宗良親王墓(御山)

(伊那市長谷溝口 常福寺))

 
御山の遺跡(伊那市教育委員会)

 古来この丘を「みやま」と呼び、明治中頃までは老杉が生い繁っていた。御山に登ると足が腫れるといわれていたので、ここに近づく者はなかったという。
 明治の中頃、御山北側の小犬沢で頭の丸い石碑とその近くにあった臼型の台石らしいものとを、沢に近い家の人が発見した。常福寺住職に相談したところ、円形だから僧侶のものだろうといって寺の墓地に安置した。
 昭和6年5月12日、郷土史家「唐沢貞次郎」「長坂熙」の両氏が詳細に調査したところ、墓石正面に16弁の菊花御紋章があり、その下に「尊澄法親王」その左側面に「元中二乙丑十月一日尹良」と刻んであるのを判読した。尊澄法親王は宗良親王の法名であり、尹良は宗良の王子であることが明らかにされた。
 その後区民は宗良親王の遺跡であると信じ、毎年春秋二回年ごろに法要を営んでいる。
 御山の遺跡関係資料は、常福寺本堂内に展示されている。
(文章は、伊那市教育委員会設置の説明板による)

宗良親王

 応永元年(1311)−没年未詳。後醍醐天皇の皇子。妙法院門跡から天台座主となり、後還俗して宗良と改名し南北朝の騒乱の中信州を本拠として南朝方の主要人物として転戦。
 南朝歌壇の指導者としても活躍。歌集に『李花集』があり、また、『新葉和歌集』(弘和元年(1381))を撰進した。
  ◎君のため世のためなにかをしからん
     すてゝかひある命なりせば(『新葉和歌集』1232)
 詞書に、「おなじ頃 武蔵国へうちこへて こてさしばらといふ所におりゐて 手分などし侍し時 いさみあるべきよし つはものどもにめし仰侍しついでに 思ひつゞけ侍し」とある。
  ◎我を世にありやととはゞ信濃なる
     伊那とこたへよ嶺の松風(『李花集』721)
 詞書に「信濃国伊那と申山里に 年経て住侍しかば 今はいづかたの音信も絶はてゝ 同じ世にありともきかればやなどおぼえし頃 よみ侍ける」とある。

 右の写真は、常福寺にある遺物。

 ※引用歌は、『宗良親王全集』(甲陽書房)による。
 
曹洞宗 太平山常福禅寺 永禄二年(1559 室町時代)創建
 

常福寺・熱田神社・八人塚