文覚上人の墓

『新著聞集』という江戸時代に刊行(寛延二年(1749))された書物に、次のような記事があります。

      〇文覚旧蹟
信州高遠の文明寺今峯山寺といふ。此寺の不動尊は、文覚上人の自作なりといへり。建福寺には、独鈷水といへる井あり。これも上人のほりたまひしとかや。常恩寺、今は蓮華寺といふ。これには上人の塚ありし。此処にて身まかりたまひしにや。(『日本随筆大成』巻5 による)

 

 文覚上人の生涯・人となりについては、Wikipediaとか各種人物辞(事)典や、下記の書物を読んでいただけるとよいかと思います。
    〇 『文覚』 山田昭全著 吉川弘文館 人物叢書
    〇 『文學上人一代記』 相原精次著 成蛙房
 ただ、文覚上人の終焉の地はどこか、となると諸説紛々で謎に包まれていますが、よく知られているのが京都神護寺にある文覚上人墓。他に佐渡・隠岐・対馬・岐阜県恵那市それと『新著聞集』を信ずれば信州高遠ということになります。
 蓮華寺は、始め「長遠寺」といって延文5年(1360)開創、寺地も藤澤郷北原にありました。慶長6年(1601)保科正光により高遠町勢利町(現横町)に移り、さらに慶安4年(1651)今の場所に移転されました(『信州高遠の史跡と文化財』による)。ただし、蓮華寺のオフィシャルサイトによれば、その創建は嘉暦元年(1326)に妙實上人により草創、高遠城下に寺院を建立となっています。
 文覚が後鳥羽院と対立し対馬に流罪されたのが建仁3年(1203)2月13日(『文覚』山田昭全著による)、蓮華寺の草創にさかのぼる事120年余り前のこと。その頃の高遠城(館)がどこにあったのかはわかりませんが、いま蓮華寺があるあたりに常恩寺というお寺があったとしても不思議ではありません。また、蓮華寺と香福寺との背後にある山を「城山」と呼び、『木の下蔭』という書にも
 「同村のうへに城山といふありもと二三の郭塹塁の跡あり南の方少し下りて用水の跡水を湛へたりいかなることにや牛淵と號く」
とあって、古くからここに城跡があったことが知られる。もしかすると、今の高遠城の前にここに高遠の城館があったのかもしれない。
 文覚は、対馬に配流される途上歿したとされる。いま常恩寺の位置は特定できないが、延命院跡とあるあたりにかつての常恩寺があったのか、そして、文覚上人の塚もそのあたりにあったのかもしれません。(上図は、各寺院の配置図です)