犬房丸の墓

(伊那市西春近小出)

 小出村轉法山常輪寺開基犬房丸其嚮は建久年中冶大將頼朝の頃工藤左衛門尉祐経親の敵たるによりて曾我兄弟討之五郎時致生捕られ引出されたる時犬房丸時致の面を打幼少成といへども武士の法を知らざる罪に依て此小出島に配流せらる今城と云ふ所其ころ犬房丸の屋敷跡なり此屋敷より鬼門に當る東方といふ所に佛宇一ケ寺を建立す其頃今の寺地より二町ばかり北の方に大通寺といふ古き寺ありて住僧もなく廃壊に及ぶ依て此寺を東方へ移して大通山常輪寺と號す本尊は犬房丸の本尊十一面親音を安置す則今の本尊是なり鎌倉より辨宗禅師といふ僧來て建仁二壬戌年八月八日入院す一住の聞廿八年文暦元甲午年二月十一日遷化す後席從弟辨明相続す犬房丸は貞永元壬辰年六月甘六日卒す遺命に依て西の山本に葬り墳を築き塔を建開基大通院殿覺翁常輪大居士と称す辨明一往の間三十二年文永四丁卯年六月廿日遷化す大明諸事を宰りぬ此頃まで山林田畑除地なり其後世の乱れ領主に掠られ山林田畑も亡失す徳永と云ふ僧再興の志願ありといへども功ならず寂す其後は衣躰のいとなみもなく既に退転に及ばんとす其後星霜はるかに隔り名のみばかりなりしを本山護法山常圓寺五世造天和尚この地に至り見るにたへず再興し寺を今の所に移し山を轉法山と改め智識とし則造天和尚を中興の開基と崇め代々退転なく今に相続す。(『木の下蔭』より)

 
犬房丸の墓(全景)

奥に見える白い壁は中央自動車国道

墓前の案内板

(犬坊丸の伝説については『新著聞集』巻第六 勝蹟篇を御覧ください。)

  『吾妻鏡』巻13には、以下のように記述されている。

建久4年5月29日、甲午、辰剋、曽我五郎を御前の庭上に召出さる。(中略)内々御猶予有りと雖も、祐経の息童字は犬房丸泣いて愁へ申すに依り、五郎年二十を亘さる、鎮西中太と号するの男を以て、則ち梟首せしむと云々、(岩波文庫による) 

  これによれば頼朝は、曽我五郎を救おうと思ってはいたが、犬房丸の愁訴を受け入れ、曽我五郎を犬坊丸に下げ渡し、犬坊丸の手によって梟首したことになっている。また、前後の条々を見ても犬房丸が伊那の地に流された記述はない。続けて、三七日目の『吾妻鏡』には、

 建久4年6月18日、癸丑、故曽我十郎の妾、大磯の虎、除髪せずと雖も、黒衣の袈裟を着す、亡夫の忌辰を迎へ、筥根山の別当行実坊に於て仏事を修す、和字の諷誦文捧げ、葦毛の馬一疋を引き、唱導の施物等と為す、件の馬は、祐成の最後に、虎に与ふる所なり、則ち今日出家を遂げ、信濃国善光寺に赴く、時に年19歳なり、見分の緇素しそ(僧俗)悲涙を拭はざる莫しと云々、

  さて、犬房丸はどうなったかというと、元服後伊東祐時と名乗り、鎌倉将軍の近くに仕え、嘉禄3年の大内裏焼亡のときには将軍の使いとして上洛。従五位下、検非違使左衛門尉、大和守を歴任し、子孫は日向国飫肥藩主として明治を迎えて子爵となっている。