原井大明神はらいだいみょうじん

伊那市高遠町小原


 『高藩探勝』より「神明風光」 

  2006年3月31日に合併したので、今は伊那市高遠町小原に、かつて「神明社」という社があって、社を取り囲む「神明の森」と呼ばれる社叢がありました。『木の下蔭』という書物には次のように記されています。
「一 櫻の馬場の北に神明の森とて方一町ばかりの松森ありて神明の社ありいかなる謂にや伊勢御師御炊太夫の持にして除地なり」
 神明社は1908年(明治41)1月28日に、地域の数社とともに同じ小原にある「八幡社」に合祀され、それとともに「神明の森」も、明治の末年か大正の始め頃に無くなり、畑にと姿を変えていき、さらに、県営・市営の住宅へと姿を変えています。
 「神明の風光」に書かれている歌
   ひかりそふ まつものどけき かみかぜや
   もりのしめなは よよになびきて
 その住宅の入口の道路の片隅、桜の木の根元に「原井大明神」の石碑があります。
 

  石碑の裏に建立のいきさつが記されています。曰く
 「小原の地水に乏し。平原土墾開すべき者棄てて省みず。有司甚だ憾む。安政中、伊東伝兵衛なる者、官に建言し鳶沢を導き清福寺に至って業成らず。さらに白山を越え四谷に至って猶未だならず。ここに於いて衆また来たって余に謀る。余もとより大業の墜廃するを憾む。(以下略) 慶応二年太田立斎」とあります。
 太田立斎は、文政11年(1828)高遠の生まれ。長崎において蘭学を修め、さらに西洋流の医学を学び、高遠藩に典医として使えながら庶民の治療にあたった。また、医業のかたわら農業用水の開発に尽力し、文久3年(1863)に頓挫していた小原井筋の造築を手がけ、これを苦心の末慶応2年(1866)に完成させました。
 これにより、それまで畑であったものが水田に生まれ変わり「炊烟四方に起る。」とあります。そこで石碑を建て、河伯(水神)を祭り、「原井大明神」と名付けた、とあります。石碑を建てた頃には神明社と、その社叢である神明の森が鬱蒼としていたことと思われます。

 

原井大明神碑
 
墓碑