白竜の水(高遠 桂泉院「桂水」)


桂泉院全景(後方の山は月蔵山)
龍澤山桂泉院(高遠 東高遠)

 高遠城址公園の裏を登っていくと、いくつか寺がありますが、そのうちの一つが桂泉院です。言い伝えによると、この寺は古くは高遠城内にあって「法堂院」と言っていたそうです。
 武田信玄の家臣内藤信量の男子廣淋和尚という人の創建になる寺だそうですが、この廣淋和尚高徳の名高く、慕って寺に参ろうとしても高遠城内にあるため寺に入ることもできず、また、思うように教化することもできない、という状態でした。そこで、城外の龍ヶ澤という所に寺を移した、ということだそうです。


桂水
桂水のこと

 城外の龍ヶ澤に寺を移したある夜、和尚の枕許へ白髪の老人が現はれ、「有難い戒法を授けて呉れ」と和尚に頼みました。和尚は喜んで早速戒を授けると、老人は忽ち白龍に変って池の中へ消えて行きました。その時其処に泉ができ、美くしい清水が滾滾と湧き出るようになりました。これが即はち「桂井の水(桂水)」です。お殿様はその話を聞いて大へんに感心し、早速法堂院を城内から此の地へ移して寺号も龍澤山桂泉院と改めました

梵鐘のこと
 

この寺の梵鐘は、もと下伊那郡川路村開善寺のものであった。天正十年織田の軍勢が下條口より伊那へ侵入した時、此の釣鐘をはづして陣鐘に用い、とうとう此処まで擔いで来て此の寺へ置いて行ったものといわれています。『信州伊那郡上川路疊秀山開善寺文和乙未四年八月六旦云々』の銘があります。
 写真で見るように、「乳(にゅう)」が欠けていたり、穴が開いていたり、ひびが入っていたりで、そのため大晦日にしか撞かないそうです。
 武田信玄の命により山本勘介が高遠城を縄張りするとき、この地に立って行なったと伝えられており、寺の一段下のところに「勘介桜」なる桜の木があります。

 この地は、城の生命とも言うべき「水源」と城との間にあり、また、眼下に城を見下ろすことができる 高台にあることから、水を確保するために寺を移転し、なお「白龍」の言い伝えなどによりさらに寺を守ったのではないかとも考えられます。
 寺の裏手、武田信虎の墓に通じる急な坂道に途中に、高遠城に水を送った土管の一部が露出していました。

武田信虎の墓

 2007年(平成19)、NHK大河ドラマ「風林火山」の影響であろうか、この寺域から武田信虎の墓が発見されました。
 解説看板には「信虎公は天文10年嫡子信玄と家臣団に追放され諸国を遍歴し、永禄9年城主勝頼の時高遠にくる。城主信綱の時天正2年(1574)3月5日81歳で高遠で歿す。霊牌を法幢院に納め法幢院殿泰雲公康大居士と号す。遺骨は法幢院と甲斐の大泉寺に葬る。墓は桂泉院の裏山にある古い蘭塔である」と記されています。

 
塚原卜傳の碑

 塚原卜傳は、戦国末期の剣客。常陸(現茨城県)の人。新当流の流祖。真剣試合19度、合戦に出ること39度、その間一度も不覚を取ることがなかったという。「無手勝流」(落語『巌流島』古典落語 講談社刊)の話でも知られる。
 江戸時代、高遠藩の武士が卜傳の剣にあやかろうとし、卜傳の位牌を納め碑を建立したのが右の写真です。
 鐘楼の前にあります。

 
 
 准胝観世音菩薩(守屋貞治作)
 
 聖観世音菩薩(同)
延命地蔵大菩薩(同)