『吾妻鏡』巻13には、以下のように記述されている。
建久4年5月29日、甲午、辰剋、曽我五郎を御前の庭上に召出さる。(中略)内々御猶予有りと雖も、祐経の息童字は犬房丸泣いて愁へ申すに依り、五郎年二十を亘さる、鎮西中太と号するの男を以て、則ち梟首せしむと云々、(岩波文庫による) |
これによれば頼朝は、曽我五郎を救おうと思ってはいたが、犬房丸の愁訴を受け入れ、曽我五郎を犬坊丸に下げ渡し、犬坊丸の手によって梟首したことになっている。また、前後の条々を見ても犬房丸が伊那の地に流された記述はない。続けて、三七日目の『吾妻鏡』には、
建久4年6月18日、癸丑、故曽我十郎の妾、大磯の虎、除髪せずと雖も、黒衣の袈裟を着す、亡夫の忌辰を迎へ、筥根山の別当行実坊に於て仏事を修す、和字の諷誦文捧げ、葦毛の馬一疋を引き、唱導の施物等と為す、件の馬は、祐成の最後に、虎に与ふる所なり、則ち今日出家を遂げ、信濃国善光寺に赴く、時に年19歳なり、見分の緇素(僧俗)悲涙を拭はざる莫しと云々、 |
さて、犬房丸はどうなったかというと、元服後伊東祐時と名乗り、鎌倉将軍の近くに仕え、嘉禄3年の大内裏焼亡のときには将軍の使いとして上洛。従五位下、検非違使左衛門尉、大和守を歴任し、子孫は日向国飫肥藩主として明治を迎えて子爵となっている。
|