五郎山ごろうざん (仁科五郎盛信にしなごろうもりのぶの祠ほこら)
仁科氏は、桓武平氏貞盛の末裔盛遠のとき仁科を名乗ったのが始まりといわれている。盛遠は武田家の旗下に入ったが、川中島の合戦のとき上杉に寝返ったため武田信玄により処刑された。が、名家を断絶するに忍びない、と信玄は五男に名跡を継がせた。これが、仁科五郎盛信である。盛信は、信玄の死後異母兄勝頼に使え、高遠城の守備を任された。 天正10年3月2日、織田信忠率いる6万の軍勢により、守勢わずか3千の高遠勢は最後の抵抗の後、盛信は自害し城兵ことごとく最期を遂げた。 後、勝間村の百姓たちは、盛信の遺骸を火葬にし、三峰川をはさんで高遠城を眼下に見下ろす山の頂に埋葬し祠を建てた。今にいう「五郎山」である。同時に戦死した、副将である小山田備中や渡辺金太夫・諏訪荘右衛門女房はななどを祀った祠もある。