駒ヶ根市中沢は、江戸時代高遠藩の元に置かれていました。
「寛永八年(1631)中澤郷中曽倉に重兵衛と云へるものゝ後家あり、早く夫に別れ単身孤立して家を守り居たりしが、或時城早と云ふ座頭と親しく情を交へて出入したり。然るに寛永十七年(1640)加賀国の生れにて小間物商四郎左衛門と云ふもの、遍歴して此の地に来り、何時しか又此の後家と交り同居して月日を送りたり。此の四郎左衛門は天下御法度の切支丹法を心得て奇怪なる事をなし、之れを平素の楽みとなし居たり。座頭城早は止むなく後家と情を断つ場合となりしかば四郎左衛門を遺恨に思ひ、早速其の趣を領主に訴へんものをと桃原院和尚と同道し、委細を述べしかば領主鳥居主膳正与力十五人を召捕に差向、名主忠市の助力を得て向ひしが四郎左衛門屈せず、種々魔術を行ひ千変萬化捕手の者は是れを見て捕ふる事能はずして引揚げたり。然れども四郎左衛門は我が天運茲につきたるなれば自首し、寛永二十年(1643)高遠山田河原に於て磔刑に処せられたり。而して四郎左衛門には此の時三歳の男子(後の丹瑞)あり、是れ迚ても餘族なれば死刑に処せらる筈の処、蔵澤寺和尚乾安音貞憐みて引取り佛門に入れたり。至って発明者にして終に其寺を継ぎしが、又親の気象を請け得て魔法を行ひ遂に蔵澤寺を退去せざるべからざるに至り、転じて山寺村常圓寺住職となり世人の信用も深かりき。されど茲にても魔法を行ひ、終に又領主鳥居侯の手に召捕られ、父と同じく山田河原にて死刑に処せられたりと傳はれり。」(『上伊那郡史』による)
というのが巷間に伝えられられた「事」の顛末である。「魔法を行い」云々は別として、寛永20年に父が「逆さつるしの刑」で処刑され、その子丹瑞は元禄10年(1697)閏2月4日女犯の罪で「はりつけ」に処せられた。60歳であった。
江戸時代、齢60の老僧が女犯をする事が出来るか否かは別として、おそらく、丹瑞を快く思わなかった寺の者の讒言にあったのではあるまいか。あるいは、最後の切支丹として処刑されたのかも知れない。
墓石の裏に、次の文が記されている。
「延宝二年十二月入院住職八年 当寺三世タルベキ人 当寺ヨリ伊那常円寺ヘ他山 出生当村西大津渡」 |