15

土浦宿〜中貫宿〜稲吉宿〜府中宿(石岡) 距離178q 実質距離21q


 右に見える黄色の旗が高安関の旗

 指定文化財観音堂

 日光街道唯一の松並木

  中貫宿本陣

  本陣 坂本家

   旅籠 木村家


   恋瀬橋 

     筑波山

  金比羅神社


霞ケ浦が近のか霧のかかった土浦駅に降りてから、土浦宿の出発点である大町交差点まで約1q歩いて出発です。

城下町の入り口に「南門」があったと碑立っています。さすが城下町で10m歩いて右に折れ20m歩いて左に折かぎ型になっていました。すぐに寺が二軒並んでおります。「東光寺」と「等覚寺」等覚寺が昔の難しい字でしたので、読むことができずに寺の前の和菓子屋さんの親父さんに聞きました。珍しい銅鐘があるとの話でしたが、お礼を言って前に進みます。右に曲がり10mで左に折れ此処もかぎ型、ここより大手町になり、石畳にしてありました。「土浦宿」水戸街道では大きな宿場で本陣が二軒(山口家・大塚家)旅館も多数あったようだ。また古い建物がたくさん残っています。写真のように土蔵つくりになっています。江戸時代の終わりかに大火になって、火事にあっても燃えないような建築にしたとの事、5〜5軒あり建物は古いが中身は酒屋を除き、喫茶店や食堂や、小間物などを営んでいます。また各店ともご当地出身の大関「高安」の旗が立ててあります。古い建物は「県指定建物」です。メーンの通りを抜けると左に折れます。少し歩きまして左にお折れます。角に小さいですが「月読神社」がありました。お稲荷さんです。地図に載っているので小さいが地元としては由緒あるのでしょう。すぐにまた右に折れ所に「北門」後の石碑が立っておりました。ここで城下町が終わりなのでしょう。両岸に桜並木のある新川を渡り、つくば国際大学のおおきな高校を右に見て進みますと、古い和菓子屋さんが「九万五千石」というお菓子をキャッチフレーズにありましたが、これで「土浦城」は九万五千石だったなと思いました。ほとんど市外になっているのに、左側と右側に大きなビルが2棟あって塔屋に「延増」となっています。貸しビルのようですが気になって帰ってきて調べてみると、有名な「中川ヒューム管株式会社」グループの不動産の会社でした。土浦が本社だったのだ。またグループ企業が沢山あるようです。国道125号線との交わりを、バス停にいたおじさんに聞いて進み、信号を渡り上がり始めた右にお寺があるので入っていきました。「善応寺」言う小さなお寺でしたが指定文化財が境内等に色々あるのですが時間の関係にて観音堂だけを写真に納めました。本堂はまだ新しかった。また階段の入り口に「照井の井戸」と言って湧水が出ていて、地元では知られているのでしょう汲みに来ていました。真鍋通りに戻ります。だらだら坂を上がっていくのですが、ここは宿場として載っていないのですが「真鍋宿」と言って宿場だった。3〜4軒そのものの建物が残っています。土浦宿が城下町なので一般人がこちらに宿泊したのか?坂道が上がりきったところが国道125号線と合流です。右側に「県立土浦第一高校」です。歴史がある学校なのでしょう、校内に旧県立土浦中学校の本館が残っていて耐震補強の工事の立札があった。歩きながら左を見ると天気が良いので向こうに筑波山がくっきりと見えております。

大きな信号の交差点に来ました。国道125号線は左に曲がります。右が国道354号線になり真っすぐが県道64号線となり、信号を渡った所で旧道は斜め右に入っていきます(五差路)。旧道に入った所の小高いところにどでかい工場があり「株SHカッパープロダクツ」という。聞いたことがないので帰って調べてみると日立金属が100%株主で日立の電子材と電池材で日産の電気自動車の電池を製造しているようだ。

ここより水戸街道で唯一残っている松並木です。古い松の木は30%ぐらいで、後はかけた後に新しく植えたものです。「板谷の1里塚」があり右側に大きな土浦厚生病院ですが、場所が場所だけに大きな老人ホームも一緒です。先に進んだ左に「大山ねずの命神示教会関東第一偉光会館」という宗教があった。本部は横浜市営地下鉄蒔田駅の周りにあり、全国にあり相当大きな宗教らしいが、どのような宗教かわかりませんが何方か知った方は?・・・その隣が「立正佼成会」その隣がこれもなんだかわかりませんが真新しい立派な石の門柱に「佛立山 本門寺」本堂は普通の家で外壁に「本門佛立宗本門寺」と記してある。夫婦だろうか?二人で玄関のところで何かをしていた。何だかわからないところを通り過ぎると、約1.5qの松並木も終わりとなり県道64号線と合流となります。少し進んで国道6号線(水戸街道)の陸橋を超えたのですが、複雑に入り込んでいてわかりにくい、どうもそれらしき田んぼの中の道を歩いているとおばさんが来たので聞くと間違いないようだ。坂道を上がりだすと大きな墓地が左側に広がっている坂道を上がりきってもお寺があって見当たらない。三叉路があって右は車がやっと通れるぐらいで左が少し広いのでそちらに行った。それが間違っていて道に迷い元の三叉路に戻って右に少し歩くと「中貫宿」に入ってきた。写真は本陣です。そのまま残っており一番奥の建物は茅葺で銅板瓦にて保存と防火を兼ねて覆うっていた。この宿場は23軒あったようでほとんどの家が本陣をまねてか対抗の為か、門構えの豪邸でした。中間に来ると「安穏寺」という寺がありこれがさっきの墓地の寺だった。広い墓地の割にはこじんまりしたお寺です。坂道を降りて登りきったところが国道6号線と合流です。

ここより「かすみがうら市」です。以前は千代田町だった。しばらくは黙々と歩きまました。だいぶ進んだところで左に陶陶酒製造の工場がります。一時宮下さんがゴルフの時好んで飲んでいたことを思い出しました。過ぎてから国道6より旧道を左斜めに入っていきます。宿場に入りかけたところに「刀工 渡辺家」の立札があるので、刀を作っているのか研ぐだけか?見たいと思って入っていくと大きな犬に吠えられて戻った。

今度は「稲吉宿」です。ここの本陣は一般の住宅より一段と高くなっている玄関屋根の上部には、領主本堂氏の定門「笹りんどう」つけられていた。右は水戸街道で当時のままで保存されている旅籠は、ここだけと説明されている。どちら住まいとして使用されていて見学もできると説明されていた。水戸街道で本陣が残されているところは「取手宿」・「中貫宿」「稲吉宿」だけとなります。又一般住宅は「中貫宿」のように門はないが豪邸のところはこちらの方が多い。何で水戸街道の宿場には豪華な豪邸が多いのだろう。疑問が残ったままです。宿場外れに「香取神社」があるが参道が150mほどありそうなのでやめた。鳥居の前に宿場の案内図があり各旅籠であった家々の屋号が記されていた。坂道を下って川を渡り、坂道を上がった所の左が「かすみがうら市役所」と消防本部・農業センターとありました。過ぎたあたりから果樹園が多くあり、観光果樹園が何件もありました。      

この家も観光農園太りをしたのか?素晴らしい門があり「どうだんつつじ」がきれいだったので写真に収めました。昼食時間が来たのですが旧道の宿場を歩いていると食べ物屋さんを一つもありません。必ずあるのは郵便局だけです。やっと国道6号線と合流になり、ラーメン専門店があるので入ろうとしたら、こんな片田舎で回りにも民家が少ないのに大勢並んで待っていた。仕方がないので道路の向こうの中華店に入る。頼みもしない物が余分に出てきて食べきれなかった。

今度は国道6号線を歩きます。進んだところに「常磐高速道路」に行く千代田石岡インターチェンジを潜ります。道路の向こう側の高いところに「千代田一里塚」がありますが、渡るところがないので諦めた。坂道を上がりきったところで、また国道6号線と別れて旧道を左に入ります。まだこの辺も果樹園が多く、結構な住宅で「茅場」・「押野」という名字が多くみられます。国道6号線と合流してすぐに「恋瀬川」の「恋瀬橋」渡ります丁度中間にて筑波山がくっきりと見えましたので写真に納めました。渡り終えるとここから「石岡市」です。進んだところで三叉路になり、右が国道6号線です。

左が国道355号線となり石岡市内に入ります。長い坂道を上がって少し進んだところから「府中宿(石岡)」となり、「金比羅神社」が見えましたので入っていく。今日の歩記が無事済みそうなのでお礼参りをした。何か碑があるので見ますと、正岡子規が第一高等学校の学友を水戸に訪ねた際、石岡で2泊した。その時読んだ句があり125年記念にその句の碑を建てたとの説明にて二日路は 筑波にそうて 日ぞ長き」が刻んでありました。通りに戻りますと、説明の立札がありました。それは文化庁保存指定になっている、3軒並んでいる住まい兼用商店で 砂糖屋さん・薬屋さん・蕎麦屋さん店中は当時のままに商売をしておりました。商店街を中間まで歩きますと、駅に行く信号に来ましたので右に折れて、駅にてすぐ来た電車で帰路に就く。

                         第五回 完


 

第四回

平成29112日             天気 晴  気温20

牛久宿〜荒川沖宿〜中村宿〜土浦宿    地図上距離15.7q 実質距離18.5q


  鐘楼と四天王

  10個の床屋看板

   中根一里塚 

    旅籠佐野屋

  タバコ屋? 鶴田屋

 同じような建物が裏にも一棟

   茅葺屋根の山門 

   素晴らしい旧家

10月に2回ほど歩きたかったのですが、雨続きにて11月に入ってしまいました半年ぶりになるので少々心配の第四回目のスタートになりました。天気もまあまあというところで牛久駅を9時出発です。100mも歩くと第四回にして初めての旧水戸街道が6号線(水戸街道)と同行です。牛久宿の外れとなります。左に「薬師寺」の大きな石碑です。参道の杉並木が牛久市指定の文化財になっています。が惜しいことに右側に何もありません。民家の日陰になるために切り倒したものとみられる。

この杉並木は1116年の「永久四年百首」"いなり山 しるしの杉を尋ねきて あまねく人の かずさ今日かな" とあるとの事・山門をくぐると大きな立派な鐘楼があり本堂より(新しい)立派なので映してきた。またこの鐘楼の四隅に3mもあろうかという四天王が立っている。このお寺、歴史は古いが幕末より100年近くも住職がいなくて荒廃していたとの説明。又 山門の入ったところに「鹿島神宮」の小さな祠に工芸文化財があると立札があるが扉が閉まっていて見えない。街道に戻り前に進みます。まだ古い街並みが続いており、道の向こうに歴史ある手焼きせんべい屋さんが23軒見えました。草加せんべだけではないようだ。町はずれに来ますと、どこも同じですがスーパー、ディスカウントなどが立ち並びます。その一角に理容店の面白い看板が回っていましたので写真を撮りました。床屋さんの店先にある例の赤と青のクルクル回る看板が10個も稼働しておりました。

しばらく歩きますと、面白いいというか、よくわからないというか「真浄寺」と言うお寺?駐車場の向こうに民家の窓回り、雨戸柱、破風などをペンキで赤く塗って一応お寺と言うことでしょう。駐車場の奥には手作りの鳥居が2〜3立っていてそれはお稲荷さんということか?道路沿いに長屋のようなお店が並んでいて、その一軒に、一般的には指圧とか整体という看板ですがこの店の名前が「ほぐし屋さん」としてありました。なんとなく柔らかな感じがして入りやすいかもしれません。これも一つのアイデアでしょう。旧牛久の町も終わりでしばらく歩き圏央道の下をくぐりますと「小野川」という、小さいですが一級河川を渡ると牛久市中根町に入ってきました。合併の前は一つの町だったんでしょう。両側に農家がほとんどだと思いますが、立派な家ばかりです。「細谷」という名札が多くみらます。ゴルフ仲間に「細矢」さん、がいますが彼は群馬県安中と言っていました。西大通り入り口の信号に来ました。この信号はつくば学園都市の西口側に行く道路です。

メモをしながら信号を待っていると、私のように地図をもって歩いているらしき人が後ろからきて、先に信号を渡っていきます。水戸街道を歩いている様子でしたのでちょっと話をしたかったのですが、少し私より歩くのが早いようで離れて行ってしまいました。次の信号が「ひたち野うしく駅」西入口の信号ですが、駅の両側にマンションがぎっしりと何棟もたっていて、その周りは分譲住宅です。よく見ると新しい駅ができ、周りを開発しベッタウンの町が出来ていました。

ベットタウン通り過ぎると、ここより「土浦市」の標識です。その標識の直ぐ右側に「中根一里塚」があり。江戸から17番目になり、68qぐらいになる。これは牛久市指定文化財となっていて道路の向こう側は「荒川沖一里塚」こちらは土浦市になります。どちら側にも一里塚があることが初めてです。それも向こうは土浦市の文化財です。なぜ向かいにあって、指定の行政が違うのかと地図を見ると、道路の真ん中で市の境がかぎ型になっていてちょいと珍しいことになっていました。「中根一里塚」の方が手入れが行き届いておりました。ここで先ほどのおじさんに追いつくのですが、写真を撮り終えて出発してしまいました。土浦市に入ると同時に、荒川沖地域になっています。しばらく歩くと6号線と旧道が分かれます。旧道に入りますと、「荒川沖宿」になってきます。入ってすぐに「鶴田皮膚科」という病院がありましたが、これが病院もすごかったのですが自宅がこの土地に似合わないよな洋館の豪邸。中間地点が荒川沖駅入り口です。ここにはマンションが一つだけで、開発的のものは一つも見られません。やはり古い町の再開発は地権絡みで難しいのでしょう。ますます町が廃れて行ってしまうのに。前を歩いていたおじさんは、荒川沖駅入っていきました。そのあと行き会うことがありませんでしたので、今日はここまででお帰りなるのでしょうか?宿場らしき建物などが中間までありませんでしたが、過ぎたあたりに木造の門と上部が白壁の板塀の「宇野家」がありそれを過ぎると二軒茅葺屋根の家が並びます。左が「旅籠佐野屋」右がやはり旅籠であった思われますが、中をのぞくとタバコらしきものを置いてありましたが、商売っ気がないのか看板もありません。その頃の時代は旅籠であった思います。帰ってから調べてみますと、この宿場は小さな旅籠が何件か武士宿も一軒であったとの事でした。それにつけても佐野家は立派な建物でしたので庄屋か何かだったんでしょう。皮膚科の病院もそうでしたがここは「鶴田」と言う名字が多かった。宿場が終わると6号線と合流します。合流してすぐの大きな交差点が「学園東大道り入口」です。つくば学園都市の東側に通じている道路。交差の左側にも大きなモールがありましたが、信号を渡った道路両サイドが「ジョイフル本田」大きなヂスカウントと色入りのスポーツジム相当広い土地を使用しておりました。大きいわけですね、調べてみたら本社は土浦市でした。歩き始めると、また国道と別れます。旧道に入っていきますと[中村宿]かと思っているとそれらしきものは何もありません。そうこうしてているうちに6号線との交差点に出てしまいました。6号線と交差しているので渡って旧道に入って行きます。ここが中村宿だったんだと思った。写真のような豪邸が30件ほど並んでいて本陣跡がありましたが当時の示す建物はありませんでした。荒川沖宿場と3キロほどしか離れていないのでこちらの方が大きな宿場だたんだろう。坂道を降りていくとつくば学園都市につながる国道354との信号を渡り「花室川」

を渡るとすぐに「大聖寺」いう真言宗豊山派の寺の参道を入っていきます。茅葺の屋根の山門が二つ続きます。大きなお寺で一つの丘がお寺の敷地です

笠に形どった松の木。弘法大師、観音像などが銅像です。近くを通りましたら、一見のお寺です。鐘楼の鐘もいつでもつくことができるとの案内もありました。旧道に出て坂道を上がりきると橋があって下は国道6号線4車線になっています。高速道路と勘違いをしました。わたり終えると国道354線と合流です。丁度12時だったので角に「すき家」があったので、昼食です。一回「すき家」の「うな牛」を食べてみたかった。牛肉が少ゝ、少ない感じが致しましたがウナギは柔らかくておいしかった。一回はお勧め。店を出て今度旧水戸街道は354号線と同行です。この辺りは大きな立派な家が何件もあり、それぞれが庭に凝っているようで、みんな素晴らしい庭が見えました。写真の家だけが庭はたいしたことはありませんでしたが、建物が古いが門、蔵、母屋とも木造の素晴らしい建物なので写真にしました。豪邸の家ゝのところを過ぎると、354号線が左にカーブして行き、旧道は真っすぐ進みます。少し進んだところに「独立行政法人国立病院機構霞ケ浦医療センター」と言う総合病院が林の中に見えます。どう言う意味の国立病院なのかわかりませんが、森の中にあり環境が素晴らしく、こんな病院だったら直りが早いのではないかと感じました、坂道を下っていきます。愛宕神社、常福寺が階段を上がところなので、疲れてきたので上がりません。浄福寺には国宝の何かがあるようでしたが・・・大きな「桜川」「銭亀橋」を渡ります。23キロも行けば霞ケ浦に注いでいるのでしょう。わたり終えると土浦市街に入ってきました。大町という交差点にて今日は終わりです。信号を渡ったと頃より「土浦宿」なります。右に折れて約1qほど歩いて土浦駅より帰路につきました。今日は思ったより早く歩けました。旧道が国道と同行したり、平行になっていたので、途中のチェックしながらが必要なかった。

                             第四回 


第三回

平成29427日             天気曇り     気温18

取手宿〜藤代宿〜若柴宿〜牛久宿    地図上距離185q  実質距離22.5



  新六本店・田中酒造店

    旧取手本陣染野家住宅

    染野屋取手営業所

       信楽寺

     八坂神社

   500m.両側がすべて豪邸 

  坂の名前の立て札

門脇に立っている「明治天皇行幸碑

    宮崎利兵衛商店

前回は取手駅の西口から乗車をしたので取手宿場には到達していなかった。東口を降りて宿場の出発点に向かう、街道に出る前に「長禅寺」があったので階段を上がって行く。この寺は931年に創建者「平将門」と記してある。山門には、「相馬霊場総本地」の札が掛けてある。新四国相馬霊場八十八ヶ所の総本地で、一番・五番・八十八番の霊場になっている。又一茶の下総の 四国廻りや 閑古鳥句碑もあった。一茶も結構あちこち歩いているようだ。その他、県の指定文化財も幾つかあった。階段を下りて街道に出る。出たところは宿場に入っていて老舗が二軒ならんでいた。左の建物が利根川の回船問屋をしていて明治元年奈良漬に転じた「新六本店」右が操業360年になる「田中酒造店」奈良漬屋の店が開いていたのでひやかしに入って、試食をしたら美味しかったので荷物にならない量を購入、隣が酒屋さんで酒粕がすぐ手入って良いですね」と聞いたところ「酒粕は他の酒屋さんから購入しています」店員の話。隣でありながら昔から何か因縁があるのでしょう。進むと道路の向こうに「八坂神社」があります。取手の総鎮守だけあって、小さいがしっかりしたお宮でした。少し進むと取手本陣の立て札、入って行くと茅葺の本陣がありました。「旧取手本陣染野家住宅」でした。街道に出たところに「染野屋」との会社があります。文久二年創業の豆腐屋さん。軽自動車が20台近くある、若い店員さんがいたので聞いたところ、豆腐に関した商品を、すべて巡回(行商)販売で店頭売はやっていないとの事。帰ってから調べてみると全国展開で大きな会社でした。このような商売で現在も成り立っていることに大変に関心をいたしました。訊き忘れてしまったが多分染野家の関係であると思います。大きく左に曲がって進むと、本願寺と言うお寺の案内がありましたが、中にはいているので行かずに県道229号を進んでいると、「水戸街道道標識」が立っていて側面に「江戸与利十里二十二丁」と刻まれている。傍らに樹齢202年のサイカチの大木がある。取手市の保存樹木に指定されていた。この辺りに来るとほとんど田園風景になって来ます。ただ歩くだけですが、1つわからないことがありました。水路が田んぼより低いのですが、どうやって田んぼに水を引くのだろうか?聞きたいのですが人が見当らない。右側に結構大きな「東取手病院」がありますが、手狭になったのでしょうか直ぐ近くにその病院の新築工事をやっております。小さな「相野谷川」があり脇に道標があり「来應寺七丁」「水戸十八里」と刻まれている。橋を渡った所、左に「東日本ガス(株)」工場がある。天然ガスとあるので此処で天然ガスが採れているのだろうか大きな工場でした。田園を進みます。これで一級河川と思うような小さな川ですが「西浦川」を渡り終えると藤代町(取手市)に入って来ます。常磐線の線路を渡って旧六号線と合流します。渡ったところで一休みです。10分ほど休んで出発、左にきれいな建物で取手市藤代庁舎がありましたのでトイレをお借りいたしました。旧六号線に戻り藤代駅入口の信号を右に折れます。もう藤代宿に入ってきているのですが町おこしなるものは何もありません。本陣も跡地だけです。信楽寺(しんぎょうじ)に立ち寄りました。これと言った説明もありませんのでわかりませんでしたが、亡くなられ軍人の碑が幾つかありました。街道に戻り宿場であっただろう街並みを歩きますとそれでも宿場らしき建物が12見受けられました。宿場のはずれに来ると神社が見えるので入って行くと同じ敷地に「八坂神社」「熊野神社」があり別々に駐車場があるが、何なのか?「八坂神社」の建物が神社らしくない建物でしたので写真に収めました。そこを過ぎるて旧6号線と合流すると同時に大きな川「小貝川」のたもとに出て「文巻(ふみまき)橋」を渡ります。ここからは「竜崎市」に入ります。旧道は渡ったあたりから右斜めに進むのだと思いますが、常磐線に阻まれて一部旧道ではなくなります。牛久沼からきている川を渡りますが、この川は何川になるのだろうと?丁度地元の人らしきお爺さんに聞いたところこれも小貝川になるのだと教えてくれました。渡ってすぐの信号が小通(こどおり)幸谷(こうや)と言う交差点(三叉路)ここを右に曲がって行きます。本当は真っ直ぐ言って牛久沼のうなぎを食べたかったのだが(一キロも真っ直ぐ行けば)今回知ったのですが「牛久沼」は全て竜ケ崎の住所であることを知りました。曲がった両側が大きなショッピングモールになっていていろいろの店がいっぱい、この先、食堂がなさそうなのでここで昼食といたしました。交差点に出て来て出発です。県道5号線です。旧水戸街道が右折れて考えられないほどほど遠回りをしているのは牛久沼がはるかに今より大きかったのだろう。大きな陸橋を渡ります。陸橋よりすぐそこに「佐貫駅」が見えます。二つ目の信号を左に曲がって行くのですが、ここから牛久宿までは全て市道になります。これに苦労させられました。まず市道に入って馴芝小学校の前を通り越したまでは良かったのですが、地図によく出ておりません。途中で間違えて佐貫駅に向かっていた様で、駐車場の管理をしているおじさんに聞いて間違っていることを知り小学校まで戻ることになった。ここで1qほど余分に歩いてしまった。順調に進んでいるようですが道路田んぼのど真ん中ですし、車も余り通りません。坂道にさしかかって来ますと立て札が「ここより若柴宿」間違いなむ進んでいたようです。坂道を上がったところがクランク(宿場町特徴)に左に折れるのですがその右上に「八坂神社」あります。神社に入らずに宿場に入ります。この宿場は明治以後火災で全て焼けてしまい江戸時代の建物は何も残っていない。又牛久宿と藤代宿が近いため本陣がなかった。その代わり500m.の渡両側が豪邸ばかりよくわからない。又高台にあったため南側の路地の先は全て坂になっていて各路地に写真のような立て札立っていて坂の名前が書いてある。500m.歩いた先が又クランクで右に折れる。その角の奥が「金龍寺」と言うお寺で奥の方なので行かなかったが、クランクになっている上のところに何の樹木か見てもわからなかったが、朽ち果てそうな大木があった。星宮神社の前を通り、畑の中を歩きます。新しくできた広い県道「矢代庄兵衛新田線」の信号を渡り道路は林の中へと入って行きます。ここより牛久市に入ります。牛久につながる道路なので車が結構通り、車がすれ違うたびに立ちどまり避けました。畑の中に「成井一里塚」立て札が建っていましたが草ぼうぼうで跡地ともわからないくらい。1つの信号を渡ると一転して道路が広くなり素晴らしい歩道になっていて田んぼと畑と雑木林の中を進みますが、とても気持ちよく進みます。思ったよりすぐに向台主学校の信号に来てしまい。ここで道を間違えて1q遠回りをしてしまった。6号線を渡って牛久の宿場と入って行きます。まず目に入って来たのが「明治天皇牛久行在所跡」黒塀をめぐらした旧家、飯島家の門脇(白い石碑)にある明治天皇が明治17年の行幸の際の宿所を記念した碑。右の写真は看板に「慶應4年創業宮崎利兵衛商店」と右から書いてある。酒屋さんであったと思います。今では米なども扱っているようですが、今迄の長い信用で商売が成り立っているのでしょう。店先のベンチを借りて靴の履き直しをさせてもらいました。この宿場も何軒かそれらしき建物がありました。少し歩くと国道6号線と今日初めて  交流します。交流したところの左の小高いところに5メートルはある石碑が2つ立っていたので登って行ったが字が読めなく何の碑か解らずじまいです。300m.ほど6号線を歩いたでしょうか駅に入る信号のところにこんな看板が出ていました「小川(う)(せん)(本名茂吉)取手宿の「長禅寺」も碑がありましたので気になって調べてみました。昭和13年没農業をやりながらの画家で有名の様です。名前の由来は、画を売って芋を買えるほどのお金を戴ければ良いとの事から付けたとあります。絵のことはまるで知らないので初めて聞いた画家でした。今回と前回は6号線と同行がほとんどなく、1部の道路が地図に良く乗っていないような部分があって苦労をいたしました。これも良い経験で         第三回完  


第二回

平成29年4月13日(木曜日)          天気 晴れ 気温14

小金宿〜我孫子(あびこ)宿(しゅく)〜取手宿(駅)      地図上距離18.7q 実質距離22q



小金井宿場の記念碑

  左が「右水戸街道」碑 

    「柏神社」

   大豪邸が立ち並ぶ並ぶ一軒

マンションの前に立っている 

   脇本陣小熊家

   成田街道の分岐点

      芝崎神社

   大きな旧家の一軒

  1.2qの大利根橋

北小金駅に降りて、旧水戸街道に出ると、次世代に向けた伝統の継承を祈念して小金井宿場の記念碑が建っています。内容はおおまかにまとめると「小金井地域は約3万年前から人が住み、約6千年前の縄文時代には、緑豊かなこの台地に暮らしていた集落があったことが幸田貝塚より推測される。大きなお寺が幾つもあり駅の北には有名な紫陽花寺「本土寺」などがあり今は松戸市に合併して60年になるが当時の町の時は8,000人だったのが現在は43,000人なっている」等。此の碑のところが道路がカギ型になっている訳です。

地図があればかりやすいのですが、何で街道が三角形の一辺で行

かずに、態々二辺になっているのでしょう?一辺のところに沼か何かの障害物があったからではないかと思われる。このカギ型を右に折れたところに、「八坂神社跡地」「右水戸街道」言う碑が立っておりますが「右水戸街道」は江戸時代に建てたもの「八坂神社跡地」は新しく建てたもので跡地にはイオンのスーパーで上は大きなマンションになっております。この前を通り進みます。

国道6号線の(ね)木内(ぎうち)の信号を渡ります。坂道を上がった左側に根木内城跡」の案内があり、登って行ったところが城跡、空堀、土塁が残っています。此の城は秀吉が小田原城をせめて落城と同時にこの城も落城したとの事。街道に戻り「根木内城址橋」の架かっている上富士川を渡りますと左に「一幸」と言う寿司、創作料理のお店がありました。大きなお店で気になりましたので調べてみますと、千葉・茨城・埼玉に28店舗も持っているお店でした。祝事、法事等の予約を主体としたお店との事。機会があったら・・・

坂道を上がりかけたところから「柏市」の標識です。500mも歩くと今度は「流山市」の標識です。柏市に流山市の一部が食い込んできておるようです。

今日初めてのお寺「行年寺」と言うお寺があり、歴史は古いようですが江戸時代に火災になってからは、小金宿の東漸寺(とうぜんじ)に所属していたが戦後復活させたとの事で小さな本堂がコンクリートでした。そのすぐ先に一里塚の碑が立っています。「香取神社」の参道の一部になるようですが、以前は大きな榎木があったが朽ち果ててしまい、何も残らないので新しく碑を建てたとの説明、一理塚によく植えてある木は榎が多いのは日影と一時の雨宿りになるとの説明があります。下陰を さがしてよぶや 親の鳥」 と言う一茶の句も添えてありましたが、一里塚と一茶は関係ないようです。

1qぐらい歩いたでしょうか、柏市に戻りました。南柏駅入口の信号を通り越しました信号は「日光東往還」と言って関宿,結城と言った城下町を経て雀宮宿で日光街道に合流する街道の出発点だった。信号を渡り右手の八坂神社の入り口にこのあたりは松並木が沢山あったとの写真入りの説明札、このあたりは「小金牧」と言って広大な原野で旅人が道に迷うため、水戸藩から資金が出て千本の松の木を植えて目印とした。昭和50年ごろまで残っていたが老木になり全て切ってしまった。

今度は「豊受稲荷本宮」小さいですが本宮となっていますので、お参りをいたしました。今度は、「新明神社」小さな祠のお宮ばかり。前回とはまるっきり違っております。柏市は宿場町ではなかったからか?またお寺の見当たらないようだ。東武野田線のガードを潜り大きな信号を渡ると柏市の商店街が始まります。柏駅の東口の方が旧道の為盛んであっただろうが、鉄道が開通してからは西口が繁華街となってしまったが街道には昔懐かし専門店が結構残っています。

東口の中心となる駅の入り口の手前に「柏神社」があります小さいですがやっと神社らしい神社があり一休みと共お参りをしました。休んで入る間にぽつぽつとお参りの人が来ておりました。この神社は京都八坂神社と山形の羽黒山神社の合祀とのこと。         

銀杏の大木もある。信号を渡り商店街を進むと右手に古い建物であるが落ち着いていて品がある病院でしたが産婦人科の専門病院です。(けん)石堂(せきどう)病院(びょういん)こんなに大きな産婦人科の病院は初めて見ました。地元ではきっと有名でしょう。病院を通り越すと、ビルの入り口からスーツを着た人たちがぞろぞろと2030人以上出てきました。なんだろうとみていると一軒先のコンビニに行って灰皿の前で煙草を吸い始めた。高級感のあるこのビルの会社は何者かとみても会社の名前がない。中に入って見ると「アニューズ柏」となっていて今日のビルの利用者の名前が沢山書いてある、これは柏市の建物で色々の利用に開放しているらしい。一番上の階が会議室になっていて「広島建設株式会社使用」になっている。このビルはきっと禁煙になっているようだとわかりました。広島建設と言えば昔会社の千葉支店にいた時に柏に来ると建売住宅をしていた小さな会社だった。こんなに社員がいる大きな会社になったんだと関心をした次第。此処を過ぎると柏の街並みもなくなってきます。左に「明治天皇柏御小所碑」がある。明治13年行幸の折りとしてある。明治13年はあちこちに行幸されたのだな・・・

甲州街道も確か13年だったと思う。其処を過ぎると直ぐに「諏訪神社」があった。社は柏神社と同じようなものだった。庚申塚が沢山境内に並んでいる。

国道16号線の信号を渡り進んで行くと常磐線の陸橋を渡ります。渡ったところに大きな高級な洋館風の建物「ハート柏迎賓館」結婚式をはじめとしたイベントを行えるものと思うがきっと相当高い感がある。こんなところで成り立つのかな、他人事ながら心配などいたしました。線路沿いに進み左に折れると国道16号の信号です。「手賀沼」の河口であり立体交差の始まりであるため歩行者は向こうに渡るのに回り道をしなければならない違反をして向こうに渡ってしまった。立体交差を下に降りると目の前にループ状の立体駐車場と大きな建物、建物に名前を記してないので門の入り口までいてみると「アサヒ飲料」の建物でした。坂を上り切ると北柏駅の入り口になります。左にお寺があるようでしたが寄らずに進みます。北柏を過ぎると我孫子に入って行きますが我孫子にかけて写真のような立派な大邸宅が何軒もあります。この辺りは「根戸宿でかつては大いに栄えた。我孫子に入ってから街道は右大きくカーブするが、かつては直進する道は「布施弁天」の参道となっていた。国道16号との交差点です。少し早目でしたが、今迄の経験で旧道に食堂等が見つかりませんので歩道橋を渡ったところで昼食を取りました。此処からは国道365号線となります。歩き始めた左側一帯は大きなマンションが立ち並んでおります。「我孫子駅」に近いし、我孫子駅は始発の駅となっているためベットタウンになっている。現に14階建て大きなマンション(戸数は書いてない)の工事が始まっていました。歩道橋を渡り常磐線の東側に行きます。

我孫子駅前の信号を過ぎると「我孫子宿」に入ってくると思いますが道路拡張にて古い建物が見当たりません。進みますと左に大きくカーブいたしますがカーブの右奥に「大光寺」と言うお寺あります。やっと宿場らしいお寺ですが、境内に大きな建物の幼稚園があり少し派手なのでアンバランス。曲がってすぐに「我孫子宿本陣跡」の碑があり跡地はマンションです。大きな宿場だったので脇本陣もあった。本陣跡の碑の反対側で写真がそうです。問屋兼名手を務め脇本陣を担っていた。門が閉まっているが人が住んでいるようだった。我孫子市は宿場に対する関心がないのか 説明も何もされていない。        

又、右に大きくカーブします。その角に「鈴木屋」と言う大きなうなぎ割烹旅がありましたが、その他にもう一軒やはり大きな割烹旅館が残っていました。しばらく歩きますと三叉路の分岐点があります。正面向こうが歩いてきた旧水戸街道で右に曲がって行きます。左が「成田街道」(ここが起点)成田街道は参拝客があちこちからくるので、何ヶ所もあります。我孫子宿もここで終わり。

我孫子から出ている成田線の踏切をわたってから下り坂を下りて信号を左に曲がって常磐線のガードを潜り右に曲がり直ぐに左に曲がって進むと「天王台駅」方面に行きます。変わった建物も大きな「特別養護老人ホーム」が右にあって、左にこれも大きな「介護老人ホーム」があります。下りた所が天王台駅から来た道にぶつかります。左に丘があってそこに「柴崎神社」があります。参道を上がって行きます。創建は938年と古いのですが、伊勢神宮、出雲大社を思わせる新明造りは30年前に新築したもので趣があってどっしりした感じ、社務所も新築したばかり氏子の金持ちが多いのでしょうか?この神社は日本武尊が東国討伐の途中武運を祈り、平将門も祈願所として敬拝したとの事。                       違った参道の階段を下りて街道に出ます。神社の裏には二軒の寺がありました。

少し歩くと写真のような門構えの大きな屋敷が3軒ならんでいて右にも一軒ありました。宿場でもないし利根の河原の豪農なのか?なんでここだけに集中しているのか?通り過ぎた所の信号が国道6号線です。旧道は6号線に土手まで沿っていて、昔は渡し船で向こう岸にいったのでしょう。

結果は橋を渡ることになるので次の信号を渡って橋に向かう、道路の左下は広い田園がダダ広く上流に伸びて行っています。昔は暴れ利根川の河原だったのでしょう。橋を渡り始めて下を見ると土手と河原は菜の花で黄色の"じゅうたん"です。又橋の下には河川敷のゴルフ場があります。考えてみると、今から40年はまえになるだろう、日野市から車でここまでゴルフに来たことを思い出しました。高速道路もなかったのに、何時間かかっただろうか?橋も中間点を越えて「茨城県」に入って来ます。ことら側にも河川敷ゴルフ場が見えます。どうゆう訳なのかこちらの方がはるかにヘヤウエーの芝が青い。15分近くかかりました。調べてみると約1・2qありました。こんなに長い橋を歩いて渡るのは初めてです。渡り終えて下に降りて取手駅に向かいました。

追伸

我孫子市から茨城県の取手市にかけてこれと言った桜並木はありませんでしたが、丁度満開でいた。

今回歩いて見てなんでこんなに道があっちにこっちに曲っているのだろうか?疑問が残りました。障害物はなんであったのだろうか?沼があちらこちらにあったのだろうか?道路が入り乱れていて間違わないように結構時間がとられました。

3月から4月10日までいろいろ予定が入っていて歩くのが久しぶりだったので足が疲れましたが起きた次の朝はほとんど残っていませんでした。

                              第二回完    

第一回

平成29年2月25日(土曜日)          天気 晴   気温12度 

千住宿〜新宿(にいじゅく)〜松戸宿〜小金宿      地図上距離17q 実質距離21q


    新しい水戸橋

   堀切香取神社

  本田 速人 像 

   半田神社

       松戸神社 

35体の石仏像(表情がみな違う)

    「金山神社」

500個余の酢壺?の石垣

       仁王門

     旅籠「玉屋」

日本五街道は、東海道、中仙道、甲州街道、日光街道、宇都宮で別れて奥州街道、水戸街道これに続く街道。参勤交代が多かったため相当数が水戸街道を利用していたとの事です。旧水戸街道は歩くつもりはありませんでしたが、徳川ご三家の一つがあし、良く調べてみましたら現在の国道6号線(水戸街道)と同行しておらず、色々当時のものが旧道に残されているところが多いようです。旧道をよく調べてから歩かないと大変歩きにくそうです。又これも楽しみの一つです。そんなことで「成田街道」はこの次といたします。まず北千住宿より出発ですが、今の日光街道(国道6号線)は浅草からになっているのになんで旧水戸街道は浅草からではないのでしょうか?どうして、「旧水戸街道」は千住宿まで(成田街道も同じ)日光街道と一緒なのでしょうか?幕府の知恵なのでしょうと思います。参勤交代の際攻め込められないように江戸に入るのを管理するために一か所に集中させたのでしょうね。ところが昭和10年前後に荒川の治水工事により小菅までが「旧日光街道」が荒川となってしまい一部街道がなくなってしまいました。そんなことで東武線の「小菅駅」に降りました。駅から右に折れて荒川の土手の下に出ます。左に曲がり都道を、川に沿って歩くと、すぐに「東京拘置所」(小菅刑務所)の入り口です。面会者は此処からは入れません。矢印がありますので裏側に回るのでしょう。10階ぐらいの建物が幾つもあり、でかい大学でもあるのではないかと感じます。麻原彰晃もここに入っているのでしょうが、死刑の順番が三十何番目とかの事のようで、当分先話の話の様子です。早いケリを望む一人です。

入り口を過ぎると左に「小菅万葉公園」があります。昔は相当重要な水路であったとの事、少しの水路は残ってありますが埋め立てて公園になっています。進みますと左斜めの道路を入って行くのですが、ここからが「旧水戸街道と」なります。昔からの道幅なのでしょう狭いので一方通行になっています。しばらく歩きますと道路が突き当たります。「水戸橋」の案内板、今は突き当りですが、昔此処に橋が真っ直ぐ架かっていたのです。橋の石組の土台だけが残っていました。明治ごろの写真が案内板にありましたが、人通りの激しい橋であったことが伺えます。今の橋は50mほど川上に新しい橋がありこれを渡って又水戸街道に戻ります。戻ったところに「小菅神社」の案内が出ておりましたが、ちょっと入った所なので行きませんでした。左に大きな工場があります。レンゴー株式会社葛飾工場です。段ボール箱とか紙板のメーカーです。製紙会社とか段ボールメーカが一緒になって作った会社であったと記憶しております。名前もその連合からきていると思います。工場を通り越しますと「蓮昌寺」と言う日蓮宗のお寺があり、なかなか立派の門があり本堂もりっぱなものでした。大きな信号なの角に住宅は立派な木造で敷地内に近代的なコンクリートの建物があり「水門」と言う名前になっています。何か宗教ポイところもあるので信号待ちしている23人に聞きましたが誰も答えてくれませんでした。右側には「上千葉稲荷神社」あり大きな立派なお宮です。七福神も祭ってあります。この近くに「普賢寺」と言うお寺がありそこの所有物であるとの事。この辺りは旧千葉村と言い千葉氏一族の領地であり、近くに城跡もあるようです。神社も寺も村の鎮守であったのでしょう。少し進んだところでアクシデントが起きてしまいました。マンションの駐車場の土間のコンクリートの打ちをしており誘導をしてくれたのですがこの誘導が良くなかた。足を少し踏み外してしまい、打ったばかりの生コンの中に倒れ込んでしまいました。ズボンとカバンの一部が生コンだらけ、主任の人と一生懸命生コンを取りましたが帰って来るまで真っ白でした。其の主任に道を聞いて歩いているうちに気が付いたのですが地図を見たら道を少し間違えていたのです。間違えずに歩いていればこんな災難に遭わずに済んだのにと後から悔やまれました。大きな交差点に来ました。コンビニがありまましたので、トイレを借りながら先ほどの被害の処理、手を洗ったりティッシュでズボンの生コンを拭いたり・・・大きな信号(曳舟上水橋信号)を渡り、道路が広いので渡ってから見ますとこ道路の真ん中が公園になっております。案内板を見ますと「曳舟川親水公園」とあります。昔、船を馬に引かして荷物の運搬の川だった。今は埋め立てて公園の長さが約3qあるという。3qより下流は東京湾に繋がっていて船の往来に今でも使用をしているとの事です。渡った所の角に大きなビルがあり、何者のビルだろうとみると「亀有信用金庫本社」としてあります。一地方で、ましてやこの辺りには中小企業ばかりであると思うのにこれだけのビルを持っている言うことは、地元で信用があり、町の発展に寄与しているのだなと感心いたしました。このビルの前に銅像があった。写真の銅像は漫画でおなじみの「こちら葛飾区亀有公園前派出所」通称「こち亀」香取 慎吾の主役でテレビドラマにもなっていました。写真は良く見えませんが漫画の主人公ではなく「本田 速人」の銅像です。ちなみに亀有駅前に主人公「両津 勘吉」の大きな銅像があるようです。進みまして環状七号線の大きな信号を渡り、中川の橋を渡ります。この川は以前日本一きたない川で臭くてばい菌も住めないと言われたくらいでした。今は臭いしませんし魚も跳ねておりますが水はまだ濁っております。渡り終える新宿(にいじゅく)に入って来ます。宿場らしきものはお寺が100m四方内に4つもあることくらい、最初の寺だけお参りをしてきました「寶蓮寺」と言うお寺で、荒川辺八十八ヶ所75番札所でした成田街道(佐倉街道)は此処より別れて行きます。分岐点になっておりますので道が複雑に成っており、間違えて国道6号線(水戸街道)に出ていしまいました。500600mで旧道になるのでそのまま進みました。この辺りは葛飾区の行政関係がまとまってお有り。郵便局、消防署、文化センター・図書館など、その1「亀有警察署」があり久しぶりに警察署でトイレを借りることに致しました。トイレに用足しに来たおまわりさんにお礼を言って警察署を後にいたします。歩くと直ぐに「金町警察署」があります。管轄が違うのでしょうか、なんでこんな近くに警察署が二つもあるのだろう?旧道との交流地点に来ますと同時に「京成電鉄金町線」の踏切を渡りました。この線は「柴又帝釈天」に行っています。昼も近くなってきたのか、ラーメン屋さんが3軒ならんでいて2軒は並んで待っています。少し歩くとここにも沢山並んでいる、持ち帰り牛肉弁当屋(一つ390円)ラーメン屋と言い弁当屋と言いこんなところでこれも不思議。大きな立体交差点に来ました。右に行くと6号線(水戸街道)左が旧水戸街道。街道に入って少し進むと左奥に由緒ありそうな神社が見えたので入って行きます。「半田神社」と言い、11世紀の建物で、麻疹(はしか)疱瘡(ほうそう)・安産の神様と言う事ですが、なぜか境内の周りの石の欄干?と言うのか、ほとんどが魚河岸の関係の名前です。題目は書きませんが歌舞伎にもあるよお宮とのこと。左奥にはお稲荷さんが祭ってあります。ここまで見てきたお宮にか必ずお稲荷さんが一緒にありました。都立「水元公園」の入り口を通り越すと江戸川の葛飾橋を渡ります。今日は思ったより温かで汗をかいたので橋を渡るときの風がさわやかでした。東京と別れて千葉の松戸市に入ってきました。川添を少し歩いてから町中に向かいます。三叉路があってここを左に曲がったところから「松戸宿」なります。街灯が提灯の形をしていて「松戸宿」と記入さてています。河津桜祭りを行っているようですが、何処に咲いているのだろう?江戸川の土手の方かな?思いながら歩いていると右の路地の向こうに「松戸神社」が見えましたので入って行きました。神社の手前に川があってその川縁に河津桜が丁度満開でした。それなりに人が出ていました。この川は「坂川(さかかわ)」となっていますが昔に江戸川が増水すと逆流してくるので昔は逆川(さかがわ)だったとの事、江戸時代に治水工事の行って逆流しなくなって今の名前になったとの説明標札。松戸市全体の鎮守だけあって写真よりどっしりしています。平成18年には「三笠宮様」が参拝と高野薪の植樹した。又、宇宙飛行士の「山崎 直子」さんが安全祈願とお礼参りをしたとの事です。お百度参りの設備もあり、お稲荷さんも祭ってあります。土曜日と桜まつりなのか人出が結構ありました。街道に戻ります。街道の商店街ですので呉服屋の大きな店とか乾物屋、その他専門店など、都内では見かけない古い暖簾のお店が見受けられます。12時を回りましたので食事の店を捜しながら歩いてりるとお寺が三軒ならんでいます。一番手前のお寺「宝光院」入り口に説明の標札がありましたので読んでみますと、この寺の境内の隣に「北辰一刀流 千葉周作」の道場があった。千葉周作の父は馬医者をしており、周作が15歳の時に岩手県よりここに転移して、道場を開いた。周作が入門した先生と、周作の父の墓所がこの寺にある。寺は派手な朱色です。寺よりも35体の石仏が並んでいてこちらの方がすごかった。通りに出まして、食道探し「坂川」の橋を当たると右に大きな建物「伊勢丹」見えます。伊勢丹と言えば府中店は閉鎖と聞いた。地方のこの一都市の店は大丈夫なのか、他人なれど少々の心配をします。百貨店の時代は過ぎました。自分の食事の心配の方が大事かもしれません。1軒宿場時代の建物で、高級サイクリング自転車を販売しているお店、アンバランスで面白いです。通リ過ぎて松戸駅前入り口の信号の手前にこれまた老舗でしょう、古い建物で天丼・天重・アナゴ丼専門店アナゴ丼を頼みましたが、美味しかったが具が少し硬すぎだった。このお店は他に手打ち蕎麦屋、寿司屋を市内にあるとの事、「関宿屋」松戸行かれ時に如何でしょうか?昼食が遅かったので1時過ぎの出発となりました。宿場は松戸駅の入り口信号で終わっているようです提灯街灯が此処で終わっていました。出発して直ぐに(まん)満寺(まんじ)の山門が見えます。余りにも立派なので入って行きました。この山門を潜るとその奥にまた素晴らしい仁王門があります。右側の仁王様をよく見ると股くぐりりが出来ようになっています。帰って調べて見ましたら正月の3ヶ日御開帳になり厄除けに潜れるとの事です。本堂も結構なものですが、この山門と仁王門には位負けをしております。街並みもこのあたりで終りとなります。少し進んだところに右の小高いところに神社が見えます。「金山神社」です。入って行くと常磐線の上に陸橋があってそれを渡ると境内に行けますが、下に降りて階段を上がって行きますと途中に「九合目」の立て札があります。登り切ったところが社です。どうもこの神社は富士山信仰お宮で神社が富士山の頂上と言う事のようだ。陸橋を渡り街道に戻り少し歩くと旧水戸街道を常磐線が横切っているのです。陸橋があって人間は陸橋を渡り線路の向こうの街道に繋がりました。自動車は先の方に新しくできた陸橋を渡って国道6号線に出るようになっておましす。少し歩くと6号線と合流しました。北松戸駅駅入り口を通り過ぎてしばらくすると6号線と別れて左斜めに進みます。馬橋駅入口をとうり過ぎて坂道を登って行くと又6号線と合流します。56分歩くと二ツ木と言う信号がありここらら又旧道に入りますが、信号の向こうにきれいな神社が見えましたので信号を渡りました。蘇羽(そば)(たか)(曽場鷹)神社」綺麗なしっかりした神社です。城の跡地に千葉氏が建てた神社で千葉氏の守護神となっている、境内には榎の大木が2本ありした。信号を戻り旧道に入ります。武蔵野線のガードを潜って行きます民家の家の石垣の代わりに「酢壺」か何かの壺で石垣代わりざっと計算したら500個以上あります。崩れたら大変。この辺は上ったり下りたり坂道が続きます。上がり切った信号が6号線との信号を突っ切りますと「小金宿」に入って来ました。北小金駅に向かって進みます。骨董市の旗がひらめいております。近づいてみると寺の境内で市をやっています。長い参道で奥の方に立派な山門が見えましたので入って見ることに致しました。まずまず第一門をくぐりますますと参道の両側に40件ほどの店が出ていて店仕舞いが始まっていました。写真が第二の門三葉蒼のご紋の付いた「仁王門」です。第三の門をくぐると右に立派な鐘楼があって突き当りがやっと三つ葉蒼のご紋の付いた本堂です東漸寺(とうぜんじ)このお寺は簡単に案内標示を纏めると、第十七世住職が徳川家の授戒師を務め、二代将軍秀忠にも信任が厚く、秀忠の葬儀では大師導を務めた。枝垂れ桜が有名で、エドカンザクラであり実生苗より育てられた希少な桜です。その他色々あるようです。こちらに来た時はぜひ立ち寄ってみる価値のお寺です。「東漸寺」と前後してしまいましたが「旅籠玉屋」です。小金宿は大きな宿場で旅籠も多く現在残っている「玉屋」は鈴木家のもので代々「惣右衛門」を名乗っていて徳川家の宿泊旅籠であった。外観しかみることが出来ません。駅はすぐそこになります。この日の水戸街道はとにもかくにも、お寺と神社がやたらありました。それも立派なものばかり、全てを見てきたら3日はかかるのではないでしょうか?写真も選んで挿入しましたが選ぶのが大変でした。本当はゆっくりとそれぞれの勉強をしてくれば良いのでしょうが、歩くことが目的ですのでご理解ください。

                    旧水戸街道第一回完



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2016年2月「旧日光街道」がスタートしました

昨年に引き続きウォーキングをやろうかなと思い、どこが良いかと検討致しましして峠のもないし坂道もない旧日光街道が浮かんできまして、決定いたしました。身体との相談もありますので、成し遂げることができないかもしれませんが、一つの挑戦であります。なれては来ておりますので、楽しみながらおモットーに、往けるけるところまででよいと言う気持ちでまいりたいと思います。地図でも見ながら読んでいただければ解りやすいかと思います。 歩記者 林 厚男

第十回

平成28127日(水曜日)            天気 雲後晴れ 気温9

今市宿〜鉢石(はついし)宿(しゅく)(日光)       地図上距離9.5q 実質距離12.5q      


      追分地蔵

     フクロウの像の家

            重連水

         東武日光駅

     ゴヨウマツの大木

         神  橋 

新宿より直通の特急にて日光に1時間半余の旅、今日は今までの歩記で初めての試み同年のゴルフ友達であり、ウォーキング友達と同行です。下今市駅で降りて駅前の小さなラーメン屋、これがとても美味しかった。街道の小倉町の信号を右に曲がり杉並木に入りました。気温は低いが風がないので気持ちの良い出発です。並木を少し歩くと国道119号線と合流する。道路の向こうに祠が見えるので渡って境内に入って行くと「追分地蔵」となっている。丸彫座像の石地蔵として東日本郵有数のもので、製作年代は室町時代ではないか、日光街道と「日光例幣使街道」との分岐点であるためその名が付いたと記してあります。日光例幣使街道を調べてみると中山道を来て今の高崎市より佐野市に出て鹿沼市に出てこの地蔵さんのところで日光街道と合流。今で言う寄付金を日光に寄付金を収めるための街道で日光街道の裏道となっていて寄付の為に決められていたのでしょう。街道に戻り進みますとこのあたりが「今市宿」中心地になるのでしょう大きな地酒屋・たまり醤油屋がありました。日光名物に「たまり醤油漬」がありますので此処が発祥でしょうか?道路の左に「今市宿」の碑が立っていて、その反対側には写真のような古い建物がありした。よく見えないのですが二つの石像が見えますが 大きなフクロウの像です。意味が分かりませんが、趣のある建物ではありました。古い建物で市場らしき建物はこのくらいでした。街並み を過ぎると又杉並木に入ります。此処から長い杉並木に入って行きます。車もほとんどこの辺りから通行止めです。そのために杉の枯れ葉が沢山落ちていて歩きにくい。それだけ保存が必要になってきているのだと思います。通 行止めになっているくらいですので、道路は舗装をしておりませんし、美しいて歩きやすい石畳になっている区分が結構ありました。又、 並木の途切れた一部分には家並みが右左何軒かあり、家は新しくなったりしておりますが、石畳になっていて両側にきれいな小川が流れて いて、昔のままになっているので、保存指定区域となっています。小さなお宮が何軒かありますがお寺のような祠も何軒かありますがさび れていたりして通りすぎます。その中に「報徳二宮神社」と、これも小さな神社でしたが二宮尊徳は、馬次郎(うまじら)から日光にかけ て土地の開拓に設計から工事指導まで手広く携わっていたことが分かります。右側に「杉並木公園」の看板がありましたので入って行きました。いろいろのものがありますが、写真の「重連水車」がありましたので 入れてみました。水が豊富なので二台を繋げば力が相当出たでしょう。自動車道路は並木の向こうなのでこの大きな公園は地元の人しか利 用しないのではないか、もったいない。公園の半ばから並木に戻り進みます。今日は天気も良いのか何人か方向者に会います。少し歩いた ところに、ほとんど形跡がありませんが滝川一里塚、日本橋より34里になります。一休みして出発です。説明看板があります。「砲弾打込 杉」説明によると、付近は明治戊辰の役に官軍が日光に拠こもり幕府を攻撃した際、前哨戦を行ったところで、この杉の幹の凹んでいると こは砲弾が当たって破裂したところである。としてありますが言われてみてあれがそうかと23か所それらしきもの。一つの並木を過ぎま たすぐに並木に入るところに「杉太郎」の看板説明には並木の中で一番太く姿も良いのでその名を付けた。とありましたが今まで歩いてと ころにそのような大木はいくらでもあったように思うが・・・この並木が切れて次の並木に入る手前に「龍蔵寺」跡とありますが、この寺 は後で分かるのですが日光の町の中心地に30年ほど前に新築をしてありました。通行止めの長い並木を過ぎると、並木の道路と119号と合流します。これが大変危ないのです。自動車と一緒に進み歩道がありません。対面 するとも避けてくれますがこちらも土手の方に寄ります。こんなに危ないところですが、前を少し足が悪そうなおばさん(65歳ぐらいか な)歩いております。避けて頂いたので御礼を言ってついでに聞いてみますと日光まで1人で歩いているとの事。追い越してしばらく行くと「明治天皇七里御小休所跡」とあります。門の中に小さな建物が保存されていました。右側に並木の切れ間にJR日光駅です。すぐに並木が終わります。急に街並みになり、右が東武日光駅です。街並みが整理されてきてさすが「世界遺産日光」というところです。整備は一部ですが、これから綺麗な町全体が見られるようになるでしょう。こんな季節でも人が良く歩いていて活気があって益々の発展があること間違いなしと思います。そんな街並を歩いて行くと右の奥に「龍蔵寺」があり行って見ると先ほど書きましたがまだ新しい。「重慶」を弔ってあり戊辰戦争で戦死し た芸州藩士の墓がるとの事です。沿って歩きますと市役所もそうでしたが消防署が和風式の建物、このような建物の消防署は初めて見まし た。友達が道路を渡れとの指示で渡って路地を入ったところに個人の家ですが写真のような「ゴヨウマツ」(ヒメコマツ)の大木、樹高   2.1m・周囲3.2m・枝張東西13m・南北15mびっくりいたしました。そこを終わってもう1つ案内を頂いた。一筆で龍を画くお店。何時か昔ど こかで見たことがありましたが、3.000円ぐらいから10万円するくらいまでありました。又 元祖○○羊羹「綿半」というお店もありました。市役所と「観音寺」を左に見て「神橋」到着です。此処が日光街道の終点となります。宿場の名前「鉢石」は「はちいし」でなくて「はついし」と読みます。旅館に到着後、なんで「日光宿」と言わずに「鉢石」ですかと聞きましたが、地元の人は例によって誰もわかりません。読み方だけ教えてくれただけです。日光開山祖「勝道上人」が托鉢の途中川辺の石に座って日光山を仰いだ。その石が鉢を伏せた形をしていた。というのが由来と帰って調べて分かりました。日光の東照宮が出来るよりはるか昔の話と言うことです。又「神橋」は東照宮より後から出来たと思っておりました。が、これも又「勝道上人」が開山してから霊峰二荒山(男体山)神の鎮まり給う山として「日光二荒山神社」を作った。二荒山神社の歴史がはるかに古く日光東照宮は軒下を少し分けて貰ったようなものなのでしょう。「神橋」より歩いて5分の所の川縁にある「小槌の宿 鶴亀大吉」に着きました。夜は二人で楽しい夕宿が出来「旧日光街道を歩記」第十回をもって完了いたしました。

                   完 

追記

日光・中禅寺湖等何回も来ていますが、東照宮に23回寄っただけ、寄っても時間に左右されて良く見れなかったり、今回は時間に縛られずにゆっくりと思ってきました。

日光は朝8時より見学することがでます。旅館を9時に出発して、前を真っ直ぐ上がると東照宮に行きます。参道は人が少なく気持ちが落ち着きます。まず初めての「二荒山神社」にお参りをしました。東照宮に移動です。現在、中はどのようになっているか、今後行かれる方に参考にして頂ければと思いまして記してみます。入場料1,300円払い表門を入ります。すぐ左が「神厩舎」です。前は木で作った馬がいたと思いますが?そこに「三猿」(見ざる・言わざる・聞かざる)がありますが現在はレプリカでした。今補修中です。次は「陽明門」此処も補修中ですが、春先までは完了するのではないでしょうか?補修したところが結構見見えていまして、とても綺麗になっています。春になればとてもきれいな陽明門が見られると思います。「眠り猫」は改修が終わり、きれいになっていました。眠り猫の下を潜り、これも初めての「奥宮」(家康の墓)階段がきつかった。降りてきて「本社」入りましたが、此処は外回りが改修中です。これも間もなむ終わりかと思います。それから「本地堂」(鳴龍)に入りましてから表門を出ました。帰り道になりますがこれも初めての「輪王寺」正式名は「輪王寺大獣院」(りんのうじだいゆういん)三代将軍家光の法名とのこと、今大改修をしております。鉄骨で全て建物を囲っています。「馬頭観音像」・「阿弥陀如来像」「100手観音像」(三仏像)をはじめすべての仏像関係は仮設建物に入っています。鉄骨の建物は上まで上がることができ、改修のしている屋根より高く行けて、屋根の下地の作業をしているところが上から見えました。ビルの10階ぐらいあるでしょう。一番上は外回りにガラス張りの廊下があって、日光市を見下ろすことが出来ました。町に出て商店街を歩き昼食を済ませ。東武特急にて帰路につきました。

東京からは今、電車がすごく便利になっています。ゆっくり見学ができて日帰りが簡単にできます。是非もう一度日光見学をおすすめします。

        



第九回

平成281123日(水曜日)      天候 晴 気温13度 

大沢宿〜今市宿          地図上距離7.5q 実質距離8.5q

 


      王子神社

     王子神社

   空洞の杉大木

   下今市駅の陸橋より日光連峰

朝、6時頃起きた時は、強い北風で外は寒そう。朝食を済ませ「べっぴんさん」を見る頃は北風がピタッとやみました。挨拶をしてご主人に昨日の所まで送って頂きました。話の中で今日、日光街道を歩く人が一人宿泊するとの話でした。私のような馬鹿者が結構いるのでしょう。荷物を整えて出発です。直ぐに大沢中学校・小学校が並んでいて小学校の門を入ったところに二宮尊徳の石像が建っています。昭和10年に建てたものです。事実と反したものなので残して置いて良いものやら。その隣に「王子神社」源為朝を祭ってありました。

狩りにこの地に来ていたとの説明です。少し歩くと又杉並木の119号線と一般道の119号線と別れます。この並木か大木が相当朽ち果てており倒木になりそうなので車は通行止めです。人間が歩いても上を見て歩きました。2qほど歩いたでしょうか?水無の信号の一般119号線を横切ります。少し街並みを歩くと又杉並木です。此処は車が通れますが上からの一本通行になっていて砂利道です。両側に水が流れていて昔の雰囲気を味わうことができます。水無一里塚があり江戸から32里。1q位歩くと一般道と合流です。街並みを少し歩きますと右に「来迎寺」これと言ったものはありませんでしたが、参道に如来像他4像ぐらいがあって全て立膝です。今「正座と日本人」と言う本を読んでいるのですが今の正座は新しいもので立膝は平安時代から江戸時代中期?まで、立膝は当時の正座であったとありましたのでちょっと興味がありました。3qほどある長い並木に入ります。朽ちた大木はほとんどなく綺麗な並木です。初めにあったのが写真ではよくわかりにくいのですが「桜杉」と命名してありましたが、半分杉の木で半分桜です。華が咲いている時に来たいものです。1q位歩きますと右側に「七本桜一里塚」(江戸より33里)桜はありませんでしたが、塚の真ん中に写真のように中が空洞であり、人間だと67人は入れそうです。これは「並木ホテル」と命名してあります。外人の二人連れが入ったりして写真を撮っていました。ここを離れて進みますと、杉の木を切り開いて一軒の家が建っています。今では許せないことなので戦後のどさくさ紛れに杉の木を何本か切り倒し立ったものだと思いわれます。知った人に聞きたいものですが周りにはいませでした。ここを後にして歩きますと東武日光線のガードを潜ります。通り過ぎますと大きな交差点でそこには歩道橋があり、左に行くと「JR日光駅」、右に行くと東武日光線の「下今市駅」駅です。

昨日と今日を歩いてみて皆さんに進めたいのは、杉並木を歩くことを本当は進めたいのですが、多分駄目な方々が多いと思います。車でしたら、有料日光道路を走らない東北道宇都宮インターで降りて日光街道を走るか、先に日光に行って日光街道を下りて来るか。下りてくれば一方通行の並木道が上からになっています。是非、杉並木に・・・

此処から「鉢石宿(日光宿)」まで8qたらず。今日簡単に歩けしまうのですが、帰ります。理由は最終回にわかります。そんな訳で東武電車の特急に乗って帰るつもりで駅に来ましたら、新宿行きの特急があるではありませんか。あと十五分で出発です。今市にいますが今日はイマイチでなくホンイチでした。美味しいそうな駅弁と缶ビールを購入して車中の人に、鹿沼市から栃木市を通り埼玉の栗橋でJR線に乗り入れて大宮から池袋,新宿。1時間50分で到着でした。写真は左に日光連峰で左が「男体山」です。 23日は良い天気で24日は歴史的東京積雪と11月の初雪50年ぶりとかできっと今日(24日)はこの山も1日違いで真っ白になったことでしょう。歯医者の予約をキャンセルして1日早い行動で雪に遭わずに済みました。これも一つの思い出となるのでしょうか?        第九回


第八回

平成281122日(火曜日)         天気晴れ 気温19

宇都宮〜徳次郎宿〜大沢宿       地図上距離21q  実質距離24.5q



桂林寺」と「琴平神社」

   安産子育地蔵尊

   光明寺の山門鐘楼

  大谷石でできている庄屋?

  智賀都神社夫婦欅

  杉並木の入り口

    此処より杉並木の碑 

朝の福島沖地震で電車が大宮に50分遅れで到着、新幹線に乗るはめとなってしまった。そのお蔭かどうか、宇都宮には予定より早く着けた。市内バスで伝馬町に出て、旧日光街道入り口で、熱いのでジャンバーを脱いで出発です。

歩き始めると、左にお寺がる。前回はあまりお寺がなかったので、その反動で今回は少し覗いてみようとまず「宝勝寺」と言うお寺に入った。別に普通のお寺だが、私は何も知りませんが江戸時代の有名な川柳の達人「前田雀郎」の墓があると言う事だけが分かりました。少し進んだところに「桂林寺」結構な山門があり寺そのものも大きな立派な本堂がありました。ここには変人で儒学者の「蒲生君平(がもう くんぺい)の墓があるとの事、この方もなにも知りません。又山門の隣に鳥居が見えますが「琴平神社」前にも書きましたが、日光街道には神社仏閣が一緒のところが多いです。

このあたりが宿場の中心となるのでしょうか?宿場の建物が何軒か残っていて、一軒 などは宿場の建物で仕事はソフトの仕事をしている。不釣り合いですが現代を表しています。又一軒は和菓子と食堂をやっていたのだが店じまいをしておりました。「長い間お世話になりました」という張り紙です。このあたりは街の県庁の裏になるようですが街並は古いし近くの人がわずかに買いに来るだけでし商売には難しいでしょう。119号線の抜け道になっているようで車だけは、ひっきりなし走っております。古い建物もなくなってきましたので宿場も終わりの様です。

少し歩いたところが松原」三丁目の交差点、此処で119号線と合流して、一つの日光街道となります。左に大きな建物「栃木県体育館」と銀杏の色づいた美しさ見ながら進みますと、左に面白そうな建物があるのではいいっていくと、高尾神社の境内の端に地蔵尊を祭ってある建物でした。「薬師如来妙吉安産子育地蔵尊」前回辺りから、地蔵尊などは大谷石のものが多く、地蔵尊などは赤と白の布をぐるぐる巻きしてあります。多分、風化してボロボロになってしまわない為のものであると思われる。しばらく歩くと大きな交差点に来ました。右からは宇都宮市を通り越した4号線から新しくできた119号線、左に行くと前回歩いた雀の宮に行く県道です。これを過ぎた所から日光街道の並木に入っていくのですが、まず桜並木です。大木になっておりますので吉野桜ではないようです。並木は1.5mほど高いところに植えてあってその左側が歩道になっているため、車の音はあまりしないし、危険はないし、最高と言ったとこです。桜が少し減って来て、檜の大木が多くなり、モミジ、銀杏が混ざってきて緑に紅葉が混ざりきれいです。杉の木は一切ありません。

左にこんもりと「上戸祭(かみとまつり)一里塚」があります。東京から28里(約112q)その隣に大きな大学あります。名前が「文星芸術大学」としてあります。短大もあるようです。調べてみると宇都宮学園(高校・中学)が1911年からあり、そこの運営で大学は1999年設立となっている。少し進んだところに「レオン自動機(株)」の工場があります何かどっしりしていて趣のある工場です。気になりますので帰って来て調べてみると一部上場をしており内容も良き会社の様子。お菓子とか食料に関係の機械を作っていて、ものによっては世界の8割を占めているものもあるようです。この並木も23qでいったん切れまして一般道となり民家、商店など並んでおります。

ファミリーマートでトイレを借りて一休みして出発です。光明寺と言うお寺があってちょっと変わった山門なので写真に撮りました。上は鐘楼になっていて、関東八十八か所霊場の二十三札と書いてありました。日光街道には珍しく道路がカーブになっていて曲がったあたりから左右に素晴らしい竹林があります。筍を栽培しているので、竹林をしっかり手入れをしてありました。竹林を過ぎると又桜と檜の並木入りました。この並木は1q程度で終わり、119号線のパイパスとの立体交差点に来ました。パイパスが「東北高速道路」宇都宮インターに行っている訳ですが、日光街道の119号線もインターチェンジの直ぐそばで食べ物屋が沢山あり昼食をと思ってきましたら何もここにはなくガードを潜った所にファミレスがありました。行く先を見たが食べ物屋が見当たりません。ファミレスには中にカンターがあり椅子が5個ほどありここで済ますことにしました。日光の手前だけに昼食はイマイチ(今市)でした。又今までと同じような並木に入り、冨屋小学校前で並木が切れます。この辺りが「下徳次郎宿」となりますがそれ示すべきものは見当たりません。ただ右に案内板が出ていて300m先に「徳次郎城址」としてあります。小さな丘が見えますそこなのでしょう?大きな交差点を過ぎるとこのあたりが「中徳次郎宿」となります。

庄屋さんだったのか当時の建物で、裏に蔵が何個かあり、別の建てもあり全てが大谷石です。写真の建物も壁からすべて大谷石で2階の屋根は瓦ですが一回の庇屋根は大谷石です。

この辺りが中心なので、本陣もこの近くにあったのであると思われる、宿場を町おこしの為に利用しようとは思わないのでしょう。何も説明とか案内とかが何もありません。「上徳次郎宿」に入ってきました。道路を渡って「智賀都(ちかつ)神社」入口に見える欅は夫婦欅と記してあり、県の天然記念物で700年の老木です。神社を出たところで家の外に居たおじさんに聞きました。上徳次郎宿場はどこで終わりですか?少し先に見えましたが、道路の分離帯に当時の「徳次郎六本杉」を再現してあるのですが、そこが宿場の終わりですと教えてくれました。又、この三つの宿場は喧嘩をしないように、一か月を三つ見分けてそれぞれに営業をしていたとの事でした。今度は宿場ではないのですが昔は「石那田(いしなだ)村」へと入って来ました。「船生(ふなふ)街道入り口」と言う信号に来ました。昔は街道の分岐点になっていたのでしょうか?この周りには目の前に「石那田一里塚(江戸から30里)やら「日光街道植樹記念碑」・「十九夜塔」・「道祖神」などは一ヶ所に並んでいます。道祖神の前にて一休み。進みますと道路の向こうに「二宮尊徳先生遺跡 石那田堰 100mと標識が建っています。土手を下りて道路を渡り100m.降りて行くと田川と言う川が流れていて川のほとりに二宮尊徳に関する碑が3〜4個小さな祠が一つ。尊徳がこの川の堰を設計から工事の指導をして村に大きな貢献をしたのだろう。その記念に建てられたのでしょう。碑の字が古くなっていて読めませんでした。

街道に戻って進ますと田川の橋を渡って、道路の向こう側に大きな門のある「廣田家」があります。こちらには「石那田八坂神社」があり境内の脇には「廣田家」の何代も続いているお墓があります。村の大物だったのでしょう。過ぎた所より又並木が続きます。此処はほとんど檜に大木の並木です。2キロほど歩いたでしょうか地蔵尊の祠がありましたので時間も思ったより早いので祠の敷石に座って一休み。此の地蔵さんも布でぎりぎり巻「占い地蔵」と書いてあります。小さな説明がついていたので読んでみると、昔このあたりに疫病が流行り子供が亡くなって行く「八代将軍吉宗」が疫病封じに建造したとありました。

太陽も少し傾き始めたので進みます。この並木も終わるころ、此処より「日光市」の標識です。檜並木が終わって119号線を右に渡ります。写真を見ますと左側が119号線新道、右に真っ直ぐ入ると119号線(旧日光街道)、200mほど進むと左の写真の碑が立っていてここからが日光街道の杉並木となります。左の碑には「特別史跡 特別天然記念物日光杉並木街道」と書いてあり右の立て札は此処からの杉並木を植樹して寄進をした相模野玉縄藩初代藩主「松平 正綱」の事が書いてあります。杉並木の出発です。この並木は枯れそうな木は1本なく大木が切り立っていて、霊感あらたかと言うのか気持ちが落ち着き車も通らないし人も1人もいない、静かすぎて怖いくらいでです。1キロぐらい歩いたでしょうか119号線との信号に出ました。この辺りが「大沢宿」となります。

今日はここまでです。ユースホステルに電話をして今日泊りの宿から迎えに来て頂きました。宿に着くと430ころでした。此処の30歳代らしきご主人が経営している剣道の道場が繋がっていて、明日が祭日なので、ちびっこ剣士が遅くまで練習をしていました。このご主人が物静かで優しそうな顔をしていて、剣道6段との事驚き。

夜、震度3の余震がありました。                    第8回完


第七回

平成28年月日( )      天候晴れ  気温13度 

石橋宿〜雀宮宿〜宇都宮        地図上距離13q 実質距離15.5q




  日本橋より100q

   国道119号と4号の分

朝、目を覚ますとはれ。昨日の予報だと風が強く寒いとの事だった。

朝食ののち830分ホテルを出発、下野警察署を右に見ながら進みます。昨日の後半からですが宇都宮に近くなって来たので各家の蔵と塀が大谷石にて建造されております。柔らかいために年月が経つと風化してきており触るとボロボロになったとこころが多い、また家の名札の苗字が「福田」「渡辺」が多い(県知事は福田)そんなところを眺めながら歩いていると、面白い商売の店がありました。肖像画の店です。地元の人の顔はわかりませんが、芸能人の顔はそっくりでした。写真を見ているようでした。通り過ぎてから右に「鞘堂地蔵尊」お堂があるので覗いてきました。地蔵の首だけを祭ってあります。室町時代の足利義光時代に戦場になってお寺があったが焼かれてしまい大勢の戦死者が出てしまい、死者の方なの鞘(さや)を集めて焼け跡に埋めてお堂を作りその中に地蔵を安置した。昭和の初めごろまで桜並木があって、祭りには露天商など出て賑わったが、戦後老化により解体してしまい其の後今のお堂を作ったとの説明立て札。おばあちゃんが何人かで日向ぼっこをしながら私を不思議そうに見ておりました。国道に出て少し進むと宇都宮市の「雀の宮宿」に入って行きます。暑くて仕方がないのでコンビニでトイレを借りて水分補給をして、ジャンバーを脱いで出発「北関東自動車道」の下を潜ると左に公園らしき森のようなところが見えます。五分以上歩いてもまだ途切れません。信号に来ましたら、「陸上自衛隊宇都宮駐屯地」の入り口でした。それにしても広いなあと感心しました。自衛隊駐屯地を過ぎた所に私立の病院で大きな「うつのみや病院」病院の前に松並木があって、こういう病院だと癒されるにではないかと思う。落ち着けて直りが早いのではないだろうか?

雀の宮宿に入ってきているようですが、宿場であった面影は何もありません。ただ小さな神社で「雀宮神社」がありました、このくらいでしょうか?またこの神社の境内の銀杏に枝が折れるのではないかと銀杏の実がなっています。来る途中でも民家の庭に同じような木がありました。今年は当たり過ぎの年の様ですが、話に聞いたのですがあまりにもなると木が枯れると聞いたのですが本当だろうか?神社の前をとうり過ぎると東京から100q(日本橋)の標識です。国道の距離の標識なので旧日光街道は何キロか伸びます。年のせいか一昨年の甲州街道より100km歩くのに時間が掛った気が致しました。区切りとなるので先のコンビニでトイレを借りて1休みと思い入ったら使用中、なかなか外のベンチを借用出発して直ぐに自衛隊基地が又あります。「陸上自衛隊北宇都宮駐屯地」となっています。

規模は先の基地より少し小さいようです。ヘリコプターが降りたり、離陸したりしていたので、目的が違うのでしょうね。雀の宮宿を過ぎると旧宇都宮市内に入って行きます。道路の両側は栃木県の各自動車メーカーの出先と販売店の本社がひしめいております。

国道121号線との大きな交差点を渡りますと、(すう)(きょう)真光(まひかり)というなんだかわからない宗教の大きな建物、帰宅ののち調べてみると本部は岐阜高山市、高山に行った時宗教の大きな建物がありましたがそれかもしれません。芸能人では 勝野 洋・アントニオ猪木・沢田雅美などが入会している模様。通り過ぎますと大きな三叉路の信号右に行くのが国道4号線、真っ直ぐが此処より「国道119号線(日光街道)」4号線とはここでお別れです。まっすぐ進みます。左に大きな「富士重工業(スバル)」宇都宮工場、正門は厳重な警戒です。自衛隊のシートをかぶせたトラック2台先導車がいて出て行きました。どうも自衛隊に関する物を製造してるなとわかりました。後は飛行機に関するもの宇宙ロケットなどに関す    る物を作っているのではないか?自動車(スバル)は此処では一台も作っていない。

JR日光線のガード潜って二人のおじさんを追い抜き、不動尊の信号でこのあたりで旧日光街道は左に行くはずだと思い地図を見ていると、さっきのおじさん二人が何処へ行くのだとの質問。日光街道を歩いていることを話すとまっすぐ行って突き当りを左との説明、おかしいなとは思ったが、まっすぐ進んだ。一人のおじさんが追っかけてきて、実は日本橋まで歩く予定をしているのでのこと、初めから無理をすると続かないから10qからと説明と心がけを話しました。歩いていると日光街道には間違いないが、旧道ではなかった。さっきの信号の左斜めに行くのが正解だった。東武電車の宇都宮駅に来た。東武百貨店が駅舎と一緒になっていてちょっとトイレ休憩、国道119号を左に曲がって次回の道路の確認を行い、バスに乗って宇都宮駅に出て、宇都宮名物の餃子を食べに駅前の平日なのに並んで待っている「典満餃子」と言う店に入って、餃子をたら腹と生ビールで昼食にした。安くて美味しかった。次回も帰りによって食べたいな思い帰途。  

 第七回完了     


第六回

平成28118日(火曜日)      天候 曇り   気温15度 

小山宿〜太田新田宿〜小金井宿〜石橋宿      地図上距離18q 実質距離21.5q



  よく見えない三本の欅

  本陣の門と現代建築の豪邸

 昔の屋号が記してある

   小金井一里塚

    立派な鐘楼

   ケヤキの山門

  豪華な下野市役所

  丸大食品の慈母観音


横須賀の方でホームに人が降る事故があり電車が遅れて小山駅を
PM11.30スターとなった。

旧日光街道(県道265号線)に出て右に曲がります。まだ宿場が続いていて、街路灯に

「日光街道小山宿」の旗がなびいております。このあたり昔からの和菓子屋さんが多く見られます

「○○本店」と何軒もあります。でも時代でしょうかもともとの和菓子も店先に置いてありますが、パイのお菓子などの近代的なお菓子が半分を占めております。

500mぐらい歩いたでしょうか?小山宿の終わりです。右にはあまり見かけない剣道具専門店がありましたが、専門店で成り立っているのでしょうか?宇都宮法務局小山出張所の前のラーメン屋で「ちょい辛ネギ味噌ラーメン」の昼食です。寒いので大変あったまって出発です。

両毛線(小山駅〜高崎駅)の踏切を渡ります。この両毛線の名前はどこからとった名前なのでしょうか?しばらく進みますと急に左に大きな工場「小平産業(株)」があります。名前の横に特装車製造と看板が出ております。トレーラー・ダンプカーなどのボディーを製造しています。ダンプカーもちょっと変わった車体やら、大きな25トンダンプカーなどがおいてあります。特殊車体は新明和工業とか加藤ボディーなどの会社は頭の中にありましたが、初めて聞く会社なので勉強になりこれからは道路で気を付けてボディーの後ろのKODAIRAネームを発見しよう。

喜沢分岐点と記してありますが、何も説明がない昔街道の分岐点であったのでしょう。そこを少し進むと国道4号線と合流です。「須賀神社」の鳥居が見えてきました。前回はやたらにお宮とお寺がありましたが、今回はやたらと少なかった。あっても小さな祠程度でした。まあまあのお宮でしたので記します。長い参道でシンボルであり、市の指定文化財の400年以上のケヤキ三本、奥には300年以上の杉並木でした。社殿は小さいのですが、裏山は祇園城という城があり土塁が今でも残っているとの説明です。此処を過ぎたあたりより「太田新田宿」に入ってきたようです。

羽川小学校があって大きな銅像があり「菅沼良太翁寿像」とありましたが、裏の説明が良く見えません。宿場の名残は門のなどが残っていて、左の写真が門の柱に本陣の名札が付いていました。中の家は近代建築です。右の写真は各家がほとんど近代建築で門のところに宿場の時の屋号が記されていて1213軒ありました。

みんな立派に家ばかりでしたが一軒だけ古い大きな社屋があり、物置小屋(納屋)に軽四輪の貨物車と外車の高級車が止まっていて、現代的不釣り合い?微笑みました。

宿場のはずれに「幕府代官屋敷跡」の建て看板があるが何も残っていず、物置が二つ置いてあっただけ、その奥がお宮になっていた。通り越すと「下野市」に入って来ました。コンビニでトイレを借りて水を購入して一休みです。小金井宿場に入って来ましたが、ここの宿場は12軒の家で門のそれらしきものが残っているだけでした。但し国定指定跡「小金井一里塚」があります。

こんなに大きな一里塚は初めです。説明札を要約すると日光街道を整備着手が1,604年で国道4号線が明治17年(1,884年)日光街道としては約280年使われていた。此処は江戸から22里(一里は3.927q)写真の大木は手前が何代目かの榎で、真ん中が何時生えて来たかわからない椚(こんな大木の椚は初めて見ました)奥が欅。一里塚を離れて少し歩きますとお寺に来ました「慈眼寺」です。国道より入ると右に大黒様の大きな石像が鎮座しておりその脇には二十三夜塔、初めて見ますが二十六夜塔、十九夜塔(どちらも説明できません)前には欅の立派な山門をくぐると奥に見えるのは朱塗りの観音堂、右にはなかなか見られない立派な「鐘楼」です。本堂は火事にでもあったのでしょうか鉄筋コンクリ―トでした。 又参道の灯篭には菊のご紋が使用されておりましたが、徳川とのかかわりがあったのか?説明されるものがありませんので分かりせんが・・・ 慈眼寺を後にします。国道に戻ります。ここらあたりは田園風景となります。国道沿いに大きな桑畑があります。このあたりで養蚕をやっているようです。桑畑の桑が切られておりますので間違いなく飼育をしているようです。話は変わりますが先日東京駒ケ根会があって市長の話の中で、駒ケ根市も養蚕を始めて、その料理も始めたとの話、蚕のさなぎだと思います。私事、蚕のさなぎが好きなので帰省の折に買ってきます。生糸にしろさなぎにしろ、昔の良いこが見直されて来たことと思います。「自治医大駅」入口の信号です。駅の向こうには大きな大学の校舎が見えます。左は「下野市役所」、6万人足らずの人口の市役所にしては豪華すぎるのではないか、自治医科大学と大きな附属病院があるからでしょうか?進んで付属病院の入り口信号を過ぎると右側が大きな赤松の並木です。松くい虫でしょうか一部枯れてきていて残念です。

Tキロ余ある並木の中間あたりの食堂の休憩所を借りて一休み。並木が終わると左に大きな観音様が見えてきました。写真に撮りましたがハムで有名な「丸大食品」の関東工場の門のところに立っています。会社が立ったもので、国道の交通の安全祈願と社員の安全祈願の為なのではないでしょうか?工場の道路の反対には、黒豚とんかつ「合掌」という、どでかいとんかつ屋。観光バスが止まっておりましが大きなバスが20台は入れるような駐車場です。

今回の国道沿いには、スーパーとかパチンコ屋の駐車場がダダ広いのでびっくりします。

このあたりから石橋宿に入って来ております。国道のすぐわきに二か所に渡り、お寺がないのにお墓が並んでおります。少々異様な感じがしました。国道365号線との交差点を過ぎると街並みが石橋宿に入ってきていると思うのですが、この街並には宿場らしきものは何もありません。

少し薄暗くなってきて、町には明かりが付き始めました。石橋の街並みをすぎて10分ほど過ぎて宿泊のビジネスホテルに430分予定通りの時間で到着です。今日の国道はほとんどが真っ直ぐの道路で変化がなく面白味も半減と言うところでした。

 第六回完

第五回

平成281010日(月曜日)      天候 曇り  気温19 度 

古河宿~野木宿〜間々田宿〜小山宿         地図上距離18q 実質距離22.5q


   古河宿道標

   カナルハウス

   豪邸の一軒

 八十八か所巡礼めぐり

  どっしりの蔵と小川家

西堀酒造酒蔵 「若盛」


 珍しい商売のヘビ屋さん

 美しい須賀神社の参道 

6月に行っておくべきコースが、急に暑くなって今日になってしまった。古河駅を8:25分に改札口を出てロータリーへ、前回帰るときにロータリーにあった大きな碑が気になっていたので、観てみると説明書きがありましたが、よくわからないが万葉集にこの土地の事の歌が二つ載っているとの説明「渡良瀬川」にちなんだ恋物語の歌の要でした。直進をして前回の「古河本陣跡」の信号を右に折れます。これが旧の日光街道となります。

次の信号で道路がぶつかります(今は抜けています)ここも信州の「蔦の木宿」と同じで道路がクランクになっています。その角に「日光街道古河宿道標」常夜灯も上についております。文化財・有形民俗文化財との立て札のお説明。左日光街道・右江戸街となっています。説明しにくいのですが、クランクになっているのでこのようになっています。又このあたりが宿場の中心になるのでしょうか4軒のお寺が目に入りました。例によって日光街道の宿場には寺が多すぎて寄る気がせず、すぐに又クランクを右にまがいます。「日光街道古河宿」の旗が各街灯に挙げてありきれいな街並みなっています。商店街が終わるころ「宿道標」のところを突き抜けてい る道路と交わります。ここまでが「古河宿」です。宿場を離れると、左側に白い建物がありマリヤのような像が入口に

いくつかあり、中を見ると2階建てですが大きな建物です。きっとキリスト教の関係かなと思い中に入るのはためらいました。名前は英語で「カナルハウス」としてあります。帰って来て調べてみますと教会結婚式場で日本であるために、神式結婚式場にもなっているようだ。こんな田舎でこんな大きな式場で成り立つのかな他人ながら・・・。                          

少し進んだ並びに、「マーケットシティー古河」スーパーその他何軒もの店があるようで、モールになっています。広いので周りの人口を考えるとやって行けるのかなと考えさせられました。これも他人事ながら。開店前なのでしょうか人が一人もいない。 

此処を過ぎると、茨城県は終わり栃木県となります。同時に国道4号線と交わります。「野木宿場」の野木町です。左に「野木神社」の案内がありましたが700mの参道です。少々長いので行きませんでしたが案内板を読みますと関東奇祭の一つで「提灯竿もみ祭り」と言って竹竿の先に提灯を着けてそれぞれ火を消しあうのだとの事。又道路の向こう側に何か見えるので渡ってみると素晴しい山車が格納してありました。野木神社のものだと思いますが1億円はかかるのでしょう。何日か前に岸和田のだんじりの山車は1億円だとテレビでやっていたものと何ら引けを取らないように感じました。元に戻りますとそこに「野木宿道標」が立っていて説明を読みますと。日光街道は宇都宮まで奥州街道と重複をしていて荷物の輸送や往来する人々で混んいたので日光に行く人の為の近道が此処からあったとの道標でした。野木宿場は古河宿と間々田宿に近いためか野木宿場跡のしるしはありましたが、それらしき建物はありません。その代わりと言う訳ではないでしょうが道路の両側豪邸ばかりです。不思議だったのはそれぞれの宿場には何々家という家が必ず何軒かあるはずですが、小林家が二軒だけありましたが此処は全てが違う苗字だった。左に開山400年大法要との大きな立て札が出ていたので行って見ましたが、普通のお寺。ただ法要を529日に       行ったとの事で、確か美空ひばりと同じ月日だなと思っただけでした。野木町役場の案内の信号を過ぎた所に「大草本家」言う名札が出ていものすごい門構えの家でしたが、他に大草家の家は街道筋には見当たりません。大草家の門の前を通り過ぎると左手に山門があって仁王様が鎮座しているので、それべきのお寺と思って入って見ました。真言宗なので「弘法大師」の銅像があり写真ですとよく見えませんが周りに四国八十八か所のお寺の名前を書いた敷石があって、周りをまわると八十八か所回った御利益があるという説明ですが、たったの十秒ですヨお寺の名前は「法音寺」です。左には芭蕉の句の碑があり 道端の むくげは馬に 喰いにけり 

と刻んであります。案内の説明を見ると此の句はここで詠んだものではなく、静岡の掛川市のあたりで詠んだ。そんな句をなんでここの日に刻んであるのかの説明はない。芭蕉の弟子の曽良の「曽良旅日記」に野木を通過して間々田宿に宿泊したことが記されている。そんなことから地元の出身の句師が願望で碑を建てたのではないかとの説明で、1780年に建てた。

結構なお宮「八幡神社」が来たのでぼつぼつ休み時間かな、時計を見るとまだ10時を少し過ぎたばかり、又10分ほど歩きました。また八幡神社。まだ早い、先の方に神社らしき森が見えるのでそこまで行くことして行って見ると八幡神社、栃木県に入ってから気が付きましたが、相変わらずお寺はやたらとありますが、神社もやたらとあるようになりました。鳥居のところで休みましたが入って行くと左に大きな阿弥陀如来像がある。神社仏閣一緒になっている。2つのことが一緒に出来て良いことだ。ある時代に神社仏閣を一緒にしたとの話を聞いたこともあるし、時々見かけることもあります。少し進むと直ぐにここから「小山市」の標識です。場所は間々田乙女と言う住所になります。左手に大きくて綺麗な病院、私立病院で地方ではこれだけ大きな病院はなかなかないでしょう。大きな老人ホームとリハビリー棟も隣に並んであります。このあたりが「間々田宿」になるのでしょう。本陣等の建物はないのですが「小山市立車屋美術館」の看板です。写真だとよくわかりませんが昔の庄屋さんか何かであったのでしょう。大きくてどっしりした蔵と大きな品格のある母屋、住宅は小川家の住まいになっております。蔵も住宅も指定文化財で中を見学することができます。車屋美術館は敷地が広いため土地を小川家が提供して別に二棟美術館として立っております。全て無料です。まだオープンの時間ではありませんでした。

道路に帰り進みますと「間々田ひも(紐)」という紐屋さん。テレビの真田丸でやっていた「真田紐」と同じ理屈の紐であると思いますが、製造販売をしているようですが祭日で中に入れません。

それにしてもこの時代に商売になっているわけですから、何に使用しているのでしょう。しらべてみましたら現在は帯紐として使用しているようです。詳しく知りたい方はインターネットにて・・・

左に「間々田八幡宮」の案内標識です。大きな神社の要で市の公園も神社の寄付によりあるようですが参道が800m.もあるようで入りませんでした。進むと古い造り酒屋があり蔵が「国登録有形文化財指定酒蔵」となっております。西堀酒造と言う会社で銘柄は「若盛」です。酒屋を後にして進むと道路の向こうに「ロッククラフト」屋さんがある、こんな町はずれのところであるが結構やっていました。東京オリンピックの種目に入りましたから、繁盛している様でした。此処を過ぎると国道4号線は左に緩やかなカーブをしており、真っ直ぐが旧日光街道この大きな信号が「粟宮の信号」で左手に神社の参道があり「安房神社」となっています。紀元前からある神社で由緒あるようですが、やはり参道が長くていけませんでした。まっすぐ進んで旧道に入って行きます。ここからが小山市街となります。小山警察署入口の信号を渡ると宿場に入って来ます。新井という表札の架かった凄い門の家の前にやはり古い民家があり、庭に車が何台も止まっているのでよく見る小さな木板の看板に仏蘭西料理店と書いてあります。中には客がいっぱい。地元では知られた料理店なのでしょう。店先を通り国道50号線の踏切を渡りますと「小野塚イツ子記念館」 がありその敷地の中に大きな看板で「蛇しま」とあります。記念館で蛇の何をしているのだろう・・とはじめは思いました。蛇屋のほうは路地の奥にあるのだなと分かり入っていくと写真のとおりです。                                         

店の名前が「蛇しま」です。蛇類の粉、面白いのは、とんぼ・カタツムリの粉、蛇、熊の肝など・・・きれいなお店です。こんなところで商売が成り立っているようだが、まか不思議です。「小野塚イツ子」に戻ります。文学に弱いのですが、文学関係でそんな人いたのかな?記念館が休みなので帰って調べてみました。小野塚家は江戸時代から続く商家で、「万久」の商標で醤油を醸造。2003年に逝去されイツ子さんの遺言で16区画の土地・建物。預貯金 9千円、有価証券など4億円が小山市に寄付された。記念館は醤油工場の跡地に建てられものでしょうゆ工場・土蔵・四角なレンガ煙突が歴史遺産として保存されておりました。きっと後続者がいなかったのでしょう。

此処を過ぎたあたりから、街並みになって来ます。歩道を広く取り、町おこしのため街頭には「小山宿」の旗が掲げてあります。左に何か大きな碑が立っていますのでよく見る「小山宿脇本陣跡」で明治天皇の行在所であった。建物が小さいですが由緒ある建物が保存されております。

宿場と示すものはそのくらいで他には見当たりませんでした。左に鳥居があり「須賀神社」の参道入り口です。小山駅にも近いし今回は神社に行くこととしました。

広い綺麗な参道です。並木も何百年の経っているケヤキと銀杏ですが、両側は民家が多いためだと思いますが幹を10m位のところで切ってあり枝もみんな短く切ってあります。大変な落葉の量になるからだ思います。参道が400m.位でしょうか。大鳥居を潜ると神社としては、珍しく神門(寺では山門)があり両サイドは仁王様でありません。神様になります。笏を両手で持った白木の座像です。向かって右の神像は「櫛磐?(くしいわまどの)(みこと)」左の神像は「豊磐?(とよいわまどの)(みこと)門も神像新しく建てたりしたもので全て木曾の檜を使用しているとの説明。お参りをして街道に戻り「町の駅」を覗いて駅に向か小山駅は古河とは大分違って駅は賑やかです。ホームの下は綺麗なお店沢山並んでおりました。新幹線も止まりますし栃木県では宇都宮に続く都市でもあるからでしょう。「とちおとめ」のジャムを挟んだお土産を持って帰途につきました。

旧日光街道歩記第五回完

第四回

平成28514日(土曜日)      天候 晴   気温25度 

幸手宿〜栗橋宿〜中田宿〜古河宿     地図上距離19 q 実質距離21.5q


  休憩所としての建物?

     正福寺 

     顕正寺

   お墓の団体

よく見えませんが利根川橋


 椎の木の大木の並木

 常夜灯ここからが宿場

  石畳の肴町通り

 古河城下本陣跡の碑

昨日は28度もあって今日の暑さを心配しましたが少し薄い雲がかかったような天気で助かりました。幸手の駅を降りて拡張された美しい駅前通りを歩き左に折れて前回の旧日光街道を進みます。右手に小さな公園があり中に入って見ますと、此処は「問屋場跡地」で次のような説明がしてありました。もともとは奥州に通じる道筋の古い集落であった。「日光東照宮社殿」の竣工を期に幕府が作った宿場で宿としては勿論ですが、休憩宿場としての機能が主体だった。年間、昼夜休むことなく仕事を義務付けられていた。写真の建物は当時をしのばせるもので、問屋場と接していました。このような建物は他にも何軒か見受けられました。又もう一つ案内板がありこの説明は、7月15日に近い土、日曜日に祇園祭として七台の山車が引きずりまわされる勇壮な祭りがあるとの事。八坂神社があるわけではないようです。そういえば田舎でも7月15日ごろ祇園祭がありました。少し歩くと道路はSの字に曲がって行きますが、突き当りがお寺になっております。此処で宿場は終わりとわかりました。幸手宿場は初めてのお寺なので入って行くとコンクリート2階建の平坦な建物で、歴史は古いようですが、火事にあったのか、古くなって老化現象がひどかったのか・・・街道に戻りSの字を曲がり切り進みます。大きな3階建の高級感のある建物が左手に見えましたが、近づくと素晴らしい老人ホームでした。用水路の橋を渡ります。この橋は「筋違橋」と銘板がありましたが、川とは直角ですし意味が良く分かりません。国道4号線(日光街道)と合流しました。その角を左に入って行くと八幡神社があるようですが参道になっていて神社が見えませんので無視と言う事にしました。進んできますとおおきな標識で「権現堂公園」と記してあります。此処の公園は先日NHKテレビの「小さな旅」番組でやっておりましたが関東でもベスト10の桜の名所で、戦前は3000本の桜があったとの事です。今は戦後植えた桜が1,000本で1qにわたっていて土手の上は桜、土手の下は菜の花畑。春の桜の時には10万人の人で賑わうと放送でいた。「中川」の土手になるわけですがこの中川は都内に流れていて東京湾の手前で江戸川に流れ込んでおります。昔は都内で一番汚い川で有名でしたが、今、下流はどうなっておるのでしょうか?中川の橋を渡ると食堂がありましてエビ料理となっております。この中川でエビがいまだに取れていると言う事なんでしょう?橋を渡ったところから片側2車線の広い道路となります。国道に関わらず歩道がありません。土手の下の道路を歩2q歩きました。歩道がやっとあったと思ったところが又「権現堂公園」となっています。少し入ったところが調節池(権現堂川)になっており、さっきの権現堂公園とこの公園は繋がっていたのです。この権現堂川は中川と利根川が結ばれていて洪水になった時の調節池の様です。この公園で一休みです。水と少々のお菓子を頬張りました。国道に戻ると少し歩道を歩くと、今度は歩道が側道となっていて、道路側は見えませんが権現堂川に沿って歩く形となりました。東北新幹線の下を潜り国道の下を潜って旧日光街道に出ました。此処から「栗橋宿」になります。お寺を一軒通り越し又すぐに次のお寺です。境内の中をのぞくと人物象が見えたので入って行きました。親鸞上人の石像でしたが、説明はされておりません。中には寄木で作った「阿弥陀如来」立像があり、目玉が水晶でできていて文化財であるとのことで靴を脱いで中に入って見ようとしたが鍵がかかっていて入れません。又「池田鴨之介」の墓の案内板墓地に入って行くと、この方は幕府に願い出てこの宿場を村民と共に作った方だった。その墓の右に変わった墓があったので写真にしました。真ん中に碑が立っていて、お墓がぎっしり並んでいます。その名前が全部違っていました。お墓の寄り合いとでも言いましょうか。このお寺を出て来ると道路の向いにもお寺があります。この街道はそのたびお寺が多すぎていやになって来ます。建物もそれらしきものは残っておりますが、明治からになるのでしょうか呉服屋さん、下駄屋さん、荒物屋さんなどが古い建物のまま店が開いておりました。「池田家本陣」の前を通り宿場の終わりに「八坂神社」があります。関東三大神輿、100人で担ぐみこし、栗橋の誇りとしているとの事。その脇で大きな建物跡の遺跡の発掘をしておるようでしたが、土曜日でみんな休んでいて何の発掘か聞くことができませんでした。土手を駆け?上がると有名な「利根川」です。橋を渡り始めると橋の真ん中あたりに「茨城県 古河市」の標識写真で橋がもっとよく写っていると思いましたが小さく見えるだけ「利根川橋」を渡った歩数から650m.くらいでしょう。河川敷ではゴルフをやっていました。渡り切って左に降りて旧日光街道、此処は宿場と言うよりは関所があったとの事で関所跡を捜したが見つかりません。通り越してしまったようだ。街道の道をちょっと見失ったが地図など見てもとに元に戻す。「光了寺」古そうなお寺なので入って行くここは聖徳太子象も祭ってあるとの事ですが、有名なのは「静御前」を葬ってあるとの事です。静御前が義経を追って来てここで義経の死を知りこのお寺にお世話になったが帰ろうとしていたが、栗橋宿で悲しみの余りそこで亡くなったて光了寺に葬ったとの事です。隣が「鶴峰八幡宮」此処は鎌倉の鶴岡八幡宮と千葉の香取神社を祭ってあって当時は此のあたり広い範囲で力を持っていたようです。宿場の面影はほとんどありまが出来たばかりのようなお寺が二軒ありました「本願寺」と「顕正寺」顕正寺は同じ名前で栗橋宿にありました。食事時間ですが旧日光街道にはほとんど食堂はありません。何時も昼食時期は旧道を歩くことになってしまう。しょうがないから古河宿に向かってもくもくと歩きます。東北本線の踏切を渡ると旧道ですが道が広く歩道も自転車道と歩行者区別がついた広い歩道です。その歩道の真ん中に黒松が植えてありました。旧古河市に入って来たのでしょう。2qほど歩いたらやっとレストランに入ることが出来ました。ホッと一息食事を兼ねてゆっくり休むことが出来ました。食堂のお姉さんに古河駅まで時間はどのくらい掛かるのか尋ねると歩くのですか?とビックリしているから、1時間も見ておけばよいですか?「ハイ」と言う返事、幸手から歩いてきましたから大丈夫。年寄りだから気を使ってくれたのでしょうね。そんな歳に見られたかとちょっとがっかり・・・左に工業団地を見ながら進みますと右にこんもりした森が見えてきました。近づくと「県立古河第二高等学校」でした。正門の両側に並木になっております。開高100年たっていてその時の記念樹との説明、高さ17m.幹回り2.7m.の「椎の木」です。その並木の外側に「ヒマラヤ杉」の並木があるのですが自動車の排気ガスでしょう残念ですが半分くらいが枯れてきておりました。大弾幕が幾つもあって全国大会に文武共で出現が決まっている学校の様です。此処を過ぎると街中に近づいてきた雰囲気です。三叉路の信号に来るとその角にこれより「古河宿」の常夜灯が建っております。きれいな街並です。道路も広く歩道も広く並木は花水木と石楠花です。ただ残念なのは古い建物等壊してしまって何もなく、跡地、跡地の案内ばかりです。又この宿場昔は全長5qの素晴らしい松並木だったと説明の立て札、現地では老舗であろうと思われる、菓子屋などが見受けられます。又古河の名物は「フナの甘露煮」の様です。老舗が3〜4軒見受られた、臭そうなので土産には買いませんでした写真は路地で昔、城の裏木戸に直結していた通りとの事、通称「肴町」と言って米、お茶、お酒などの食糧を収めていたお店だった。今も食料関係を扱う店とか食堂とか、絵の展示場とか、和菓子屋さんとかあり近代的なものを扱っている割には良くマッチしております。その他の路地にもそれぞれ古い建物が残っていました。

今日は古河駅までと言う事で、駅に行く信号に来ました。三叉路なので駅からくると突きあたりとなります。信号待ちをしていたら、本陣跡の碑が立っているのが目に入りました。この跡地に銀行(写真左)正面がコの字の二階建て派手な建物、写真を撮っていたら説明に来てくれた人が東南アジアの顔です。良く建物を見ると、インド・フイリッピン・ビルマ・韓国等の店が78店舗入っております。説明のおっさんがこの先に行き路地の何か所かに、古い建物があるから見学をしていってくれと進めてくれましたが、今日はここで終わりであることを説明いたしました。宿場の町に建物がアンバランス、と一所懸命宿場の説明を外国の人から勧められて、なんだか面白いと言うか、何かが違うんではないかと思った今日の終わりでした。

                                         

                           第四回完

第三回

平成28426日(月曜日)      天候 晴   気温25度 

せんげん台駅〜粕壁宿(春日部)〜杉戸宿〜幸手宿 地図上距離21q 実質距離23q



     豪邸(森泉家)

      ユニークな便利屋さん

       東陽寺

   七階建の「匠大塚」

 懐かしい郵便ポストが残してある

 素晴らしい仁王様が鎮座している山門

   観音院 仁王門

    北緯360度記念碑

      400年記念の旗

  角穀跡 小島定右衛門邸

なかなか時間が取れず、やっと第三回実行できました。せんげん台駅に8時40分到着して少し準備体操をして早速日光街道に進みました。2前回目でも説明してありますが、国道4号線が2本走っています。日光街道とパイパスになります。300m.も歩きますと「新方川」を渡たって「春日部市」に入りました。国道の右側に「会之堀川」国道と平行をしていて川添を歩きます。どちらの川も地元では昔は清流であっただろうと思いますが、下水関係が行き届いていないのでしょうドブ川です。左にお寺があり入って行くとお宮も同じ境内にありました。説明の立て札を見ると、寺の檀家の人達が五穀豊穣の神様がほしいのでとの話し合いにて築いたとありました。昔は大枝村であったので「大枝香取神社」としてありました。この町にもありました。豪邸です。国道より100mの引き込み道路があって写真だと中の建物と、赤松の素晴らしい大木が三本あり門も重量感がありましたが写真ではそう見えません。国道に戻って少し進みますと便利屋さんがあって看板がおもしろいので写真を撮りました。家のすべてのトラブルに対応すると言うことで、写真の右上に見えますが「人生相談」まで受けている。田舎はのどかでよいですね。道は大枝地域を過ぎて備後と言う地域に入って来ました。昔は備後村と言ったのでしょう。進んで行きますと、お寺が二軒ならんであります。小さいのですが綺麗なお寺でした。一軒は幼稚園の経営を行っています。先ほどのお寺らと言い「浄土宗」のお寺です。派が3軒とも違っていました。道路の向こうに大きな酒屋さん。製造をしている酒屋さんと思ってよく見ると販売だけの酒屋さんでした。地方に来ると大きなスーパーやディスカウントなどありますが、名前と信用で店が成り立っているのでしょう。今日はお寺の出会いが多いようです。又2軒のお寺との出会いです。入って見ると特別なことがありませんでしたのでお参りだけといたしました。此処もどちらも「浄土宗」でした。国道に出て進みますと白装束の外人(インド人らしい)とすれ違いました。ヒンズー教でしょうか修業で歩いている様子、話かけて聞こうと思いましたが、日本語で話してくれなかたったらどうしようか?と思ってしまって話しかけれなかった。此のあたりに来ると、注文の家具を製造している個人的なお店もありましたし、別途に大型工場もありました。東武電車の「野田線」ガードを潜り抜けたところで一休み、散歩中の犬がなれなれしく寄って来てくれましたので気持ちが癒されました。出発して進みますと旧日光街道と4号線の日光街道が分かれます。もちろん旧道を選んで左に入って行きます。此処に立て札があり「此処より粕壁宿(春日部)」道も広く歩道も広くしてあり道路も歩道も綺麗です。旧道に入ると直ぐに左と右にお寺があり、右の「東陽寺(曹洞宗)」に山門をくぐり入って行きました。このお寺は奥の細道の一泊目のお寺との事、北千住の出発点から40q以上はあるはず昔の人は良く歩きました。「芭蕉宿泊の寺」との標柱と、巡行した曽良の「曽良日記の碑」が建っております。商店街は皆新しく街並みがきれいで地方に見られるシャッター商店街とはほど遠い、春日部の町だけどうしたのだろう。不思議に思って歩いていると右側に異様に大きな建物と大きな駐車場の建物、なんだろうと思い建物の横に警備員がいたので訊きました。家具屋ですぶっきらぼうの返事、それ以上話さないと思い歩道に戻る。丁度おばあさんが来たので訊きました。大塚家具の元社長(父)が娘とのけんかの末「匠大塚」という会社を改めて作り春日部の出身で故郷の町おこしの為に家具屋の出店との事、それで街並みも綺麗なのだ。手造り家具を主体に夏のオープンと大きな垂れ幕が出ていました。街道筋に家具を製造しているところがあり納得、今後のこの町の発展を祈りたいです。街並みが綺麗になったことは良かったですが通りに面するところはでは、宿場の面影は写真の「東屋田村本店」の建物だけです。これは本陣跡のすぐわきになります。でも町のいたるところに「粕壁宿」の案内の標柱が立っていています。きっと宿場案内図があって宿場めぐりが出来るようになっているのだと思います。春日部駅の入り口の信号を過ぎて、旧道は次の信号を右に折れるのですがこの宿場は奥が突き当たっているようで大きなお寺が見えるので行って見たくなり進みました。此処は説明の立て札を読むと春日部市寺町になり私の見ただけでも四軒ありました。それぞれの宗派のお寺です。一軒の寺の山門が素晴らしかったので写真にしました。中には素晴らしい仁王様があります。突き当りのお寺が一番大きく徳川のお墨付きの様でした。お宮はこの寺町を左に行くと「春日部八幡神社」の大きな社があるようですが遠くなので、行きませんでした。旧道の信号に戻り左に進みますと大きな川があります大落(おおおとし)古利根川(ふるとねがわ)で家康が江戸に入る前は利根川だった。架かってる橋が「しんまち橋」です。粕壁宿は江戸時代「名主3軒」「本陣1軒」「問屋場1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」あったと立て札案内に記してありました。春日部宿は宿場めぐりで1日過ごせるほど大きな宿場であると思います。 春日部宿の終わりに来ました。一里塚があり追分になっていた所です。旧家が2軒ほどあります。追分の為商売か何かで財を成したのでしょう。敷地が広く大木が生い茂って中が良くわかりません。家の周りの黒塀の瓦が落ちたりしていて建物の保存にも大変なのでしょう。一軒の家では門の中で奥さんらしき人が芝生の手入れを剪定刈込鋏で作業を行っていた。ここで4号線と合流します。国道16号線の信号も一緒になったような交差点(小渕の信号)で信号を二回にわたって渡ることが出来ました。16号線を左に行くと大宮、川越を通り八王子、相模原と抜けていきます。信号を渡ってすぐに「小渕山 観音院」左側にあって山門が素晴らしかったので入って行きました。山門(仁王門)は時代も相当過ぎているのでしょう両側にある仁王様が相当くたびれております。寺そのものは小さいのですが「円空」が長い滞在をしていたとの事で「円空仏」が何体かあるようですが中に入れません。芭蕉の句「ものいえば 唇さむし 秋の風」の碑がありますが、寄るとすると5月になるので此処で作った句ではないようですが・・・又作家の「森敦」NHK「奥の細道紀行」の取材で寄ったのでしょか、碑が建ててありました。若い住職がいましたが、近いうちにお祭りか何かあるのでしょうか?職人の方と忙しそうに仕事をしておりましたので挨拶だけで去りました。此処を過ぎると直ぐに「杉戸町」に入って来ました。駐車場になっていて写真の記念碑がありましたが、この町は北緯36度になることでその記念碑です。東経は13642分です。杉戸町のキャッチフレーズが中学生の考えた「すきすきすぎーと36記念碑と共の説明が立て札にありました。此処を過ぎるとただひたすら直進を歩くのみです。少しカーブのところにさしかかって来ると又旧道と別れます。直ぐにお寺がありましたが寄りません。300m.も歩きますと4号線と又交わりました。しばらくすると右手にまたお寺です。きれいな山門がありましたので、入って行きました。「馬頭院観音寺」お寺は新しく建て直していますが本尊は「伝教太師(最澄)」とあり、山門の脇には銅像が立っていました。10分ほど歩きましたでしょうか四号線と別れて又旧道に入ります。「処より杉戸宿」の標柱。12時になるし旧道に入ると食堂もままならないので分かれるところで昼食といたしました。宿の出発点に戻りました。旧道と4号線の間に素晴らしい並木と歩道があります。少し歩いてみることにしました。街の人達の憩いの場所となっていることでしょう、少し歩いて旧街道に戻ります。宿場らしい建物が表れてきました。写真を写そうとしたら酒蔵です。細々ではあるが酒を造っているようでした。右に「近津神社」の鳥居があり参道が奥まで続いています。鳥居の脇に立て札があり、神社の説明かなと見ますと、この神社は平成13年に不審火で消失してしまったため新たに社殿を立てたいので御浄財を賜りたいとのお願いの立て札でした。街の要となると思いますので早い建造を祈るのみです。隣がキリスト教会です。まさかキリストが腹を立てて・・・・・ではあるまいな?この宿場は粕壁宿の様にはいきませんが写真の建て旗が各お店の前に立ててあります。今年が宿場400年になりその記念を兼ねて町起こしの為です。「宿」の字を見てください。考えてありますね。この宿場はやたらと長い宿場でどこまで続くのだろうと思いながら歩いていると道路がカーブしていて突き当りに古い建物が見えてきました。町の説明の立て札によると、「角蔵」宿場の特徴の一つである町端の「桝型」米穀問屋で江戸の四つの商店と情報を共有して相場の変動にあわせた米取引を行っていた。コメの輸送については近くを流れる「大落古利根川」利用していた。個人邸でまだ使用しているので中には入れないとの事です。後先になってしまいましたがここ杉戸町の駅は宿場の中間をすぎたあたりになりになりまして有名な「東武動物公園駅」となります。左にお寺が又ありました。寺があったので宿場とお別れになりますが大きな土塀の家が見えてきました。門のところから中を見ますと大きな建物はおろか大きな蔵が3蔵あります。その蔵は先ほどの「角穀」の蔵を上まっており蔵の窓の扉が50cmもありそう。説明札がないのでわかりませんんが「角穀」と同じよう商売をしていたのではないか、丁度、隣の家の庭におじいさんがいたので話を聞くとなんだか知らないが昔から「御大臣」と呼んでいてもう10代以上続いていとの話。門札に「渡辺啓慶太郎(勘左衛門)」となっていました。代々「勘左衛門」を継いでいるのではないかと思います。帰ってから調べてみると、明治時代に銀行を立ちあげた人の様です。ここを過ぎると4号線と一緒になりました。「幸手市(幸手宿)」に入って来ました。少し歩いたところに「倉松川」があり10mも幅がないのに1級河川です。あの小田原にあった大きな川「酒匂川」が2級河川でこの小さなどぶ川が1級河川、何で決めているのでしょう。長さにて決めているのでしょうか?よくわかりません。直線約4qひたすら歩きました。直線を歩き終わると「首都圏中央連絡道(通称圏央道)」ガード下に来ました。商店モールでしょうか馬鹿でかい流通の施設がオープンしたばかりです。駐車場の中を歩くだけで疲れてしまうほど大きいです。くぐって「幸手宿」に入って来ました。左手が幸手駅になり前日もゴルフで歩いていたので少々疲れ気味本日はここまで。 第三回完了

第二回

平成2835日(土曜日)      天候 雲    気温17度 

梅島駅〜草加宿〜越谷宿〜せんげん台駅    地図上距離20.50q 実質距離 23q


  緑の「黒?塀」

  毛長川

   瀬崎浅間神社 

  瀬崎浅間神社 

 河合曾良の銅像 

 草加せんべい発祥の碑

 伝右橋  真鍮?の欄干

    歩道橋  

 歩道橋より松並木を望む

   清蔵院の山門 

 宿場の建物を改造した店舗

  木造三階建の豪邸    

前回、帰りに梅島駅で乗った時、階段を上がったところがホームの一番後ろだったので、今回降りる時一番前に乗って行けば、早く改札口に出られるかなと思っていたら、階段がまた一番後ろ。

このホームどうなっているかなと思いましたら、帰るとき気が付きませんでしたが、竹とんぼを思い出して頂くとわかりやすいのですが、ホームが一直線になっていて、真ん中の心棒がホームからの階段で、羽根の部分の左右が上り下りのホームになっていた。あちこちにあるだろうが自分としては初めての経験。ガード下の改札口を出て出発です。ガードを抜けたところの路地の入口に大きな看板で「梅島八幡」と出ていたので歩き初めて百歩もしないうちにもう見学か思いながら路地を入って行きました。看板に騙されました。看板より小さな神社。神社と言うより祠、でも地元の人たちにとっては大事な守り神様なのでしょう。足立区ですが旧道なので、古い大きく立派な家が右左に何軒かあります。大きな信号に来ましたら、此処は「環七」の信号です。左に行くと北区、中野区などを通り大森へといている。右に行くと葛飾区などを通り、ディズニーランドへと行っている。信号を渡り、次の信号が「増田橋跡」五差路の信号ですが、そこに古い碑が立っていて「西へ旧赤山道」調べてみると現在の川口に「赤山城」結構大きな城下町だったのでしょう。

此のあたりに民家が多くなってきます。写真では良く見えませんが、昔の黒塀を植木でやってある家があって、相当の年をかけて作ったと思われる珍しい物でした。その先に行きますと、相当の歴史を刻んできたであろう肉屋さんがありましたが、表は肉を商っていて路地の奥は(店の裏)家を改造してとんかつ屋を営んでいましたが、一石二鳥ではありますが、を売るだけでは続かないのでしょう。此のあたりまで梅島駅から道路は真っ直ぐでした。少し右に曲がると「法華寺」という、お百度参りが出来るお寺があって、隣に足立十全病院があって、裏の道路のむこうが 「都立足立病院」がある。これで「メモリアル」があれば完璧だだなと思った次第です。大きな立体交差点に出ました。「西保木間立体交差点」です。この交差点は千住新橋を渡って別れた国道4号線の交差点です。潜り抜けて進むと「けなが(毛長)川」に出ました。東京もはずれとなると、下水関係がいき届いていないのか結構汚いです。県境でもあるし、どちらの責任になっているのか?橋を渡ると埼玉県「草加市」となりました。                               

少し進むと信号はないのですが、三叉路があって何か見たことがあるような?右に入ってりきます。此処は勤めていた会社の鉄筋の加工場を兼ねていた倉庫があったところです。加工場と共に他の場所に新築したようですが、今は内装建材の会社の配送センターになっているようでした。

街道に戻って歩きだしたのですが、ものすごく歩きにくいのです。原因は道路の方が建物の土地より高くなっているため歩道が斜めになっているためですが、越谷に入ってもありました。

右手に神社が見えてきました。「浅間神社」富士山を霊山として信仰している富士行人たちが当地にいて、一般民衆も誘って富士登山をおこない、その人たちが建てたお宮との事です。境内には能の舞台もありました。此のあたりから草加の宿の一部になるのでしょう。少し進んだところにものスゴーイ家があります。どのような人の家なのでしょうか?敷地も広く内部には建物が幾つもあるようです。大きな門の表札が、難しい字で分かりかねますが多分「書間」(かくま又はかきまさん)と読むのではないかと思います。草加はご存知の「草加せんべい」で有名です。店が何軒もあるのですが、趣のあるせんべい屋さんに入ってお土産を買いながら先ほどの名前を聞いたのですが、若い店員さんだったので、有ることは知っていたが名前が分からなかた。街の中心に向かって行きますとYの字の道路のところに「今様草加宿」の碑が立っていた左斜めが旧街道で右斜めが現在の街道、「現代風草加宿の碑」町おこしのPRの為のものとの事でした。右に進みました。写真のような碑が立っていて説明版を見ると、明治天皇が明治八年の奥羽巡幸と明治十四年の東北・北海道巡幸2回にわたり(や)古宇村(こうむら)名主「大川弥惣右衛門」の行在所(宿所)とされた。これが史跡名勝天然記念物に指定され本体は、歴史民俗資料に移されてしまいレプリカでした。大川家の建物は平成四年に解体され跡地はレプリカの碑だけとなりました。草加宿はこの辺が中心だったのでしょう。草加駅への信号も過ぎておりぼつぼつ草加宿場も終わりかなと思っていると左に「おせん公園」がありました。                                                                                           

せんべいの町で付いた名前でしょうね。銅像は奥の細道の芭蕉に随伴した「河合曾良」の像です。                     

信州上諏訪の出身との事、同級生のお友達が芭蕉の紀行を車で回ってまとめた本に書入れあったような気がしますが、これではっきりとわかりました。曾良は旅日記も書いているようなので読んでみたいと思います。右が「草加せんべい発祥地」の碑です。そのすぐ右側に芭蕉奥の細道紀行が平成3年に細道紀行300年となっており 記念碑が立っていました。公園を出て右側に渡り進んで伝右(でんう)(かわ)の「伝右橋」を渡ると札場(ふだば)河岸公園」おせん公園とは100m位離れているだけです。綾瀬川の川岸になるわけですが、昔は江戸から中川を上がって此の「札場河岸」まで船が相当行き来をして賑やかだっただろうと思います。個人的な河岸で屋号が札場と言ったとありました。河岸が残っていますが保存のため入ることができませんでした。芭蕉の銅象が此の公園にあります。曾良と同じ人の作です。芭蕉の目は曾良を見つめていて、曽良は芭蕉に気使いしている目線であると言う。望楼も新しく建てあり当時の使用した道具、工具などを展示してありました。市民の憩いの公園であることが伺えます。綾瀬川の水が少し汚かった。此処で草加宿とお別れとなります。

公園を後にすると目の前に、アーチ状になった横断歩道橋が目に入って来ました。信号を渡らずに歩いてみました。木造の手すりに見えますが実際はアルミ?に木目のプリントをしてあります。

景観をなるべく壊さないで長持ちをせる工夫にはこれでよいのではないでしょうか。下りた所から綾瀬川の岸辺に黒松並木は1.5qの長さなっております。徳川家康の命令で当時植えたとの説明ですが素晴らしい街道がいまだに残っていました。日本の道100選にもなっていて、600本から成り立っているとのこと、植え替の物が半分以上と思われますが石畳があり散策にはもってこいの場所です。地元の人が多いのでゴミが一つもない快適な道路です。日光街道は並木道路と左に平行に走っておりますが、その道路の向こう側は「松原団地」があり当初はマンモス団地だった。仕事で何回かきたことがありました。今は新しく建て替えてまた素晴らしい団地になっている様子が見えておりました。歩道橋も同じようなものがもう一つ中間点にありました。松並木が終わると、今度は桜並木です。桜のころに又来てみたいものですが・・・並木が終わると川の向こうにでかい草加南水門が見えますが、以前に綾瀬川の氾濫があって放水路を作ったのでしょう。「東京自動車外環道」が上を走り、下は国道268線です。その下を潜って進みますと橋のたもとに出ます。此処で日光街道と合流して綾瀬川の橋を渡ると、「越谷市」に入って来ました。蒲生地域になります。合併する前は蒲生町(がもうまち)だったと思います。蒲生寺地蔵院があったので入って見ました。山門を入って左にお地蔵が六体祠に祭ってあった。長い間住職がいなかったお寺で歴史がはっきりわからないお寺とのことの説明、500mも進まないのに日光街道との交わるところの左にまたお寺があり、此処も入って見ました。「清蔵院」という寺で山門が市の有形文化財です。1638年に関西の工匠の作、山門の龍は金網で囲われている。龍は「左甚五郎」作とされ、夜な夜な山門を抜け出し畑を荒らしたことから、金網で囲った。街道に戻り、12時も少し過ぎ、蒲生駅入り口の信号を過ぎた所で30分間の昼食と休憩をいたしました。30分休むと疲れが出てきます。気合をいれて歩き始めました。武蔵野線の南越谷の駅のホームを見ながらガードを潜って、越谷宿と入って行きます。此処も日光街道の旧道に入って行きます。長く結構な商店街になっていて、思ったよりシャッター商店街になっておりません。宿場らしい建物もいくつかあり、写真のように昔の宿場の建物を改造して、日用雑貨などを打っている店が何軒かあります。又人形を手作りしていて中では人形の着物を縫っているところが見受けられました。路地の向こうを見るとお寺が見へたので入って行って街道を渡り(指導と旧道がすぐ近く並行して走って入る)入っていたお寺「照蓮院」千徳丸と言って武田勝頼の遺児で、この地に落の延びていたが早世してしまったため、その菩提を弔ったお寺。宿場のはずれに来ますと、川縁に出ます。結構大きな川で、信号を渡って橋を渡ったのですが、川の名前の看板がないので渡り終えた時におじいさんがいたので、地元の人であることを確かめ川の名前を聞きました。橋の名前は大橋です川は大沢川と教えてくれましたが怪しい、渡ったところに八百屋さんがあり中に入って聞きました。「元荒川」と教えてくれた。昔利根川と荒川が合流していた時は本流荒川だったと言う事でした。案外地元の人は知らない、ここでもそうでした。北越谷駅前のスーパーでトイレをお借りしながら一休み。街道に戻り出発です。歩き始めてしばらく進むと旧道が東武線を越えて回り道になっており、行くと「宮内庁埼玉鴨場」があるが、中に一般は入れないとの事で、線路伝いの道路を少し歩いて線路の向こうから廻って来た旧道と合流し少し行きますと大きな立体交差点出ました。「下間久里立体交差」これは千住新橋を渡ったところで別れた4号線バイパスと合流及びクロスしています。バイイパスは右に行き、日光街道と旧街道も別々にクロスしています。此処からは日光街道もバインパス国道四号線です。4号線が二本になって宇都宮まで行って二本が合流して東北と進んでいきます。草加からここまでの日光街道はどうして4号線でなく県道になってしまっているのだろうか?埼玉にお住いの方々(特に草加にお住の方)教えてください。                   ガードを潜るといきなりの木造三階建の豪邸、このほかにも豪邸が並んでいます。面白いことにこのあたりは、自宅の敷地内に一軒一軒の墓地がそれぞれあることでした。途中で旧4号線(日光街道)合流してしばらく歩いてから東武伊勢崎線の「せんげん(千間)台駅」より電車人となり南越谷で武蔵野線に乗り換えて帰宅いたしました。もう一駅行きたかったのですが、二日前の二ヶ月ぶ

りのゴルフで疲れが取れず帰りました。                         

追記 この日光街道で私の見たお寺が結構あり全てが、派は違っていたが「真言宗」だった。

   神社は少なく、大きな神社は見ることが出来なかった。日光の東照宮が関係しているのか?

 

第二回完

第一回

平成28219日(木曜日)      天候 雲後晴れ 気温11度 

日本橋〜千住宿〜梅島駅         地図上距離12q 実質距離 15q


   日本国道路元標

    三越本店正面玄関

   柳橋の屋台舟

     柳橋

   第六天榊神社

    駒形どぜう店」

    雷門と人力車

  公園からのスカイツリ-

  御神輿や太鼓のお店

  素戔雄神社ひな壇の一部

  奥の細道の出発点

   宿場の表記

   文化財横山家住宅 

  日本橋から9q

 名刹「善立寺」山門はありません

  千住小塚原の「首切地蔵

昨年の箱根駅伝往路完歩で味を占めまして、もお一度挑戦と言う事で、旧日光街道140qに挑戦を挑むことに致しました。地下鉄東西線の日本橋で降りて、日本橋のたもとに出てきました。皆さんご存知の通り日本橋の橋の中心が(真ん中)「日本国道路元標」があります。日本の道路の距離ここからの距離です。日光街道なので橋を渡って北に向かいます。国道4号線、6号線、17号線同時スタートです。橋を渡ったすぐの信号を左に曲がりますと、箱根駅伝の決勝ゴールに行きます。又道路の右側には江戸時代にあった魚河岸の碑も立っておりました。信号を渡って歩きだすと「三越本店」です。ライオン像が有名ですが、何の目的で置いたのかが分かりません又ライオン像が、4月から1030分開店になりますと言う看板をライオンが抱えておりました。時代が変わってお客さんが早く来ないのでしょうね?本店前を過ぎると左側では「室町三丁目再開発」と言う   大きなビルの建設が始まっておりました。その他に道路の反対側や近くに大きなビル現場がいくつも行われているようで、建築ブーム到来かと思える気が致します。其処の信号を右に曲がります。旧日光街道はこの道になります。もう一つ先の信号をまっすぐ行くと17号線、4号線と6号線は右に曲がります。旧甲州街道を進むと昭和通りにぶつかり立体交差になっていて向こうに渡ることができません。やも得ず4号線、6号線の信号に移動真っ直ぐが4号線で右に折れて6号線を進みます。小伝馬町、馬喰町と進みます。此のあたりは私たちが東京に来た頃は繊維ブームでメリヤス、洋装品、服地などの問屋さんが沢山あり賑わっていました。同級生も何人か此のあたりに就職いたしました。でも今では面影にとどまっているだけとなったようです。「エトワール海渡」は頑張っていました。少し歩きましたら大きな信号です(変則交差点)浅草橋の信号です。右に行くとここから国道14号線で千葉方面に行きます。信号を渡ると直ぐに浅草橋です。もともとは浅草寺に行く橋であったため昔は「浅草御門橋」と言われたとの事です。下は神田川が流れていて屋台船がまだ残っておりますが、全盛時代は(直ぐに隅田川になるのですが)数え切れないほど屋台舟であふれていたと、1ヶ月ほど前に読んだ「江戸の橋散歩」と言う本に書いてありました。橋を渡り終えると左側に浅草見附の立て札が建っていました。渡ると丁目が柳橋になります。昔の名残があると思い路地を入って行きます。料亭が何軒か残っておりましたが利用はあまりされていないような感じです。川の縁に茶屋店が結構並んでいます。地元のおじいさんにちょっと尋ねました。この川は神田川ですね?芸者さんはまだいますか?どちらもノーの答え、案外地の人はわからないものですね。川縁に行きますと「柳橋」があってほとんど人も車も通りません。通りに戻りJR総武線のガードを潜ります。駅は浅草橋です。直ぐに交番があり、芸者さんのことを聞きました。今はゼロとの話でした。川の向こうの向島より出張してくる?のかしら・・この浅草橋周辺は有名な人形屋さんが多いです。ひな祭り、五月人形で忙しいでしょう。右手奥に神社が見えます。今、初めての神社だと思い路地を入り境内に入ります「日本武尊」が蔵前に110年に建て1719年に柳橋に移して昭和3年に同じ柳橋の現在のところに移転したと記してありました。「榊神社(第六天榊神社)」鳥居とか狛犬が紀元2600年(小生の生まれた年)に記念に建造されたとしてありました。これはわかるのですが、わからないのが、愛知県稲沢市出身で明治9年生まれ「海軍大将男爵 大角岑生(みねお)と言う碑が立っておりました。何の説明なしに。少し歩きますともう蔵前の信号に来ました。右に行きますと、蔵前橋になるのですが手前に昔「蔵前国技館」があったのです。今はどうなっているのだろうと行って見ました。大きな建物があって空いているところに建物の工事を行っていました。警備員さんに聞きますと大きな建物は都の水道局の建物で工事を行っている建物も水道局の建物と言う事でした。蔵前の交差点に戻りました。角にブリキおもちゃの専門店がありまして、この辺は子供のおもちゃとか花火とか子供の物の問屋さんがあります。今はひっそりと商売を行っているようでした。(うまや)(ばし)の信号を渡りますと、駒形に入って来ます。道路の向こうに東京では有名などじょう屋さん「駒形どぜう」何かと言えば必ずと言っていいほどテレビなどに出てきます。一度食べたいと思っており、絶好のチャンと思って行くと11時からでした。昼食にも早かったわけですが、皆さんも機会があったら立ち寄ってみてください。渋谷にも支店があるようです。どじょう屋さんを過ぎると、駒形橋西詰の信号(変則五差路)駒形橋はすぐ右です。橋の向こうに朝日ビールのきんとう雲の看板(ウンコ雲)の向こうに「東京スカイツリー」見えます。五差路の先に浅草寺の「雷門」が見えものの5分ぐらいで門の前に到着です。平日で時間もまだ午前中、凄い人出で外人が40%人力車の客引きも盛んです。車引きは若者が多い、大学生のアルバイトでしょうか?門の前の立て札を読んでみますと雷門は何度か消失して、現在の雷門は1960年(昭和35年)に松下電器(現パナソニック)創業者「松下幸之助」の寄進により再建されたものことです。何回もの火事で仁王様はその都度どうなっていたのでしょうか?「浅草寺」「仲見世」何回か来ているのと、人出が多く立ち寄りません。雷門を右に折れて直ぐに吾妻橋の信号です(変則5差路)左に折れ、信号を渡り左に東武電車の「浅草駅(上は松屋百貨店)」を見て進み東武電車のガードを潜ると右は隅田公園です。中に入ってトイレを済まし一休み。眼のまえは隅田川の向こうに「東京スカイツリー」がそびえていまして見あげないと頂上まで見えません。通りに戻ると言問橋の信号です(変則5差路)此処から橋の真正面に見えるスカイツリーももっと雄大に見えました。この信号を右に折れていくのが国道6号線で水戸方面に行きます。国道6線とはお別れです。都道464号線(旧日光街道)を千住に向けて歩きます。さすが浅草ですね。御神輿や太鼓を作ったり売ったりしている店がありました。左の写真のお店です。店を過ぎていきますと「よしの橋」と言う橋があり川は埋め立てられて「山谷堀公園」となっており橋の欄干は其のまま面影を残してあるわけでしょう。都立浅草高校を右に見て進みますとちょっと変った高級な7〜8建のビルがあります。「西法寺」と言うお寺です。中に入るととてもありがたい感じが致しました。今、はやりの室内(全天候性)の墓地でビルの中がすべて墓地になっているのでした。東浅草交番前の信号で右を見るとどこかで見た名前だなと思ったら私の田舎の実家の部落出身方のお店でした。信号を渡って見たのですが社長はいないようなのでもとに戻って進みますとその店の弟さんの店が(名前で分かる)ありました。何十年もあっていないので尋ねて話をと思いましたが、きっと長引いて前に進めないのであきらめました。路地の左奥にお寺がありますので入って行く手前の角に、又同じ部落の出身の方のお店です。ビックリした次第です。此処も寄りません。皆さんたいした方々です。自分のお店(会社)を持っているわけですから。後ろ髪を引かれて進みます。泪橋の信号を渡りますと、ここからは「荒川区」に入ります。南千住駅を下に見て陸橋を渡りました。しばらく歩きますと大きな南千住の交差点に出ました。此処で国道4号線と交わります。信号を渡りますと大きな神社があり素戔神社「スサノオオオカミ」と「アスカオオカミ」を祭ってあって、荒川区四十一町を氏子に持つ大きな神社で、都内では珍しい二天棒の神輿が有名との事、又時期なのでしょう。神社のいたるところにひな壇を飾ってあって、社務所の中は横が10m以上もある見事な祭壇でした。もっと見たり読んだりしたかったのですが先に進みました。隅田川の大橋を渡ると「北千住」になります。渡り終えると左斜めが4号線真っすぐが旧日光街道、街道に入ると右に「中央卸売市場足立市場」があり入口を過ぎたころに「松尾芭蕉」 石像があり、奥の細道の出発点との事です。又ここから江戸時代の千住の「やっちゃ場」で、一軒の淡水魚の問屋さんが商売をしているだけです。でも明治時代まで相当にぎやかだったようです。案内板があって明治時代のにぎやかさの写真がありました。町おこしの為に各建物の前には当時のお店の名前の名札がかけてあります。沢山かけてあり相当の数の店があった様子です。中央市場があるのも頷けます。又その一角に芭蕉の句で「鮎のこの 白魚おくる 別れかな」の碑がありました。此のあたりから本町通り商店街になっており北千住駅に行く信号まで1qほどあります平日なのに結構にぎやかでした。
北千住駅への信号を過ぎると、続けて「千住宿通り商店街」此処も1qくらいの商店街です。中間で路地に入って昼食を済ませて、と通りに戻ました。丁度このあたりが「千住宿場」となっていたようです。「千住宿」は品川宿・新宿・板橋宿と4大宿場の一つ北日本の要となっていて大変にがやかだったと記してありました。左の写真が宿場後の碑と看板です。右は北千住宿の一つの特徴で写真ですとはっきり見えませんが旅籠の戸口が通路より一段低くなっております。お客さんよりへりだっていたとの説明です 写真は撮りませんでしたが、この宿場もお寺が2〜3軒ありそれぞれ由緒ありお寺の様でした。旧道斜めに進みますと4号線と交流しそこが荒川に架けられた「千住新橋」です。千住橋は荒川に架けられた最初の橋で、幕府は江戸防衛の東の要衝である荒川への架け橋を千住橋以外長らく認めなかった。旧日光街道の千住橋は現在の橋より300400m上流にあった。又この橋ができるまでは渡しであって今の橋より下流にあった。橋の長さは450m位あり橋の中間点が日本橋からの4号線の距離となっております。渡り終えるとおのずから左に折れ土手の脇の道路を上流に進みました。此処から足立区になりました。旧日光街道は信号を右に折れますが(旧千住橋を渡って来た所)右の角に新しいタイプの大きなお寺があり「善立寺」。帰ってから調べてみましたら以下の様なお寺でした。応仁二年(1468)三河安城に草創して、岡崎に遷り、江戸内幸町に移り、その後江戸下谷に移り足立区梅田の現在地に昭和2年に移転新築との事です。日蓮宗江戸三大触頭(ふれがしら)の一つに連なる名刹との事です。神社で言えば1の宮神社みたいな存在だったのでしょうか?ここから梅島駅まで2q位でしたでしょうか。途中には子供の咳に御利益がある 「八彦尊道碑」があっただけでした。
追記

さすが日光街道です。書きたい事、出したい写真などありましたが、ただ一つだけ肝心なものを落としました。追記します。千住の小塚原の「首切地蔵」南千住の駅を過ぎた所にありました。江戸のおし置き場(刑場)前に箱根駅伝の書きました「鈴ヶ森」と江戸に二つの刑場があり明治の初、埋没とは名ばかりで、土中に浅く掘られた穴に薄くかけた程度であったため、雨の日などはその一部が露わになることも頻繁で、夏には臭気が鼻をつき、野良犬が群がる、この世の修羅場であったと言う。首切り地蔵は、この刑死者を弔うために造られたものである。国事犯である橋本佐内、頼三樹三郎、吉田松陰なども此処に眠っている。との説明でした。都内は見るところが多く、進行がはかどりません。次回からはあまり見るとこもないのではないかと思いますので距離を延ばすことが出来たら有り難いと思っております。それより全て完歩できるかが心配ではあります。  (第一回完)     



第6回 (完)                箱根駅伝を歩記歩記者  林 厚男

平成271111日〜12日     天気11日・12日とも曇り 温度度1617

箱根湯本駅〜小涌園〜箱根湖畔  認定距離q18.06q(9.088.98)実質22q位


     旭 橋

    蛙の滝

  富士屋ホテルの一部

 もと御用邸であった菊華邸

   小涌園入口 

   最高地点の標識

    最高地点の標識

  磨崖仏(元箱根石仏群)

   箱根神社の大鳥居

  箱根神社の大鳥居

箱根の山登りは、なめていけないだろうと思いまして一泊をしての予定を立てまして、まず一日目は「箱根湯本」で昼食を取り12時の出発です。商店街がなくなるところを右に行って橋を渡ると「吉池」「大成荘」等のある湯本温泉街です。街が終わって「旭橋」を渡ると箱根の山に入って行きます。前は渡ると直ぐに前は「函嶺洞門」を通っておりましたが、今は全て通行禁止で 「もみじ橋」「桜橋」の二つの橋を早川にかけてバイパシを作りました。直ぐに元の道路に戻りますが千歳橋を渡ると「塔ノ沢温泉」に入って来ました。道が狭く建物が接近していて歩道がありません。温泉場を過ぎるとここからは全て山の中です。歩道がなくて道路が狭く、カーブの連続です。車が急に表れるため緊張の連続です。太平台までは約4キロありましたが、途中は椎の木の大木と写真の「蛙(かわず)の滝」があっただけ、何で蛙の滝と言ったかと言う案内標識「むかし、この辺り(家らしきものは何もないが)に悪い病気がはやった時、この滝の近くに住んでいた蛙が村人の夢枕に立ち、木かげを作ってくれるなら病気をなおしてあげようと言いました。村人が言うとおりにすると、病気がなおったことから名付けられた。」 此の箱根路で一番のヘヤーピンカーブを通り上がったところの左が「大平台駅」があり突き当りが太平台の鎮守である「山神(さんじん)神社」があります。案内を読むと戦国時代にはあったようですので結構古いと思いますが、こんなところまで上がって来て人が住んでいたのだと思うと昔の人はものすごい生命力があったのだなと関心をいたします。大平台温泉までは坂が結構厳しかったですが、ここから少し和らいできた感が致します。宮ノ下まで約二キロこの間も建物はなく山だけでした。途中一軒だけ大きな門があって「秋元」と言う名札がついておりましたが、門の上の方に豪邸があるのではないかと言う感じが致しました。小さな橋を渡って左に少しの空き地があってそこに案内が立っております。古くなっていて字がよく読めないのですが、大きな見出しの字だけはっきり見えます。 「道銭微収所跡」としてあります。大体の内容については、宮ノ下の「富士屋ホテル」の創設者「山口仙之助」が私財で湯本から宮ノ下までの道路を作ったため通行料を取った。当時の料金で工事代、馬車とか、人力車人とか細かく書いてあるようですが良く読めなくなっていました。30分前後歩いたでしょうか、坂道を上がってカーブを曲がると前がひらけて宮ノ下の街並みになって来ました。駅に上がって行く道の前をとうり過ぎて、箱根町の観光案内書の分室がありそこに立ち寄って町の「観光マップ」を頂くと共に今夜の夕食を購入するためにこれから先のお店の場所などを聞き御礼を言って道路に戻ります。道路の右側に「エクシブ・箱根龍宮」と言うものすごい豪華な建物があります。帰って来てから調べてみると初めて聞く名前ですが「エクシブグループ」があって、豪華な分譲リゾートホテルをあちこちで経営しているとの事ですが分からないのではっきりしません。その庭のもみじが真っ赤できれいでした。150mも歩けばかの有名な「富士屋ホテル」です。写真はホテルの一部ですが、此処のモミジはこれからです。きっと真っ赤になることでしょう。此の富士屋ホテは外人向けに建てたと聞いております。チャップリン・ヘレンケラー・ジョンレノン等が泊まったようです。今日も外人の方々が多いようです。結婚式も扱っているようで白無垢の花嫁さんが歩いておりました。信号をまっすぐ行くと、ここから国道138号線で仙石原を通り御殿場へとつながっております。東海道は左に曲がりますが、その角に「菊華荘」とあって元御用邸と記してあります。中は昼食などもできるようでメニューを見ると相当高そうです。また木細工の展示も開いているようです。曲がった所が本当の富士屋の門となるようでその門の石垣で一休み。此処から蛇骨橋までの500m前後が大変だった。歩くのにもやっと言える急坂です。選手の何人かがここで体力を消耗するのではないかと思えます。放送には入りませんし、ここでは撮影は無理かと思います。私の想像ですが何人かはここだけは歩いているのではないかと思います?聞く機会があったら聞いてみたいですね。此処から少し滑らかになります。小涌谷の温泉街に入って来ます。大きなカーブを過ぎて、次の大きなカーブにさしかかりますと左手が箱根町消防本部なのです。こんな山の中が「消防本部」(消防車3台・救急車1台)ちょっと考えられません。でもよく考えて見ますと東のはずれが箱根湯本、西のはずれが芦ノ湖湖畔の箱根、北には強羅その先が仙石原、ここが町の中心なのです。その右側には「宮ノ下郵便局(宮ノ下ではないのに)」宮ノ下には建てる余裕がないのでしょう。カーブを曲がり終ると、「箱根登山鉄道」唯一の踏切で、丁度電車が通るところで踏切がおりました。昔、電車が優先で選手は足踏みをして待っているテレビ画面がありました。待っている選手と後から追いついた選手のアクシデントが此処で起きて悲劇、喜劇があったわけです。今は選手が優先になっています。人が優先の踏切は日本でここだけではないでしょうか?  コンビニ(セブンイレブン)が右に見えてきました。宮ノ下で聞いてきたコンビニだと思って夕食買いました。強羅方面に行く県道723号線の信号を渡り今日の目的地に進みます。左側に「翠松園」と言う高級そうなホテルがあり少し玄関近くまで行って見ましたが、私のようなものが来るような所ではなさそうです。湯本から歩いて来てこのようなホテルなどがいたるところにあります。さすが箱根と言うのでしょうか?そこを過ぎると今日の目的地「小涌園」前に出てきます。小涌園の手前にもコンビニ(ファミリーマート)があった。宮ノ下ではここを教えてくれたのだなと気が付きましたが、時すでに遅し。一帯は、丁度モミジ真っ盛りで小涌園のモミジがきれいだったので代表で写真撮りましたが、見た目とはちょっと違いました。何日か前に宿泊交渉で、小涌園も、ルネッサンスも1人は受付をしてくれなかったが、さすが藤田観光一人泊りの「B&Bパンシオン箱根」を経営していて、紹介され一泊約4200円(朝食付)の予約で地図には少し先国道沿い込んで先に進んでしまい「恵明学園」学園を過ぎ、笛塚の停留所を過ぎてもない2キロ以上も過ぎたので道路工事をしていた方々に聞きました。国道沿いでなくて小涌園から強羅に抜ける県道沿いで、2キロ以上戻る羽目になりました。この周辺は全て藤田観光の関係の建物ばかりで小涌園の裏の方にはマンション幾棟もあるようですし「椿山荘」もありました。目を覚ますとどんより曇っていて、雨を心配しましたが空が明るくなり朝食を済ませて小涌園前より昨日の筆塚の停留所までバスで出ました。二日目の出発です。小涌園までは急坂部分が多いのですがここからは少し滑らかにはなってきております。10分ぐらい歩いたところに「鎌倉古道」案内板がありました。何でこんなところに?旧東海道はずーと向こうになりますが、それより以前は旧東海道よりここに来て元箱根に行っていた道だなと思いました。これはもう少し歩いて分かったことですが・・・歩いているうちに木陰の向こうにちらちら噴煙が上がってあります。このあたりに温泉が噴き出しているようだ。前がひらけたところに上がって来ました。「芦の湯」地域、此処が頂上かなと前を見ると200mほど下ってその先は又登っております。下りかけた所の左の奥にさっきの噴煙が見えます。道路を少し入って行くとなんと箱根町の焼却場でした。がっかりしながら坂道を上がって行きますと今度は本当に頂上です。874m北風が強く当たりとても寒いです。海抜もあるためこのあたりはほとんど落葉しておりました。余りにも寒いのでサイクリングの人達が一枚防寒のため記混んでおりました。さあ、ここから下りです。少し進んだところに碑が見えます。下り行ってみると、「曽我兄弟・虎御前の墓」1295年(永仁三年)に建てて事が刻まれております。左二つが兄弟です。虎御前は調べると兄の妾と記してあります。その時代のような石畳の狭い道がありそこを進む国道の下をトンネルで抜けております。向こう側に出ると岩に仏像が刻まれております。地蔵菩薩だと説明してありました。この岩だけで23体道路の反対側の岩にも何体か刻まれております。その他にも掘られた岩が敷石の道の脇に何か所かありました。刻み始めたのが1293年(永仁元年)となっており、何か曽我兄弟との関係があったのでしょうか?歩いて行くと「精進池」の脇に出ます。池の縁の道が終わると国道に出ます。こんなことでここの道はさっきの「鎌倉古道」に繋がって行くことが分かります。5分ぐらい歩きますと右側は別荘地帯でしょう。会社の山の家もあるようです。大芝と言う信号に来ました。大きなカーブになっておりますが右行くのが県道で桃源台を通って仙石原に出て宮ノ下から来た国道138号線に出ます。直ぐに又大きなカーブになります。この信号が三叉路になっていてここで旧東海道(今は県道732号線)と交わります。大きなヘヤーピンカーブを二つ曲がって下りた所が元箱根の信号(三叉路)となりました。半分は中国人で朝から観光客で賑わっていました。信号を左に曲がり、大鳥居を潜ってコンビニでトイレを借りて旧東海道の杉並木の道に入って行きます。国道一号線と平行していて一キロほどでしょうか、夏は涼しいでしょう。並木も終わり信号を渡って、時間が思ったより早く着きましたので箱根の関所を15分ほどシルバー価格で見学致しました。当時を再現していますが女性は身体検査が大変だったことが伺えました。「入り鉄砲に出女」箱根関所は特に厳しかった。鉄砲はわかりますが、女性の意味が分かりません。知っている方教えを乞う。国道に戻り67分歩いて信号を右に曲がりゴールです。1045分でした。写真はゴールの碑ですが、反対側は「東京箱根間大学駅伝競走復路スタート」と彫り込でありました。結局記念碑があったのは一区の中継所とゴールだけでした。ゴールの碑の手前に「箱根駅伝ミュージアム」がありそこをひやかして、裏にバス停がありバスに乗って宮ノ下まで来てまだ乗ったことのない「箱根登山鉄道」乗りました。スイチバックが多くて乗っている時間より長く感じた。湯本で昼食を摂り帰宅の途に着きました。

    感想

「箱根駅伝」歩きも最後の山登りをもって完了いたしました。距離は各区間を合計していきますと少々矛盾がありますが、調べて初めて知ったのですが往路107.5q、帰りは歩きませんが復路109.6q。「往路」「復路」が、約2.06q違いがあることが分かりました。大磯の街中で国道1号線が複雑になっているため行き帰りが約0.5q、10区では馬場先門の信号を右に折れて、京橋の信号を左に折れ、日本橋を渡り左に折れて読売新聞本社ゴール此処で約1.5qです。

箱根の山は旧東海道ではなかったり、箱根駅伝コースの歩きに関しましてはあまり書くことがないのではないかと思っておりましたが結構歴史に関することがあったり自分の記憶と違っていたり、全て国道一号線(東海道)を走っていると思ったら県道や違った国道を結構走っていたり、大変勉強になりました。それにしても選手は20q前後走るわけですが大変なことだなとつくづく思いました。帰りにどこかの大学生かわかりませんが箱根の山を走る選手だと思いますが走っておりましたが、箱根の山登りは思ったより大変であることが分かりました。体力があり、若葉の季節になりましたら箱根湯元より芦ノ湖湖畔まで、「旧東海道」を歩いてみたいなと思っております。

                                      以上  林 歩記           

  第五回

  平成27103日(火曜日)           天気晴れ   温度20

     二宮駅〜小田原〜箱根湯本駅    認定距離16.53q   実質20.5q


手に抱いているのがうさぎ

  日本橋より72q

       車坂の史碑

   酒匂の松並木

   酒匂川大橋

  小田原宿場の表示

   見附と一里塚

    蛙石(かわずいし)

  正面門(馬出門?)

  黒の電話ボックス

昨日は雨で寒い一日でしたが今日快晴の二宮駅に降り立ちました。広場のどこかに「二宮尊徳(金次郎)」の銅像があると思っている訳です。二宮尊徳の銅像はありませんが、写真の「ガラスのウサギ」の銅像があります。説明書きを読んでみますと、児童文学作家「高木敏子」が疎開をしていて父親がガラス細工の職人で、この地で空襲に会い死んでしまったがガラスで作ったウサギが無事だった。これは映画にもなっているようですが、映画の事も高木敏子の事も皆目わかりません。二宮尊徳に関した事は何もありません。後で昼食の時食堂の親父さんに聞いて分かったのですが二宮町の出身ではなかった。小田原市栢山(かやま)生まれということがわかりました。二宮の名前は他に二宮一族がいて其れからきているようです。無知過ぎました。今回は大変勉強になりました。二宮尊徳の銅像と言えば、私の小学校、中学校には銅像はありませんでしたが、昔はあちこちの学校にあって教育のシンボルみたいになっていました。しかし取り壊した学校が全国的にはあると聞く、理由、子供は、「重いのに背負ったまま歩きながらでは疲れる荷物を降ろして座って読んだらいいのに」先生。親「背負ったままで歩いて本を読んでいれば危なくて心配だ」今の先生・親はなにを考えているのか教育の中身は何を教えようとしているのかを考えないのでしょうか?おじさんは(おじいさんかな?)腹が立って仕方がない。先生と親の教育が必要だ。横道にそれました。国道1号線に出て歩き始めると、右側に精密機械を作っている工場があってその工場の庭のようなかたちで松並木が残っております。通り過ぎて進みますと、「梅沢川・吾妻橋」の標識があります。橋はクラシックでしたが、下を見ると川などありません。道と家が建っているだけ、きっとどこかで他の川と合流でさせてしまったのでしょう。一理塚の碑が立っているところに来ました。碑の横にも刻んでありますが江戸より(日本橋)18里(18番目の一里塚)となっております。国道の日本橋からの標識が73.5qになっているので昔でも相当距離には正確であったことが伺えます。この一里塚は大磯宿と小田原宿の中間にあたり旅人目当ての茶屋や商店が並び「梅沢の立場」と呼ばれ大変賑わっていたとの事。道路の反対側に茶店の跡が残っておりました。坂を下り、橋を渡ると小田原市になります。50m位進むと又二宮町になり又50mほど進むと小田原市になります。間にもう一つ川があり私の判断ですと水害などがあり川が移動したのではないかと思われる。坂道を上がると、浅間神社の入り口の信号で過ぎると、目の前に小田原の海と町が眼下にみえ、海の向こうには真鶴半島が突き出ております。正面には箱根の山々がくっきりと見えます。右手には富士山が見えるはずだが雲がかかっていて見えませんでした。坂道を下りると、左に西湘パイパスがあって下は直ぐに海です。今日は海が静かの様です。右側には「史跡車坂」があり三人の歌が書いてありました。江戸や鎌倉、箱根に行くときにここで詠んだと説明です

@    太田道灌     鳴神の 声もしきりに車坂 とどろかしふる ふゆ立の空

A   源 実朝     浜辺なる 前川瀬を逝く水の 早くも今日の 暮れに蹴るかも

B   北林禅尼(阿仏尼)浦路行く こころぼそさを浪間より 出でて知らする 有明の月

右に「近戸神社」を見ながら坂道を上がった信号が「国府津駅」入口の信号過ぎて下って行くのですが、昔の宿場の面影の建物が残っておりました。「国府津」言えば、私のはしたない記憶では東海道本線はここから御殿場を通り「沼津駅」に行っていた。「丹那トンネル」が出来て本線がそちらに行ったため、「国府津〜御殿場〜沼津」は御殿場線となった。下ったところが「親木橋」と言う大きな信号で渡ると直ぐに「山近記念病院」と言う大きくて綺麗な総合病院があります。その庭先に太い松並木が8〜9本残っていて病院をますます引き立てています。病院を少し過ぎると又綺麗な松並木が表れてきました。100m位でしたが。このあたりは町名が「酒匂(さかわ)」です。真っ直ぐな道路が続きます。このあたりは小田原に近いせいなのかお寺が何軒か存在しております。昔は町か村であったのでしょう。結構の間「酒匂」になっておりましたから。平らな真っ直ぐの道路をしばらく歩きますと軽い上り坂になります。そこが有名な暴れ川「酒匂川」です。こんな大きな川が2級河川になっていますちょっと信じられません。第四回目の平塚に架かっていました「湘南大橋」とほぼ同じくらい長く(600m以上ありそう)橋は揺れずにしっかりとしております。橋からは小田原の町は目と鼻の先、箱根山もすぐそこ右手の奥には富士山が雲の間から覗いておりました。橋を渡り終えると旧小田原の町「山王」という街に入って来ます。Tキロも歩かないのにお寺が7件もあります。凄い所は二軒ならんでお寺があります。東京の信濃町のお寺群と同じで、大名たちがそれぞれお寺を持っていてここに集中いたのではないかとの私の判断です。山王の町が途切れると、小田原宿の碑が立っておりました。そのすぐ前に「江戸見付及び一里塚跡」の碑が立っておりましたが、昼夜兼行で見張りをしていたようです。20番目の一里塚も兼ねていたようで日本橋より80qになります。このあたりより小田原城の手前まで新宿町と表示がしてありました。此処で写真などを撮っていたら、バス停で待っていたおばあちゃんが、話しかけてきて地元では有名なお稲荷さんがあるので着いてこいとの事、バスを待っているし腰も曲がっているので申し訳ないと思い断っていましたがどうしてもと事で後をついて行きました。路地を3〜4回曲がって突き当ったところでした。お礼を言ってバス停に戻って頂きました。案内説明を見ると、400年ほど前に「北条稲荷」が当地に建てられた小さな稲荷神社ですが、「蛙石(かわずいし)」と言って写真のように自然の石がカエルに見えるわけですが、明治35年の大津波にも、大正12年の大地震にも少しの移動もなかったので掘り出そうと試みたところ、3m以上掘っても下部に達しなかったので然らば地下岩盤の露出の先端ではないかと言う。小田原に異変があると鳴き声を発した。特に北条時代小田原落城の際は夜なく盛んに泣いた。国道に戻ります。少し歩きますと町の中心部となって来ます。城下町であるために国道1号線でもクランクになっております。小田原市民会館にぶつかる形になります。向こうに渡り1号線を外れて小田原城の正門(東面)に着きました。天守閣は耐震の工事を行っていて足場が掛かっております。時間がかかってしまうので中に入るのはまたの機会といたします。南面に移動すると城の左に白い三階建ての大きな建物で屋根は瓦葺き。なんだろうと正面にいてみると小田原市立「三の丸小学校」城と合わせているわけです。あちらこちらで城下町とか門前町なので見かけますがこの小学校はすばらしかった。公衆電話ボックスも街中に有るものは全て写真如きでした。学校に沿って左に曲がりますと学校のグランドのはずれに中門の跡が石垣で残っておりました。国道一号線に出て真っ直ぐに箱根湯本に向かいます。このあたりの1号線は旧東海道であったと言う証拠で、古い建物で桶屋さん、木の器の店、和菓子さんなどが昔の職人の息をつないでおります。このあたりが小田原中継所(4区から5区への)のはずだが、ここも印すものはないようです。12時を過ぎております。丁度このあたりは食べ物さんがありません。進んで、東海道本線、新幹線、小田急線(箱根登山鉄道)のガードをくぐり終えると左に「箱根板橋駅」がありその入り口に食堂がありそこに入って昼食です。此処で二宮尊徳の話等を聞いた訳です。このあたりからだらだらの登坂になり30分近く休みましたので初めは少々きついです。高速道路のインターチェンジが何か所かあるので道路が複雑になっております。そんなところを道に迷いながら「鈴廣」に到着しました。お土産と思い自宅に電話すると、蒲鉾よりほかの物と言う事でさつま揚げを少し購入しました。出て来ると箱根から車が混んできております。そこからは歩く方が早くなります。30分くらいで箱根湯本の駅前に来ましたが、今日は大名行列があると言う事で道路脇、川の縁など見物の人達でごった返しです。正面の改札口に行けず箱根方面からの入り口に回されたため10分ほど時間がかかってしまった。大名行列も初めてなので見たいと思ったのですが、帰りの電車の混雑を考えて車中の人となりました。

                    完

第四回

平成2710月日(曜日)      天気快晴   温度25

藤沢〜平塚第三中継所〜二宮駅前     認定距離23.07q  実質28q


三棟の蔦屋本屋の建物

 松下政経塾の正面入り口

 遠くに江の島がのぞめます

 サザンビーチの標識

「湘南游歩道」の完成碑

    湘南大橋

  大磯の松並木

 日本橋からの距離

  血洗川

吉田邸の引込み道路

講和条約門(内門)

素晴らしい秋晴れで、小田急藤沢駅より藤沢銀座を通り前回の藤沢橋に向かいます.少し路地を間違えて県道30号線に出たので確認のため店前で店主らしき60過ぎの方に話しかけました。「此処県道30号線ですよね?」「何号線かわからないが県道です」「旧東海道ですか?」「さあわからななあ」「大学駅伝が此処を通りますね?」「はい通ります」長い間住んでいても地元の方なんてこんなものなんですね。旧東海道は藤沢橋を右折れて行っているようです。進行方向に向かって出発です。直ぐに「小田急線」のガードを潜ります。と直ぐに「東海本線」の陸橋を渡り大きな三叉路に来ました。左方向に行くと鵠沼海岸方面、右方向に行くのですが横断歩道が交差点より離れたところあるので、信号無視をして渡りました。渡ってひょいっと前を見ると大きな建物があります「藤沢警察」でした。おまわりさんに見られなくてよかった?ですが悪いことをしてはいけませんよとの警鐘です。この辺に元の会社の営業所があったと思ったが、富士見橋を渡って行くと右側の信号の向こうに真っ白い派手な建物(写真)が3棟見えます。一番前の建物に「蔦屋本店」となっています。対面のコンビニで水を買いながら聞きましたが、本屋の蔦屋ですが何をしているかわからないとの事でした。コンビニの裏の方になるのでしょうか、元の会社の藤沢工場があって鵠沼海岸に海の家があり、大昔の話ですが家族で海水浴に行きました。この海岸は海水浴禁止ではなく注意となっておりました。一部潮の流れが沖に向かって流れています。それに乗ってしまったのか振り向いたら沖から大分離れしまっていて泳いでもすすみません疲れて来るしこのまま死んでしまうのなと思っていると、マットのウキにつかまっているアベックがこに進んできたので、大声で呼んで助けてもらいました。今になっても時々その時のことを思い出すと鳥肌が立ちます。左に2m以上ある石垣あり中はどうも大邸宅か何か施設でも、門のところに来ると幅が10メートルにもならんとするステンレスの門扉が閉まっております。とても乗り越えれる様なものではありません。中は玄関に向かって道路が斜めになっていますので中が見えませんがどうも大邸宅です。ローマ字で「MATUDA HIDEO」となっています。裏に回ったら何かわかるかなと思い行きました。塀を挟んで藤沢市役所の図書館も併設の辻堂支所があります。此処なら教えてくれると思い中に入って何人にも聞きましたところ、解らないと言います。そんなはずはなかろうと思いながらいかしかたがないので次に進もうと県道に出て来るとボランティアで歩道の清掃をしていたおじさんがいたので聞きました。「良くわからないが右翼の親分だとの話だ」との事、役所の従業員の人達の「わからない」と言う意味が分わかりました。それにしても物凄い邸宅でした。このあたりは自動車販売会社があるが、「フォルクスワーゲン」販売店が深刻な朝礼をやっているよう見へましたが気のせいでしょうか?左に大きな辻堂団地に来ました。古い団地で一部を取り壊し大きな「ナギサモール」の建設中、建築主は北海道札幌の住所でした。団地も段々と様変わりをしていきます。「茅ヶ崎市」に入って来ました。キャンパスのような広い敷地にさしかかって来ました。なんだろうと思って進むと正面です。「松下政経塾」です。湘南と聞いて今いたが此処にあったんだ。多数の政治界・経済界に出ておりますが一期生は誰たちだろう(インターネットでどうぞ)?松下幸之助さんはたいしたものですね、名前も物も残していったのですから。塾の外には素晴らしい宿舎も見えます。少し歩きますと、鎌倉、江の島方面から来た国道134号線に突き当ります。「浜須賀」の大きな交差点です。全て歩道陸橋になっていて、ベンチなどもある素晴らしい歩道です。陸橋から直に海岸にも降りて行けます。歩き始めて1時間半ぐらいになりますのでこの陸橋の上のベンチで一休み、写真の奥に見えます島は「江の島」です。海岸の脇には鵠沼〜柳島まで7.7キロに亘り歩道を兼ねたサイクリング道路となっております。一休み終わって国道に降りて浜の香りをかぎながら出発しました。道路の両方は黒松並木です。左         側は日影になりますので助かります。快適に歩けますが何もありませんので話がそれますが朝、来るときの電車の中で「内館牧子」のエッセイの本を読んでいたら面白い記事がありましたので記します。彼女は秋田出身で大学卒業の後、三菱重工の横浜造船所に勤めていた、場所がら神奈川出身者が多い、横浜の女はどこかで東京を下に見ている。鎌倉の女は横浜をどこかで下に見ている。茅ヶ崎や辻堂、江の島、葉山、逗子の湘南女に至っては、湘南以外は全て下に見ていて、東京なんぞは「田舎者が好きな都市」と切り捨てる。挙句、同じかながわの市名をあげ、「××市や▽▽市が湘南ズラするのは迷惑。あれは湘南じゃないわ」と言い、車に同じ湘南ナンバーを付けるのがいたりすると、いたくご不満のようす。面倒なことに、神奈川には横須賀女というのもいて、これは湘南さえも下に見ている。そのくせ「対東京」とか「対神戸」という状況になると全員で一致団結する。40分近く歩いたでしょうか松並木がピタッとなくなる。左がビーチと小さな漁港がある。そこがサザンビーチです。信号に標識が付いていました。「サザンオールスターズ(桑田佳祐)」たいしたものですね。場所の名前をもらってしまうんだから、小さな町の一角を過ぎると両側又松並木になります。このあたりに来ると時間のこともあるのでしょうが、真っ黒に日焼けした定年を過ぎたであろう、おっさが自転車の脇に台を付けて、それにサフィーンボードのっけて走ってる。大磯に行くまでに何人にも会いました。自宅が近くにあると言う事です。2030分歩いたでしょうかまた急に松並木がなくなりました。此処で鵠沼からのサイクリングを兼ねた歩道が国道に繋がって7.7qが終点の柳島です。奥に碑が見えましたので入って行きました。この碑は観光と住宅の開発と失業対策のため昭和610年に完成した「湘南游歩道」の完成碑で、長い松並木も防砂のため植えたもので、ここ松の木の管理を任されていた人の働きが素晴らしかったとの記念碑も隣にありました。出て来ると左前に大きな建物があり初め市役所か何かと思っていますと、神奈川県水道公社の建物で「相模川左岸終末処理場」となっていました。もの凄い広い敷地になっています。其処の一角で一休みです。さあ昼までは休まず歩きます。大きな信号があり右に曲がりますと新湘南パイパスに入ります。坂道を上がって行くと此処より「平塚市」の標識があり相模川に架かる「湘南大橋」です。左には海が見えて、前方の目の前は平塚市街、右の奥は丹沢連峰の「大山」が見え斜め右手の奥は「富士山」「足柄山」その左手には箱根の山々が見えます。少しカスミが掛かり写真にはうまく映りません。しかしこの橋はダンプカーなど荷物を積んだ大型車が通ると足がもつれるんではないかと思うほど良く揺れます。渡って見ると結構長く700mはあるのではないか?渡り終えると又大きな三叉路の信号です。右に行きますと厚木橋本に行く国道129号線、信号を過ぎると又両側が松林になりますが、これが少し困った左側だけ歩道がありません。今までと全く条件が同じなのになんで作ってないのか、カンカン照の下を黙々と歩きます。12時を過ぎようとしているのに松林だけで食堂等が何もありません。しょうがないから大磯まで頑張ろうと30分ほど歩き川のふもとに出ます。標識が「金目川(かなめがわ)」となっています。おかしいな地図には「花水川」となっています。これは参った大磯はまだ先なのかなと思いましたが、丁度そこに信号があり釣り帰りのお父さんがいたので訊きました。河口に来ると名前が金目川に変わる、時々戸惑う人がいると笑っていました。良かった橋を渡って「大磯町」入りです。渡ったところに食堂がありゆっくりと昼食です。店の斜め前方に信号があるのですがこのあたりが「第三平塚中継所」お店のお姉さん聞いたところ信号の手前がそうだが此処は何も示すものありません。にわか造りで平塚第二中継所と全く同じ、がっかり。1qほど進むと直進が西湘パイパスに繋がる国道一号線、右に折れて300mほど進むと藤沢パイパスから来た国道1号線と接続して、国道134号線はここまで。この信号が大磯駅入り口、町の中心部の様です。左に曲がり国道1号線を歩きます。大磯消防署の前を通り、少し行きますと道路の下に小さな沢があって、茅葺き屋根の建物があって「鴫(しぎ)立庵」と書いてありました。重要建物としてありました。入場料を取っていました。時間がないので階段を上がって来て出発。少し歩きますと、東海道の松並木が300400m続いて昔の面影が残っております。大磯は小高い丸い山がいくつもあり、緑が茂っており目の前には海があり住みたくなるのは当たり前です。国道沿いには農家の民家も見られますが、裕福そうな建物ばかりです。松並木を抜けて進みますと日本橋より70qの標識です。国道一号線とマラソンコースのかけ離れたとこが結構あるのですが、ここまでの歩いている感じで1qも違っていなのではないかと思います。直進道路を進んでいますと葛川と言う川にクラシクの20m位の橋が架かっており欄干を見ると昭和12年に架けられた橋です。80年間近くもびくともせず働いていました。又少し進んだところに10mない小さな橋があって欄干に「血洗川」となっております。これは何かあるなと思い帰って調べました。全長1.6q川で血荒川の近くに切通しの岩窟中に地蔵があった。源為朝為朝が鶴岡八幡宮を参拝した際、狼藉を働いたものがおり、梶原景時の子、悪太郎影義が疑いかけられ、この地蔵に帰依していた悪太郎がお参りに来た際、畠山重忠に討たれた。だが悪太郎の身体には傷はなく、代わりにこの地蔵が血を流し、その腕も刀傷を受けたかのようだった。その時地蔵が流した血を洗った。短い掘割を抜けると信号があって右に入ったところが「神奈川県立大磯城山公園」です。信号を過ぎた左側が「吉田茂」の元の邸宅ここも道路の反対ですが城山公園の一角となっています。写真の門は「内紋(兜門とも言う)」サンフランシスコ講和条約を記念し建てられ門で、別名「講和条約門」ともいわれている屋根は「檜皮葺き(ひわだぶき)」です。此の門から入って庭が広いです。左の高台には放火で火事になった後の「吉田邸」が2棟建築中でした。管理の伯父さんたちに聞いたところ2棟とも復元との事でした。バラ園もあります。時間もないので庭を少し見学して、お邪魔をいたしました。もう大磯町mも終りかなと思ってあたり「大磯警察」がありトイレを借りることにいたしました。挨拶をしてお借りして、帰りに挨拶がてら二宮駅のまでの時間を聞きました。20分ぐらいと答えて頂き「気を付けて行ってくださいね」と激励も戴きました。5分も歩いたでしょうか、右側に大きな鳥居があり相模国総社 六所神社」となっております。初めて訊くお宮ですので行って見たいと思い進みましたが、東海道線の下を潜り1kmほどありそう、またの機会にと思い、戻りました。少し進むと「二宮町」に入って来ました。町の中心の信号が駅です。ホームに入ると直ぐに電車が来て、茅ヶ崎で相模線に乗り換え八王子廻り帰宅でした。今回はほとんど坂がなく距離を稼ぐことが出来ました。

                   完  

第二回

平成27919日  (月曜日)   天候 晴   26

鶴見第一中継所〜戸塚第二中継所       認定距離11.72q 実質20q

今日は花の二区です。やっと歩ける季節となり、第2回目を歩こうと鶴見第一中継所に830分に立ちました。


  生麦駅前信号シャッター商店

ケチャップ発祥の地

     面白い案内標識

    崎陽軒本社

    総持寺山門

      本堂

 石原裕次郎(裕ちゃん)の墓

今日スタートの時はTシャツでは寒いくらいでした。歩き始めると大きな複雑の信号が二つもあり主要道路(国道15線)でありながら信号待ちがひどく500m歩くのに15分もかかりました。でも歩道も広く歩きやすいので我慢、我慢。まず、来ましたところが昔は日本一汚いと言われておりました鶴見川の橋に来ました。今はどうなんでしょうか?まだまだ汚いようでしたが、釣りをしている人がいましたので大分良くなってきたのでしょう。橋を渡り5分もしたでしょうか左に「鶴見区役所」道路を一つ渡ると「鶴見警察」甲州街道を歩いた時にはよくトイレを借りましたので今回も思いましたが先ほど駅で済ませて来たばかり、鶴見駅入り口(JR・京浜急行)の信号を過ぎますと急に国道15線が狭くなります。歩道もそれに合わせて狭くなっております。進んできますと、JR鶴見線のガードに来ました。今では工業地帯に繋がっている大切な線になっていると思います。そのガードが駅になっていましてズバリ「国道」と言う駅でした。「生麦」地域に入って来ました。この生麦はなんで有名かと言いますと幕末に「生麦事件」が起き場所です。私もよく知りませんが薩摩藩がイギリス人を切り殺してしまって「薩摩・イギリス戦争」にまでなったぐらいまではわかります。「生麦駅入り口」の入り口の信号を過ぎて進みますと横浜港引込み線のガードが見えてきました。国道の上は新しい首都高速道路の大きな工事の施工中です。新しい道路ができるとその先のどこかで渋滞が確実です。 両方の下を潜りますと左が「キリンビール横浜工場」(キリンビバレッジ)の入り口です。何処のビール会社も同じで見物客が来ております。団体も居るようで観光バスが止まっておりました。余談ですが私もサントリーの武蔵野工場に4回ぐらい言っておりますが、ビールを飲むことでいっぱいで、工場の説明など聞いておりません。此処の工場も同じなんだろうな、一人で笑いがこみ上げてきました。東海道本線の上に「浅野学園」見えます。この学校は浅野財閥(日本セメント)の創立者?浅野総一郎氏で、調べてみると神奈川県の私立高校ではベスト3に入っているとの事また「浅野工業専門学校」は建築科の学校で(4年生)ここも優秀と聞いております。務めていた会社の時も何人か入社してきて優秀だったと記憶しておりました。

歩き始めて6qにならんとしているのでボツ、ボツ一休みと思っていたのですが、公園も、お寺も、神社も何もありません。するとやっと左に小さな公園がありました。 おじいさん二人がボランティアで公園の掃除をしていて「何か物を食べないでください」と注意をされてしまいましたが それがきっかけで色々聞くことが出来ました。「私もボランティアで何ヶ所か公園掃除をしており、皆さんの気持ちはよくわかります。私の顔は捨てる顔をしておりますか?」これが話の始まりで、公園も、お寺も神社もないのは京浜急行の脇の道路の方にある、「生麦事件」の碑など駅の方にあるとの事。昔の東海道と今の国道は違っているとの事、納得、御礼をいって出発いたしました。子安に入って来て先に進みますと今日初めて見る「碑」が立っております。良く見ますと写真の通りです。「トマトケチャップ発祥の地」工場が近くに見えません、メーカーだったのか、はたまた個人の人だったのか?右に曲がりますと20mだけ県道111号線で20m東海道線と京浜鉄道のガードになるのですがそこから先は国道と言う事です。国道1号線は300mほど先にあってそこにぶつかっているわけです。管理行政がうまくいっていない見本ですね。国道が港に近いと所を通っている証拠のようなお店を見ました。ロープ屋さんで船を岸壁などにつないでおくロープです。ものすごい太物までありました。ロープ一本で店を開いているのを初めて見ました。いよいよ横浜東口と入って来ます。先ほどの標識よりもっとわかりにくく成っており複雑極まりない、昔、東口はひっそりとしていたのですが、そごうが出来て、みなとみらいが出来てきたため狭いところを広く使用するところから困難道路が出来たのでしょうか?国道15号線が「坂町差点」右に折れます。おれなくとも真直ぐ行く道路があるわけです。でも右に折れて220300m進むと「青木通」の信号です。この交差点は三等分の三叉路になっていてここで国道1号線とつながる訳です。むかしの第二京浜フランク永井の「夜霧の第二国道」が此処で終わりです。また15線も此処が終点です。此処からは国道1号線となります。200300mほど進むと「栄町交差点」から真っ直ぐ来た道路とつながるわけです。書いてる本人が良く説明できません、読んでいる方々はもっとわからないでしょう。絵にかきませんとだめですね。橋を渡ると百貨店「そごう」です。「そごう」の1階がバスターミナルになっているため歩道が何処かに行ってしまった。仕方がないので通行止めになっているバスターミナル真ん中を横切ってしまいました。歩道橋を向こうにわたって「崎陽軒」の本社ビルの前に出ました。やっとここにきて小さいですが公園がありました。まだ店が開いておりませんでしたがここで食べますと作りたてがありますので美味しいです。崎陽軒は「しゅうまい」「シュウマイ」とは書きません「しうまい」「シウマイ」と書きます。これは「うまい」「ウマイ」を強調するためと以前に工場見学をした際に説明を受けました。左にみなとみらいを見て進みます。又三叉路に来ました。この案内標識もわかりずらい、本当は16号線は左に曲がって行き1号線は右に曲がって行くわけですが標識はどちらも直線案内板です。でも何とか右に曲がってJR根岸線のガードをくぐりました。右手に「戸部警察署」見ながら進んで京浜急行電鉄のガード潜ります。歩行計からして「保土ヶ谷駅」に近づいて来てるはずだ、駅にスムーヅ行けるよう右側に渡り進みます。駅がそこに見へてきました。急に左側にお寺が見えます。初めて見るお寺なので、歩道橋を渡り取りあえ境内に入りました。真言宗高野山「安楽寺」500年ほどになるようですが、これと言った歴史的なものはあまりないようでした。出てきて駅に向かって歩きはじめるとまたお寺ですこれも真言宗高野山「円福寺」歴史的にはこちらは600年ぐらいの様です。どちらもおなじところの出でお隣同士の寺は今までに初めてでした。どちらもこじんまりして綺麗なお寺でした。彼岸の入りですのでどちらも家族連れの参拝者が来ていました。「円福寺」は階段を上がって行きますがこの階段が少々歩きずらい、説明しにくいのですが階段がハスに出来ていて人間もハスに歩かないと上がり降りできない。又この寺には高野山のマスコットの「こうやくん」の大きな人形を置いてありました。寺の先の信号を渡り「保土ヶ谷駅」です。今回はタスキを渡すことが出来ませんでした。駅伝の道を歩いているせいか、今回は東海道らしきものが一つとして見当たりません。歴史的なものが何もなく残念でした。

今回は箱根駅伝に関係ありませんが、時間がありましたので、帰りに鶴見の曹洞宗大本山「総持寺」に寄りました。他の宗派の本山は結構あちこち参拝をしておりますが「総持寺」は初めてになります。理由は実家が曹洞宗になります。「永平寺」は何回も言っておりますが、あそこ修業寺です。参道を上がって行き総門を入り、大きな山門をくぐります。又ここの仁王様も大きいことその先も門をくぐり本堂に寄り参拝し左手に回りそれぞれ参拝をして裏手の門をくぐってい行くと墓地に出ます。やたらに広い墓地です。お寺の墓地でこんなに広い墓地は初めて見ます。参考にと少し中に入って行きますと裕ちゃんの(石原裕次郎)墓と言う案内が出ております。思い出しました。此処が菩提寺でした。フアンでもなく好きでも嫌いで有りませんでしたがお参りしていこうと思いまして、案内の立て札に沿って入って行きます。行けども、行けどもなかなか着きません。ほとんど一番奥にありました。立派なお墓でした。入口の両側に良く見えませんが「裕次郎」と彫り刻んであります。此のお寺は皇室も来ているようで大きな門がもう一つ有り、菊のご紋章がついておりました。境内の中は飾り気がなくあっさりしていて気持ちがよろしいです。周りには総持寺関係の鶴見大学、短大、高校などがあります。そういえば「駒澤大学」もそうだと思います。JR鶴見駅に近く一度ご参拝をおすすめいたします。

今回は8月の初めに、ゴルフ場で土手の下にボールが行ってしまい打ち上げて土手を上がってくるとき45度もあるかと思う土手を駆け上がる勢いで上がってきまいたら、股関節の筋を痛めてしまって、一か月ほどあまりウォーキングが出来ておりませんでした。歩きに不安がありまして花の二区でしたが、半分を慣らしに歩いてみました。大丈夫でした。でも今後、電車の関係にて中継点でその日を終わることができません。ご諒承ください。

第一回

平成2766日(土曜日)天候 曇り時々晴れ  気温 23

読売新聞本社〜鶴見第T中継所   認定距離 21,3q (実質24q)


   読売新聞本社 

     読売新聞本社 

   山門及び東京タワー

   反対看板は無駄でしょう! 

     泉岳寺山門

    2階建ての品川駅舎 

 岩場の上の吹流しが良く見えない

      磔台と火焙台 

   鈴森山 大径寺

  鈴森山 大径寺

  六郷橋より川崎ビル街

     鶴見第一中継所 

5月に1回は行っておきたかったのですが、旅行等予定も結構あったこともありましたが思いがけなく高温続きにて予定が取れませんでしたが、天気予報ですと午前は雨とのこと、朝、目を覚ますと止んでおりましたし気温も23度とのことで急遽、出発と言う事で大手町の読売新聞の正面に立ちました。 

読売新聞本社前の国道一号線を930(箱根駅伝より1時間遅い)スターいたしました。休日の大手町は静かです。直ぐに進んで大手町の信号を渡って左に曲がります。左にビル街を見、右に外堀を見て進みます。土曜日でトイレは各ビルは休みで入れません。和田倉橋の交番でトイレを聞きますと、公園の中にあると教えて頂き、「和田倉橋」を渡り公園に入りました。出口は「馬場先門」の信号に出ました正面に東京駅の正面玄関が見ます。いろいろの観光バスが東京駅から出てきますし皇居にも向かって行きます。又外堀を歩きますと、明治安田生命ビル(明治生命本社ビル)と帝国劇場を見て、その隣が「第一生命」ビル、この建物は昭和13年に建てられたもので戦災に合わずに戦後は一時「連合軍最高司令部(GHQ)」の本部として使われたものです。写真で見るように前面の古い建物の一部を祈念物として残し、後ろに同じ色の高層ビル(本社)を建てたのです。古い建物の入り口の会社の表示銘板は右からになっておりました。もうそこの信号が日比谷の信号になり、国道1号線は右に折れて桜田門の信号左に曲がって横浜方面に向かいます。日比谷の信号を左に曲がりますと銀座4丁目に行きます。歩記者は真っ直ぐに信号を渡りました。此処から道路は都道409です。渡った右側日比谷公園で一角をなして、大きいので公園が「千代田区日比谷公園」と言う一つの町名になっておりました。公園を過ぎた左側は帝国ホテルになりますが昔の玄関が素晴らしかったので何か物足りません。昔の玄関だけが愛知県の犬山市の「明治村」に保存をされていて2回ほど見に行っております。そこは内幸町の信号になりますが、信号を渡った右側に昔は「NHK」があった記憶です。その隣が三井物産の高層ビルになりますが裏には旧三井ビルが残してありました。もうそこからは港区に入って来ます。西新橋の信号を過ぎ少し進みますと大きな信号に出ました。東西に大きな道路が出来ております。右を見ますと今度できた虎の門「高層森ビル」に抜けて行っております。左に行きますと「晴海埠頭」方面に抜けていると思いますが、昔はなかったのでびっくりでした。各建物を動かし、取り壊しをしてこれだけ大きな道路の設置には大変だったのではないでしょうか。歩道も素晴らしい報道になっておりました。「御成門」の信号を渡りますと右側が芝公園です。此処は公園の中に、誰でも知っているとおみます「増上寺」「東京タワー」とプリンスホテルがあります。山門に来ましたので写真を一枚「増上寺」は山門の陰で見えませんが向こうに東京タワーが見えます。東京タワーは333mですが高さを決める時昭和333月の予定で始まったので、その高さになった?世間の話で聞いたことがあります。33年完成したが3月ではなかったようです。「スカイツリー」も武蔵の国ゴロ合はせで634(むさし)に決めたと聞きましたが、タワーのような物体は覚えやすくするために高さを決めることがあるのだと聞いております。又写真を撮った背面に「大門」があります。テレビで放送しておりましたが此の門の年数がたつので損傷が激しくなったため商店街で「増上寺」に修理を申し入れたところ、大正時代だかに現在の「港区」に贈呈してあった。港区も調べたら古い書類に記載されていて、修理も千万円単位で必要になり今更と言う事で区役所も困っている。との放送でした。大事な建造物なのできちんとして残しておきたものです。歩いてたので気が付いたのですが、この芝公園の道路の反対側にも一部公園があって、ここには樟の大木が何本ありました。公園のはずれには、増上寺と並んで「東京東照宮」の神社があります。さすが家康の菩提寺ですね神社もありました。増上寺は家康の墓はありませんが徳川家将軍の何人の墓所があるとの事です。公園を過ぎると「芝園橋」久しぶりに通りますのですが、この橋は「赤羽橋」と記憶していたつもりだったので名前が変わったのではないかと錯覚いたしました。赤羽橋(国道1号線)で一つ上の橋でした。大きなNEC(日本電気)の本社の前を通り越すと国道15線にぶつかります。この国道は日本橋を出て京橋、銀座、新橋を通り抜けてここにきております。要するに第一京浜道路で昔は国道T号線であったと思います。右に曲がって品川方面に向かいます。左に三菱自動車本社・森永本社があり、山手線の「田町駅」です。信号を過ぎたところに大きな住友不動産所有の大きなビルがあって、その隣が2,000坪以上はあるでしょう。空き地で、以前になにがここにあったのでしょうか?一部レンタカー会社の自動車置き場に使われていましたが。少し歩きますと「泉岳寺」です。少し入り込んでおりますが立ち寄って行きたいと思い入って行きました。写真の右が山門で左が山門の手前のもう一つの門ですが、テレビでもすったもんだやっておりましたが、門の隣に8階建てマンションが工事中です。反対の看板を出しても工事は進んでいるのに・・余計に汚く感じます。行政も違反建築でもないので直ぐに許可を出してしまう訳です。文化的なものは行政ももっと考えほしいものです。ちなみに建設会社は「ナカノフドー建設(中野組・不動建設の合併)」でした。浅野長矩(内匠頭)と赤穂士四十七(実際には四十八士)の墓があります。線香が絶えませんが、時代の違いですが、私の考えは、吉良上野は歩記者と同じ皮肉を言うことが好きであった。浅野長矩は肝っ玉が小さくて皮肉をまともに考えた。喧嘩は両成敗では駄目でしょうか?何年か前に赤穂市と吉良町(今は西尾市仲直りをしたなんてテレビでやっていましたね。相変わらず団体客が入っておりました。外人も興味を持って見ておりました。泉岳寺より下りてきて国道に戻ります。歩きはじめますと国道の向こうで工事を行っておりますが今度「田町駅」「品川駅」間に山手線の新駅ができます。多分その工事だと思います。西日暮里の駅が出来て40年以上ぶりでしょう。駅の名前は決まっていましたでしょうか?しばらく歩きますと右側にホテル街となって来ました。その左が「JR品川駅」です。中が広く大きいのですが、駅舎の小さなこと、駅の向こうは大きな会社のビル群です。今はこの駅より各新幹線が結構発着をしております。駅の正面を通り山手線の線路の脇を平行に歩きます。線路の下は沢山の食べ物屋さん、ここで昼食を澄ましてしまおうかな思いましたが、まだちょっと早いし歩くキロ数が少ないので、午後のためを思って進みました。山手線などの陸橋にさしかかって来ました。三叉路で右に行くと五反田方面、昔は第一京浜で国道1号線だと思いました?そうすると昔「フランク永井歌で「夜霧の第2国道(第二京浜)」ありましたが今はどこへ行ってしまったのかな?話はそれてしまいましたが、左に曲がり陸橋を渡って進みます。この道路は昔「産業道路」と言ったと思いましたが?これも記憶がさやかではありません。陸橋を越えますと途端に大きな建物がなくなりました。今度は京浜急行の線路と共に歩きます。新馬場駅の近くに来ますと土曜日でにぎやかにお祭りをやっておりました。駅に通じる商店街が素晴らしい商店街です。品川区には有名な「戸越銀座商店街」などがありますが、下町に来ますと今でもあちこち素晴らしい商店街がいまだに残っております。結構どこも賑やかです良いことです。                        進んで行きますと、御寺街と言うのか、結構なお寺が道路の右に2軒左に二軒あります。檀家はどうなっていることでしょう。下町と言いながらさすがは東京です。駅の近くに来るとマンションが必ず何軒か建っております。このあたりまで来ますとあちらこちらの電柱に海抜を記入にてありました。津波の為だと思いますが2〜3メートの記入です。土を掘ったら水が直ぐに出てくるのではないでしょうか?青物横丁駅をとうり過ぎました。此処もよい商店街があります。京浜急行のガードくぐります。今度は線路が右側に行きました。鮫洲駅前を通り越してから、小さな公園があって公園の脇が20区画くらいの貸農園で、その奥がマンションです。何軒か農園におりましたが、街中にこのような風景はほっとさせます。立会川駅を過ぎると又ガードを潜りました。大森まで行って昼食と思って信号を渡ったところに小さなうなぎ屋さんがありました。地元のお店で相当前からお店をやっている感じ、品物に間違いはないだろうと入りました。やはりお役さんは地元の方たちの様です。口に入れると溶けしまうほど柔らかくて美味しかった。夫婦2人たりだけのお店でしたが女将さんが少しうなぎを食べ過ぎている感じでした。表に出て歩き始めると、左側に色々と碑が立っております。中に入いって行ってみますとなんと有名な「鈴ヶ森刑場跡」です写真の左側に角型の穴の開いた角型の石の台が見えます。立て札にこう記してあります (はりつけ)台

「丸橋忠弥罪人がこのされた真中角材てられその上部けて刺殺したのである

 写真の右側は丸い石に丸い穴の開いた石の台です。この立て札にはこう記してありました。   火炙台 「八百屋をはじめ火炙処刑者この石上きたまゝされた真中鉄柱足下をつみりつけて処刑されたのである その他にいろいろの碑が立っておりました。又右の写真は近代的な小さなお寺です。もともと受刑者だけのためにあった寺で檀家がないので維持できず一度は潰れてしまったが、あるお寺の住職が新しく建てたものでした。名前は「鈴ヶ森山 大径寺」です。道路に戻りました。日差しが強くて暑いので道路を右側に渡り、JR大森駅の入り口を過ぎていきますと小さな「大森神社」がありましたので入りますとものすごい大きな三階建の社務所、神社は小さいがお祭りは大きなお祭りになるのでしょう。この神社には関東ではあまり見かけない「お百度参り」の碑?がありました。直ぐ右手に神社ですので百回歩くのが楽でしょう。大森から蒲田にかけて道路拡張工事を行っていますが、建物はマンションが8割と言ったところです。「京急蒲田駅」前に来ました。羽田に行く鉄道が複線になって高架になってその先の環状8号線の道路工事も絡んで街の様子がらっと変わってしまいました。JRの大森駅入り口のあたりからでしたが、ゼッケンをつけて走っている人達がすれ違うようになりだんだん増えてきます。よく見ると箱根湯元から浦安まで走っているようです。信号で止まる人がいましたので訊いてみました。浦安市の走る会の人達で、箱根湯元からの人・茅ヶ崎からの人・横浜から人、それぞれ自分の力にあったところを走っていているとの事、それぞれゼッケンの色で区別をしてありましたし、どこからどこまでとゼッケンに書いてありました。ただ歩くなんてたいしたことではないなぁと思った次第です。何十人かすれ違っているうちに多摩川に近くなってきます。此処でもにぎやかに御神輿も出てお祭りをやっております。祭りを過ぎたと所にこのあたりでは見かけない大きな建物、いろいろの医療関係の会社病院などが入っているようです。「六郷橋」を渡り始めますと右前方に川崎市のビル街が見えます。渡り切ったところの左の少し下がったところに小ちゃな公園があり一休み。此処に碑があって明治元年9月20日「明治天皇」が京都から江戸に「御幸行」の際ここを渡った。但しまだ橋がなかったので船を30隻多摩川に並べてその上に板を引いて歩いて渡った。と言う内容の碑が立ておりました。此処より川崎市です。坂道を降りると左に大きな神社があるので何かあるのではないかと立ち寄りました。「稲毛神社」です。此処の狛犬さんちょっと見たことのない狛犬さんです。記念物となっている千年以上経っている大銀杏があり「安藤広重」の画にこの銀杏が描かれた画があると立て札が建っていました。又正岡子規が此処で詠んだ句「六郷の 橋まで来たり 春の風」も立っておりました。国道に戻ります。道路がこのあたりから広く車は三車線ですが歩道と自転車区別されていてこれも車道と同じくらい広い、外国に行った感じです。気持ちが大きくなります。しばらくこの道を歩くことが出来ました。神社から15分ほど歩いたでしょうか、前方に中継所らしき欅の並木が見えてきます。歩道橋を過ぎたところに第一回の中継所の碑が立っておりました。写真に納めて歩道橋を渡って京急の「鶴見市場駅」と家路につきました。今度の箱根駅伝の「歩記」は中継所で交通の便の悪そうなところが何か所かありそうです。中継所に行かずに終わったり、途中で中継所になったりするかもしれません。あしからずお付き合いくださいませ。

 

               (第一回完)


「歩記」パート2  国道20号線及び旧甲州日本橋〜日野宿
                                                                           歩記者   林 厚男 

20号線完歩編(田舎への歩記で岡谷市長地〜天竜川に沿って、伊那谷方面に下ったため、20号未踏破分、補完です)

平成27426日 木曜日 天候晴  温度18

岡谷市長地〜塩尻(20号線終点)         14・5Km


  真っ黒な墓の集まり

  今井家小休本陣

「左しおじり峠」右しもすわ」

  焼肉屋えんむすび

  明治天皇野立跡碑 

  塩尻峠の頂上の歩道橋

    東山橋

  高ボッチ案内板

「小佐田公園道の駅」

 「世界文化友好協会」

  ピンクの枝垂れ桜

  赤澤一族の一軒

  20号線の終点看板


今回、甲州街道は下諏訪で終点になり、
20号線を目的なので中山道についての記事は少ないです。又、20号線と中山道は併合していないところがほとんどの様です。高速バスにて岡谷の長地に降りる。降りた目の前に「長地村役場跡」の碑がある。岡谷市と合併前は長地村だったんだ。今はJAの建物が立っていた。準備体操を少しして長地の信号を右に渡る。歩き始めると「京セラ(株)長野岡谷工場」となっている。以前此処は「八洲精機?」「カメラヤシカ」の工場だった。京セラに吸収合併?だったと思いますが・・・一時カメラを作っていたと思いますが今は何を作っているのでしょうか?少し歩きますと横河川に来ました。昨日の雨のせいか水量が多いようです。この川は高ボッチ・鉢伏山からの水でしょう?両岸の桜を期待してきましたが川下に満開の桜が見えましたがその場と川上には桜はありません。赤羽3丁目の信号を過ぎ今井の信号に来ました。昔は岡谷発上諏訪行のバスが今井回りか長地周りかで結構走っておりましたが今はどうでしょうか。今井の信号を渡り前に進むと左に真っ黒の御影石ばかりの墓場が左にあります。よく見るとほとんどが「今井家」の物です。異様に感じました。左を見ると門構えのすごい家が見えてきましたので入って行きました。ここは中山道になります。此処も今井家です。周りも今井家の素晴らし家が何軒か見えます。(国の登録有形文化財)門のところに碑が立っており、明治13624「明治天皇今井家御小休所」と記されております。甲州街道の「歩記」にある明治天皇が移動した碑が此処にも記されてたのです。脇に説明がありまして、山梨・三重・京都方面に御巡幸の時、これでやっとどこまで行ったのかがわかりました。 立て札の文を少し引用しますと「旧今井村は、中山道塩尻峠の東の登り口にあって。古来交通上の要衝でここに御休憩本陣が設けられ幕府の要人、尾張徳川家をはじめ、参勤交代の諸大名の人馬も激しく、多くはこの家に御小休になった」旧今井村となっておりますが人の苗字と同じ名前の町とか市とかが残っているところがありますね。東京の「羽村市」もそうです。昔からの大地主が何軒か羽村と言う苗字です。旧中山道を少し歩くと20号線に出る前に「中山道」の碑が立っていて、「左しほじり峠」「右しもすは」と刻んでありました。もう目の前が中央高速(長野道)の「岡谷インターチェンジ」です。インターチェンジの下を過ぎるといよいよ塩嶺峠の坂道に入りました。この峠の岡谷側はものすごいヘヤーピンカーブですがあまり急坂ではありません。しばらく進みますと「岡谷塩嶺病院」の前に来ました。この病院は戦後結核療養所と聞いておりました。歌手で作曲家の「平尾 昌晃」も結核で療養していたと昔の記憶です。今は外来なしで「市立岡谷病院」のリハビリ‐関係専門と聞きました。岡谷病院も大きな改築工事を行っておりましたが、ここも大きな増築工事を行っていました。大きなヘヤーピンカーブを2つ3つ?曲がったでしょうか峠を越して昼食と思いましたが体力つけるにはここだと12時を少し過ぎておりましたので入りましてた。焼肉屋さんにしては珍しい名前です。ジンギスカンにしましたが、ジンギスカン用の鍋が今までとまるっきり違いました。鍋そのものは平たく鍋の真ん中に丸い鍋がもう1つセットされていてここに塩水が入っていて野菜は全てその鍋で茹でて食べるのです。使い方が分からず聞いてしまいました。野菜に塩味がついておいしくいただけました。店を出てカーブを曲がった所が塩嶺峠の頂上です。諏訪湖が見え岡谷・下諏訪・上諏訪の町が見えてその向こうに八ヶ岳が見えるのですが温度が高いので春霞で写真を見せることができません。写真の右に見えるのが明治天皇の「野立ち」の跡地です。「八ヶ岳国定公園塩嶺御野立」とありますが此処が国定公園ではなく 八ヶ岳国定公園を見たところとの事であります。国道に戻りますと丁度頂上です。岡谷側からは丁度4qの坂道でした。道端あるいは山の中の桜を予定してきましたが一本として桜も山桜もありませんでした。少々疲れが多かったことでしょう。又しっかりした歩道が少なかった。この歩道橋は丁度頂上になるわけですがこちらの歩道から向こうの歩道にわたるだけのものです。向こうは塩尻市になり標高1,012mの表示になっていました。此処から全て下りで8キロ強あります。下りで足を痛める確率が高いので心して出発です。塩尻側は歩道が広く多少右に行ったり左に行ったりですがとても歩きやすい。北アルプスを遠方に眺めながら歩いて行くと橋が見へ来るのですが「東山橋」と橋の向こうとこちらに国交省の案内標識が立っているので特別の橋だと思いますが、橋の下に行けるので行って見ましたが解りません何か構造的なものなのか橋の下に川が流れていない橋なのか?解決のないままその場を離れました。このあたりから旧中山道と20号線が平行に進んだり交差したり何回も繰り返します。旧中山道の宿場ツアーもあるようですし旧中山道の道案内がいたるところに立っておりました。少し進みますと「高ボッチ・鉢伏山」に案内板及び道路標識があります。車で上がれて5月になるとレンゲツツジで山が燃えてきます。少し下りますと「いの字山の由来」案内板がありましたが、よくわかりませんが江戸時代には有名な山だった。名勝「いの字山」の名は後世にも引き継がれ、山裾のいの字原は吉川英治の「宮本武蔵」や中里介山の「大菩薩峠」に、宮本武蔵と棒術名人夢想権之助・机竜之介と若侍数人の決闘の場所として登場する。との事のこと、勉強不足でよくわかりません。このあたりまで下りてきますと桜の花が少し開いてきております。諏訪地域は満開でしたのですが、海抜は変わらないと思いますが大分遅いようです。こぶしの花が満開でした。カーブをまがった右側の上の方に大きな建物が2つあり私から見るとどうしても宗教に関係しているとしか思えません。少し進んだところに両側に獅子が立っていて参道?の様で桜が2部咲、も少しすると綺麗な桜並木になるでしょう。「世界文化友好協会」となっております。パソコンで調べるとNOPの団体となっておりますが地元の一人に聞きましたらなんだかわからないが宗教だといっておりました。

「小佐田公園道の駅」2キロ先と案内標識、時間も一時間以上経つのと先の予定が見えてきましたのでゆっくり休んでいくつもりで進みます。道の駅の出前に枝垂れ桜がきれいでしたので写真に収めてみました。丁度満開です。道の駅に到着しますと大きな公園と一緒です。道路の向こう側に行くのには一回左下の公園に降りて道路をくぐって行く仕組みになっております。(上り方面は関係ありませんが)行きましたがお店等は一番奥です。行って帰ってくだけで疲れてしまいそうです。トイレが手前の方にありましたのでそれだけすませて近くで少し休憩して出発です。お蔭様で下りの負担が足に来ず快適に進んでおります。高速道路の「塩尻インター」を過ぎ前方に終点らしき景色が見えてきました。国道の日本橋からの距離の標識は221qとなっております。そこを過ぎるとやっと平地となりました。道路の左に写真のような家が2〜3軒見えます。広い国道を走って渡り写真に収めました。皆「赤澤家」でした。一族なのでしょ「赤澤家」一族のお墓も近くにありました。小さな橋を渡って終点の道案内標識があります。国道19号線が右からきて直角に折れて木曾・名古屋方面です。名古屋まで181qの表示です。左からは国道153号線の終点です。写真にもありますように20号線の標識の下に終点と標識版セットしてあります。余談です。「千国街道(国道19号線)」「三州街道(国道153号線)」私の知ってる範囲を記したいと思います。千国街道は松本・大町(中信・南信)を経て新潟の糸魚川を通じて富山方面からの塩道だった。三州街道は三河からの塩の道で南信を通りこの塩尻で繋がっていた。又長野市・上田方面(北信・東信)新潟からの塩道だった。そんなことで塩の道によって文化が違っていた。信州・信濃は1231日に「お歳取り」といってお魚を食べる習慣がある。中信・南信は富山湾から鰤が入って来るので鰤を食べた。年に一回の鰤が楽しみだった。その切り目も大きかった。あの切り目を東京で探してもありません。築地に行けばあるかも?しれないが。北信・東信は新潟からは鮭が入ってきて鮭を食した。この文化の違いかどうか松本と長野が仲が悪く信濃と信州が別々の県になるはずであった。議員の一人の寝返りで分県が流れて一県になった。ある常識者が一名の議員を口説いて回避をしたと聞いている。こんなことから「日本銀行」「信州大学」が県庁所在地になく松本にあるのは長野県だけでしょう。そんなことで県民の歌「信濃の国」できたのかもしれません。話はそれてしまいましたが、国道20号線の「歩記」はこれにて完了です。

                  (完了)           

第四回

平成27313日( 曜日) 天気晴れ     気温15

府中宿(番場宿)〜日野宿〜八王子高倉町 道路標示距離12q (実質16q)


 老木の神木欅

  府中高札場

  凄い門構えの民家

綺麗な石積みの古墳(熊野神社)

   谷保天満具

  「一妙寺」

旧甲州街道を示した標識

  日野宿本陣 

  幸寿宝泉寺本堂

井上源三郎の墓の裏側

  民家の門


府中駅で降りてケヤキ並木に出ました。
「大國魂神社」の鳥居と神木のケヤキです。老木になってしまい風前の灯火状態です。旧甲州街道が左から右に行っているわけですが、正面に向かって「天然記念物大國魂神社欅並木」となっております。Tキロ以上続いており昔はその先に一の鳥居があったとのことです。そのケヤキ並木は「源頼義・源義家」親子が勝利の願掛けで作った並木だったが、現在の並木は「徳川家康」が植えた並木との事。それでも年代が立っているため半分は植え替えてあります。この神社は「大国魂大神」と言う国神で「出雲大社」と同神だそうです。道理で御紋は菊のご紋章です。1900年の歴史があり武蔵の国を守る要だったのです。5月の連休には有名な暗闇祭りがあります。又この神社に関連する神社が6社?あり大太鼓が町を練り歩きます。大太鼓は見に行きましたが暗闇祭りは行っていません。徳川家康の作った相撲土俵もありそのころは奉納相撲を行っていたとの事。長くなりましたが地方の方はあまり知られていませんが、大変な神社ですので長くなりました。長い参道を歩いて今日の安全と今後の安全と、良縁をお願いして(ここは縁結びの神様)街道に戻り歩き始めました。直ぐに碑がありましたが神戸(ごうど)という部落にて中宿場の始まりと記してあります。 直ぐに来るのが大きな交差点です。今では「川崎街道」と「旧甲州街道」の交差点ですが、江戸時代は「甲州街道」「川越街道」「相州街道」が交差していて宿場の中心を占めていた。写真の建物は東京指定旧跡「府中高札(こうさつ)場」これは江戸時代に、「禁制」「法令」等を伝えるために掲げた板札でこれを「高札」と言った。街道がいくつも交差していたので皆に知らせるために作ったものだそうです。屋根付きの「高札場」ですから結構なものだった。ここの交差点にはもう一つ古い老舗があります。「中久本店」と言う古い建物と裏の酒蔵の建物がありますが「国府鶴」の造り酒屋で「大國魂神社」関係していて大変な名主であったようです。今は全国の銘酒を販売したり「蔵」と言う食べ物と喫茶などをやっておりました。「国府鶴」はここでは作っている様子がないので他社に製造を依頼して販売だけをしているのではないかと思いました。少し進んだところにこの宿場の由来などの碑がありました。そもそも府中宿は三つの宿場が繋がっていた大きな宿場だった。街道が重なっていたのでにぎやかであったのでしょう。一番西側が「番場宿」で元の名前は「茂右衛門宿」だった。そんな碑を見ながら進むと「高安寺」と言うお寺がありましたので入って行きました。平安時代からのお寺で藤原・源・新田などがかかわっていたようです。そんことから途中権力争いになど巻き込まれ足りして「臨済宗」から「曹洞宗」に変わったり、火災にあったりで、本堂はたいしたことはないのですが山門が立派です。この山門の上は鐘楼になっております。そんなお寺であったので敷地がものすごく広く幼稚園もありました。京王線の「分倍河原駅」のホームを左に見て踏切を渡ります。道路の両側に写真のような立派な門構えの民家が3軒ほど見受けられました。一軒は木造の門が朽ち果てのではないかと思いますが石の門に変わっておりました。少し中に入って行くと大きな釜が置いてありましたので、使用人等が大勢いたのでしょう。56分も歩いたでしょうか?20号線と交わりました。調布の芝崎にて旧道に入った以来となります。大きな交差点になりました。ここは20号線と新府中街道の交差点ですがやはり昔は渋滞の交差点でした。信号を渡った所に古い常夜灯があって説明碑がありました。この辺は昔「本宿村」だった。多摩川より高台になるため水がなく火災が起きるとどうにもならなかったとのことで、夜道の明かりと共に願掛けとして用いられたとのことで、立川にかけて34か所残っておりました。道路の向こうに小さなお宮ですが大きな案内が立っております。「国史跡武蔵府中熊野神社古墳」としてあります。府中市で改めて最近再現をしたものです。神社に古墳なんて珍しい、綺麗に石を積んであり見事なものでした。手前に事務所を兼ねた博物館がありその中に古墳の中のレプリカがあり、体験できるようになっておりました。入って出て来るとヘルメットを用意してあるので・・・と言われましたが入った後でした。皆さん見学に行かれたら事務所に行ってヘルメットを借りてからにしてください天井が低いです。神社は平安時代と言うことで歴史は大変古いものなのでしょう。南武線の上を渡り国立市に入って来ました。直ぐの信号が新しくできた20号線パイパスです。今までの20線はここから八王子高倉まで都道になってしまいました。この20線は「都八(とうはち)道路」の予定でしたが国分寺からの「都八道路」の延長が不可能になったための道路です。道路の右側を進んでいたのでわかったのですが広い敷地の民家があります。中を見ますと大きな茅葺屋根です。実際には防火上トタン板で囲って有りますがこんなところにもまだ残っていたのだなと感心いたしました。住まいは隣の建物で、茅葺屋根には住んでおりませんでしたが・・・その隣の家がやはり大きな平屋建ての家ですが入口に小さな看板が手書きで「カフェ」出ていたので入って行って見ると民家そのままの家で、昼時だけ食事ができるようになっていました。中を見る普通の部屋にテーブルが3〜4個置いてあります。暇でしょうがないので食堂でもやってみるか?といった感じです。道路の向こう側に碑が見えましたので、反対側にに渡りました。「関谷かなどこ跡」と言う碑です。ここは「鋳物ご三家」(矢沢・森窪・関)の1家で像・釣鐘などを鋳造していた。朝、立寄りました「高安寺」の釣鐘、その後通り過ぎた「南養寺」の釣鐘は「関家」で作られたものと釣鐘に印てあるとの事。遺品が残されていると記してあったのでそこの大きな建物の中にあるのではと思い玄関の方に回って行きましたらJAが管理している大きな斎場でした。きっと中に展示しあるのではと思いましたが本日は休みでした。34分で「保谷天満宮」につきました。東日本における天満宮としては一番古く「湯島天神」「亀戸天神」と並び関東三大天神になります。この神社で珍しいものは。普通神社は階段を上がって行くのですが此処は階段を降りて行きます。それはどう言うことかと言うと、徳川家康が甲州街道を開く前府中の大國魂神社の方から古い街道が2〜300m南を通っていてそちらが参道だったことの様です。又ここは上がるぐに甲州街道になり、全て民家で山らしいものは何もありませんが湧き水が結構沢山出ております。何処からしみ出て来るのでしょうか?又35060本と言われている梅林が満開でした。少し歩きますと「南養寺」「青柳稲荷神社」と続けて参道がきますが、先ほど述べましたが古い街道の方に前の参道があったため甲州街道からの参道が非常に長いので、入って行くのを諦めました。南養寺」は本堂・「青柳稲荷神社」共国立市の指定文化財になっているようです。少し歩いたところに小さなお寺と書いてありましたが小さいばかりではありませんこれがお寺に見えますか。間口は5メートルあるでしょうか、外壁はALC板でしょうか?とにかくお寺です。立川に入って来ました。前から車で通るとき大変気になっておりましたが「至誠学園」検索してみましたら「社会福祉法人 至誠学園学舎立川」福祉専門の法人でした。戦前から続いていて相当手広くあちこちに保育園・老人ホームなどあるようです。立川だけでも広い敷地です。今の敷地の隣に大きな工場の跡地がありますが其処も施設が建設する表示がしてありました。知りたい方はパソコンでどうぞ。其処を過ぎると、以前は毎日の道路情報で放送していたくらい混雑で有名な日野橋5差路の交差点です。此処の一角の敷地内に食べ物屋さんが何軒もあるので少し早いが昼食を済ませました。旧甲州街道も日野橋を渡っていたと思っておりましたが、斜めに入って行っている奥多摩街道が一部の間併行していました。甲州街道はこちらに行くんですよと標識が出ておりました。曲がって下ると立川市立の「柴崎体育館」です。ここは公園になっていて桜の名所でもあります。抜けると新奥多摩街道に出ます。右に曲がって3400mで信号を左に曲がります。上をモノレールが走っていて多摩川にかかっている橋がまだ新しい橋で「立日(たっぴ)橋」です。旧甲州街道はこちらに昔は渡しがあったようです。渡り終えると日野市に入って来ます。右に体育中央公園を見て来た信号が日野橋を渡ってくる旧20号線の信号です。右に旧20号線を歩きます。左に信号を曲がると川崎街道になります。「高幡不動」の前を通り川崎と抜けていきます。直ぐの小さな路地が旧川崎街道になるのですが過ぎたところが「日野宿本陣」です。江戸時代は都内五街道に10の本陣があって現在は唯一残っている本陣です。日野本郷名手の「佐藤彦五郎」が本陣兼自宅として使用した。この人は剣の達人で、道場を開いて、近藤勇・沖田総司・土方歳三・井上源三郎など新撰組に所属した人も沢山弟子としていた。前は無料で入れたり、蕎麦も食べれた。文化財指定なってからか?蕎麦は市役所の近くに「日野宿本陣」と店を出している。明治天皇の遊説の際の休憩した碑が此処にも立っていた。甲州街道の本陣もここと相模湖の 「小原宿」だけだ。それを過ぎたところが「八坂神社」だです。大きなお宮ではありませんがこの周りの要になっていたと思います。神主さんは女性で祝詞をあげる時は頭のてっぺんから声がしてきます。9月にお祭りがあって御神輿が盛んですが、もう1つ面白いことをやります。昔、通りすぎにチラッと見ただけでしたので詳しいことを聞きたくて社務所に行くと留守でした。通りに出てタバコ屋のおじさんに10分ほど話を聞くことが出来ました。それは皆が青竹を持って甲州街道の両方から道路の真ん中を叩い進んでいきます。おじさんの話ですとこれは神輿の通り道を清める儀式で、お宮に入って神輿に引き継ぎ、それから神輿が神社から通りに出てゆくとの事でした。御礼を言って20号線を左に曲がって旧甲州街道を歩くと直ぐに中央線の踏切で前は渡って行けたのですが今は通れません。引き返してくると右に「宝泉寺」と言うお寺があります。このお寺は新撰組の「井上源三郎」の菩提寺です。写真の墓は裏側ですが「新撰組六番隊長」と見えます。この墓は新しく建て替えたものです。このお寺は平成13年に長野県下伊那郡町川町の「生田木材技研(株)」5年かけて建てたものです。社長の名前と専務の名前が立札に記載してありました。お寺を出て中央線のガードを潜り旧甲州街道を大坂上へと上がりました。少し歩きますと又旧甲州街道に合流です。合流すると同時に右側は日野自動車の本社工場です。日野自動車も本社もろとも羽村工場に移転の話も出ました。税収も減りますので行かないでほしい、とだれでも日野市民なら思っているでしょう。工場の敷地が過ぎると左に「コニカミノルタ」日野工場であり事業所になっていると思います?昔は「小西六写真工業(株)」と言っておりました。富士フイルムは緑が良く出て、小西六(桜フイルム)は赤が良く出る(プロ向き)と記憶しております。直ぐ近くの八王子の地域にも工場があります。南側は桜の時期になるとライトアップなどでとてもきれいだったのですが20号線パイパスの工事で一部切られてしまい残念です。「小西六写真工業」はもともと薬屋さんだったと前に聞いたことがありましたが本当うだろうか?綿屋さんが鉄屋さんをやっているから不思議はありませんが。工場の敷地を過ぎると即八王子市となります。写真の門構えの家も民家で何軒か街道の北側だけにありました。高倉の信号です。ここで20号線パイパスと旧甲州街道が合流します。田舎に歩いた時パイパス歩いたのですが今日の歩きと3キロぐらい並行して歩いたことになります。ここからは『田舎へ歩記』第一回に繋がります。今回はゆっくり歩いていろいろ楽しんで6回ぐらいに歩きたいと思っておりましたが、ねがせっかちなもですから結果は4回でした。都内の時は名物等がなんとかありましたが街道筋には歴史のあるお菓子屋さんがあるかと思いましたがほとんどありませんでした。昼飯を2回食べるわけにもいきませんし。東京近郊に住いの方々はついでの祭立ち寄り頂く参考になればと思います。私も都内・都下に出歩いたときは何かの発見の為にあちこちに立ち寄りたいと思っております。


第三回

平成27224日(火曜日) 天気曇り    気温13

明大前〜府中宿(府中駅)    道路標示距離17q    ( 実質20.5q)


  古い籠屋さん象も竹細工

  長泉寺の赤松の老木

  総ケヤキの山門

  茅葺屋根「馬宿川口屋」

  金龍寺の山門

  写真より重量感のある門

   そうじ小僧

  近藤 勇の銅像

  細長い「常久神社」

   武蔵国府八幡宮


京王線明大前駅で降りて甲州街道に出る。今日は道中あまりポイントがないと思うから府中までと予定を立てて出発です。旧甲州街道と国道
20号線と新宿から併走が続いております。頭の上も首都高速が併走です。明治大学を右に見て進みます。少し進みますと向こう側に桜並木があるので「玉川上水」あるのだなと渡って見ますと、埋め立てて公園になっておりました。笹塚の方の1部は埋め立てずにそのまま残っていたのに?ここからは相当先まで信号がなさそうですのでそのまま進みます。20号線の拡張工事の際古い町並みは全て跡かたがなくなっていると思い進んでいると古い竹細工の籠屋さんがありました。写真だとよく見えませんが「象」は竹で編んでありました。店前には「ビク」「籠」など陳列されています。甲州道は(20号線)はケヤキ並木が調布インターまで続いて行っているわけですが、多摩地域のケヤキ並木のことを少し述べます。特に「旧青梅街道」に行きますと、ケヤキの大木が各家の庭に相当残っております。なんで欅なのか?夏は葉っぱが生い茂り素晴らしい日陰になります。秋になると散り落て集めると堆肥になり、枝がみな細いために冬になると日差しの邪魔になりません。昔の人はちゃんと考えて植樹もやっていたと言うことです。「下高井戸駅」「桜上水駅」入口の信号を通りすぎると変則三叉路の大きな信号に出ます。手前の信号が「鎌倉街道(中道)」の信号になり、先の信号が荻窪方面に行く信号になり、首都高速も荻窪方面の道路と共に20線と別れます。首都高速が離れていきましたので国道もそれなりに狭く感じます。環八道路との立体交差点を渡りまして直ぐに行く国道20号線と別れて旧甲州街道は斜め左に入って行きます。芦花公園駅の信号です。駅の先には「芦花公園(徳冨芦花)」今日は先が長いので立ち寄りません。このあたりが「高井戸宿」であったのでしょうが、その時代からあったんでしょう古い注文家具屋があっただけで面影はありませんでした。期待をしておりましたが。旧道に入って思ったより道が広く車があまり通りません。何十年も前に帰った気持ちになり気持ちがゆったりし歩くペースもゆったりになります。また町を歩いている人も何かのんびりしているようです。但しこんな人も余り通らない、車も通らない町の商店がシャッター商店街になっていないのがちょっと不思議な感じが致しました。高級なステーキ屋さん高級な京都料理の割烹屋さん、高級な洋食屋さんこれも!でした。そんな街中に小さなお寺があり入って見ますと面白い老木の赤松がありましたので写真を収めて見ました。烏山に入ってきておりますが信号に「烏山下宿」とありましたのでこのあたりまで宿場が続いていたのでしょう。1里塚もありました。烏山駅前の信号を過ぎていきますと今日初めての坂道となり下り着ると「仙川」の橋を渡ります。この川は三鷹の方から流れてきていると思います。今度は坂道を登り切りますと、又20