平成11年度
県外視察報告です。   
12.2.2
                                  
  初等教育研究会(会場:筑波大学附属小学校 )に参加して

1.期日
      平成12年2月17日(木)・18日(金)・19日(土)

2.場所  筑波大学附属小学校

(〒112−0012 東京都文京区大塚3−29−1 )
( 03−3946−1391)

3.日程
(略)

4.感想(学んだこと)
(1)はじめに
参観者は、一授業、500人とは大げさであろうか。1日目は3つの授業を参観したが、正直な話を言えば3つの授業しかみられなかったのである。唯一、前の方で子供の顔が見られたのは、明治図書でもよく名前が載っていらっしゃる石黒 久浩先生の5年生の道徳授業であった。なぜその授業が見られたかと言えば、体育館へ1時間前に行って自分の参観場所を確保していたからである。800人ぐらいの参観者。(大げさかもしれないが、言えることは体育館とギャラリー一杯でも入りきらない人が出口にあふれていた)2日目は、同じ目に遭いたくなかったので早々東京を後にした。
これだけの参観者が自主的?に集まってくるのにも驚いたが、このように参観のための席を確保するのに苦労した経験は少ない。参観される先生方の意気込みと、学びのすごさに圧倒された。長野県の先生はいたであろうか。

(2)一人ひとりの先生が研究主題を持って授業をしている

○別紙で指導案も載せたいと思うが、一人ひとりの先生方が授業をするに当たって、 研究主題を持って追究している姿に感動した。

(3)全員の先生が自分の授業を公開している。

○もっともなことであろうが、自分の授業を公開できない先生がまだ多いと聞く。公開できないのはなぜか、もう一度考え直したい。公開できないと言うことは、自分をさらけ出すことすらできないのである。他の先生方から見てもらい、批評を仰ぐことがいやなのであろうか。授業を公開できない先生は自分の独善的な授業に大いにメスを入れるべきではないかと考える。

(4)1時間の授業で勝負している。

○前時がどういう流れになっていたのか、そういうことは指導案に載せきれなかったであろうが、とにかく1時間の授業で勝負している気迫が伺えた。授業に没頭できる教師に私もなりたい。

(5)高学年は教科担任制をとっている。

○これからは、小学校もこういう形態がごく自然のように思われる。学級王国に浸っている先生がまだ多いと聞く。いつまでそんな状態で満足するのか。まさに独善的な自己満足でしかない。目の前にいる子供たちを全校の教師で見ていく目がこれからは必要のようだ。

(6)子どもは、知的である。??(語彙が多く、理論を組み立て発表できる)
 (別紙 道徳指導案参照−5年生の授業より)

主題名は、「手品師」(誠実・明朗)である。

前時に十分この資料を読ませてある。そして、「誠実とはいったい何か」について辞書を根拠に調べてくる子がいたり、あるいは、自分の体験から語る子がいたり、またあるいは、模造紙にまさに、大人顔負けのことを言っていた。また、手品師はすばらしいに終わらず、自分にとって「誠実とはこういうことだ」と「誠実論」を展開し発表する子が出てきたりと多様であった。果たして、全員の子が「共通の場」に立っていたかどうかは疑問であるが、その後先生は「自分へのメッセージを書きなさい」といってルーズリーフに書かせた。こどもたちは、自分へのメッセージ、資料との出会いにおける学びのメッセージを次のように答えた。

○ 「三角形のトライアングル・・・自分・約束・人間関係のバランスから」
(つまりこの子にとって、誠実とは、自分・約束・人間関係の3つのバランスから誠 実さをはかっているのである )

○自分の正しいと思った道へ

○人生大きな選択

○後の祭り

○夢か約束か

○手品師は手品師

○損して得 ・・・・・

「誠実」に対する思考の深まりは子どもたちの発言からわかったが、言っていることが難しかった。やさしく、直感的にものが言える子も大事にしたいと思う。

(7)見せる授業になってしまっている

○参観者が多すぎるためか、どうしても先生達(参観者)を意識した授業になってしま っている。(仕方ないことかもしれないが) 参観者へ子ども達が「ありがとうございました」と言っていたが、これは必要ない。むしろ、私たちの方がありがたく礼を言いたい方である。

(8)全校公開(全国公開)はすばらしい
○こういう意気込みがとても大事のように思えるし、刺激があっていい。刺激のないところは、停滞してしまったり、安定してしまったり、自分が見えなくなってしまうような錯覚に陥る。その結果、教師は、責任を子ども達に投げかけてみたり、その子の問題で片づけてしまいがちである。独善的になりやすい。子どもと対決すると言うことはどういうことなのか、表面的な現象面のみに心を奪われている以上、進歩はないのかもしれない。もう一度、改めて考えていきたい。
  「進みつつある教師のみ、人を教える権利あり」
波があって当たり前。子ども達に裏切られようとも、自分のプライドや見栄を捨て、さらには教師であることを忘れる、そんな「無」の状態に自分を落とし込んでいく厳しさが今教師に求められているかもしれない。
5.指導案(資料) (略)