天竜川舟着場
文政12年(1829)、御子柴村の孫市及び木下村の弥四郎とにより、天竜川通船が始められた。合計42里半の行程にたいし、下りに2日、上りに6日と往復8日間もかかる上船頭も4人必要とされ、諸経費を除くと儲けが少なく、天保6年(1835)には休業に追い込まれてしまいました。
その後、大阪の信濃屋三四郎が孫市の借財を引き受けて通船を継承しましたが、これも休船のやむなきにいたりました。
天竜川は長野県の諏訪湖を源として中央・南アルプスの間を南下し、さらに奥三河(愛知県)、北遠(静岡県)の山岳地帯、遠州平野(静岡県)を流下し太平洋に注ぐ、流域面積5,090km2、幹川延長213kmの我が国屈指の急流河川です。 脆弱な地層、急峻な地形と相まって、今まで幾多の洪水災害に見舞われてきました。
とくに天竜峡から下流には難所が多く、遠州の筏乗りが遭難したり、廻米船が難破したりと、事故は数え切れず、遭難をさけるため、廻船業者にとって川普請は欠かせない仕事であって、その経費は大きいものでした。しかし、そうした困難を克服しながら天竜川通船は経営者の様々な交代によって明治になって次第に盛んとなっていきます。
おもな船着場には入舟(伊那市)・時俣(飯田市)・満島(天龍村)などがあり、そこには問屋・船頭宿・旅籠屋などがありました。
しかし、明治30年頃衰退し今は、「天竜舟下り」としてわずかにその姿をとどめています。
【ドラゴンボール】
いつの頃か忘れてしまったが、伊那の町もドーナツ化現象というのでさびれてしまい、地域活性化というので、大きな竜神様を模ったモニュメントを作ったのじゃ。はじめは、夜になるとお尻のサーチライトの光が天にも届き、首の玉の時計が毎正時になると、目を赤く点滅させながら頭を横に動かしたものじゃ。
ところが、世の中バブルがはじけると、いつの間にかサーチライトを点けなくなり、時計も止まったまま幾季節か放置されておったが、とうとう文字盤に蓋をされ「ドラゴンボール」になってしまった、という話。
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