孝行猿の物語

(伊那市長谷柏木)

「猿子、親を療して人心を感発す」(『新著聞集』) 

 信州下伊奈郡入野谷村の者、冬の日、猟に出、不仕合にて帰る道の大木に、大猿の居たりしを、これ究竟の事なりとて討けり。夜に入、宿につき、明日皮を剥なん、凍ては剥がたしとて、囲炉裏のうへに釣おきぬ。深更に目をさましみれば、いけておきし火影、みへつ隠れつするを不審しくおもひ、能々うかがひ見れば、子猿、親の脇下にとりつき居けるが、一匹づゝかはるがはるおりて、火にて手をあぶり、親猿の鉄砲疵をあたゝめしを見るより、哀さかぎりなくて、我いかなれば、身一ツたてんとて、かゝる情なき事をなしつと、先非を悔て、翌日、頓て女房にいとまをとらせて、頭をそり世をのがれ、一心不乱の念仏者となり、諸国行脚に出しとなん。(「日本随筆大成」による)
 ※信州下伊奈郡入野谷村は、上伊那郡入野谷村(現伊那市長谷柏木)。


 下の写真は、「入野谷生涯学習センター」玄関脇の「孝行猿」碑

「孝行猿」の詳細については、下記ホームページへどうぞ。
  http://www.cbr.mlit.go.jp/mibuso/siryou_kan/05saru.html

「オヤ ヲ タイセツ ニ セヨ」の絵

尋常小学修身書(大正7年(復刻版による))
山ノ神の祠と孝行猿記念碑(2009年2月19日写)
 

 神谷養勇軒の『新著聞集』が刊行されたのが寛延2年(1749)。その後、猟師の家を継いだ高坂勘助は親猿を埋葬した松の木の根元に「山ノ神」の祠を建てました。
 写真向かって右側の小さな石の祠が「山ノ神」の祠です。
 その後、明治・大正・昭和の三代に渡って、小学校の修身の教材として取り上げられました。左側「孝行猿の遺跡」の碑に修身書の文が刻まれています。
 オヤザル ガ ウタレマシタ コザルガ タスケヨウ ト オモッテ 口デ テヲアブッテ オヤザルノ キズグチヲ アタタメテイマス