流人るにん 絵島えしまはか


絵島の墓域(2006年撮影)

絵島の墓碑

 大正5(1916)年7月。蓮華寺の山門をくぐる供を連れた男がいた。男の名は、当時作家として名を成した、田山花袋。山門から左に本堂の脇を通り、「七面堂」の前を右に行くと、夏草の盛りに茂る中に埋もれるように墓石が倒れていた。当時、絵島は「お上の仕置きを受けて流されて来た者」という認識しかなかったのであろう。夏草の中、倒れた小さな墓石を見た花袋は、しばらくその前にたたづんでいたという。
 私がはじめて絵島の墓に参でた時も、倒れてこそはいないものの上の写真で見るほどは整然とはしておらず、夏草の中に「よくもまぁ、こじんまりと」という印象であった。
   
 絵島生島 大奥御年寄絵島が、正徳4年(1714)正月14日、増上寺代参の帰途、当時人気絶頂の歌舞伎役者生島新五郎出演の山村座に立ち寄ったことが露見し、絵島は信州高遠へ、生島は三宅島へ流され、そのほか処罰者は大奥・御用商人・歌舞伎界に及んで千五百人にものぼった。絵島は28年間の囲屋敷幽閉の末病没、生島は絵島没後許されて翌年江戸で没したとも、三宅島で病死したとも伝えられる。・・・幼将軍家継の生母月光院と前将軍家宣の正室天英院の対立、側用人間部詮房と幕府重鎮等の確執があり、絵島はその権力闘争の好餌とされたというのが今日大方の見方である。(この項『日本伝奇伝説大辞典』角川書店 による。)

 今井邦子歌碑

 今井邦子(いまい くにこ) 明治23年(1890)5月31日〜昭和23年(1948)7月15日。歌人。徳島市生まれ。父は長野県諏訪の人山田邦彦。3歳のとき下諏訪に移住。明治40年ころ「女子文学」に投稿。諏訪高女を卒え文学を志し上京、(中略)島木赤彦に師事、アララギに入る。(中略)昭和11年主宰して雑誌「明日香」創刊。昭和の代表的女流歌人の位置に立った。(『日本近代文学大辞典』講談社 による。)
 遠く異郷の地で寂しく病に果てた絵島を哀れんだ今井邦子は、再三絵島の墓を訪れたが、絵島没後200年忌にあたる昭和15年(1940)次のような短歌を残しました。
   向う谷に陽かけるはやしこの山に絵島は生きの心堪えにし
「老女絵島逝きて二百年今や墓碑と二・三の遺品を残すのみ 遺跡漸く煙滅せんとて弔ふものもなし 吾等同志相図り老女の研究家今井邦子を聘し二百年遠忌を営み追悼講演会を開き更に乞うて慈に歌碑を建立す 昭和十五年七月十六日 原義次・原手留貴」とあります。



今井邦子歌碑


女人成仏像
旧囲み屋敷跡(長谷 火打平)

 信州高遠に流刑された絵島は、正徳4年(1714)5月非持村火打平(現伊那市長谷)という所に幽閉されたが、享保4年(1719)高遠の城近く、花畑という所に新たに囲み屋敷を築き、此処に幽閉された。寛保3年(1743)4月病を得て亡くなるまでの29年を流人として、囲み屋敷より一歩も出ることなく過ごしたということです。
 「自分は、日蓮宗の信者であるから法華の寺に葬ってほしい」という遺言により、蓮華寺に葬られたそうです。
 同じ高遠の山室という所に遠照寺という日蓮宗の寺があり、ここに分骨され絵島のお墓があります。


復元された絵島囲屋敷(1970年代に撮影)

絵島の墓(1970年代の姿)
分骨墓(山室遠照寺)


絵島が使っていたという香炉(高遠郷土館蔵)